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6 彼岸花

 一度気になってしまうと、答えを知りたくなる――それが人間の性だろう。

 昨日の出会いがどうしても頭から離れず、気づけば私はまた海岸へ足を運んでいた。

 第一印象では関わりたくないと思っていたはずなのに。


 祖父母の家から海岸までは徒歩で約30分。

 足元には朝露で少し湿った道が続き、息を吐けば白い蒸気が冬の空気に溶けていく。

 遠くの山々は淡く青く霞み、瓦屋根が朝日にきらめく。

 その景色を眺めながら歩くうち、冷たかった空気が少しだけ柔らいでいく気がした。


 海岸が近づくと、潮の香りが風に混ざり、頬をかすかに刺す冷たさの中に湿った砂の匂いが漂っていた。

 波打ち際では小石同士が触れ合う乾いた音が微かに響く。

 遠くでは鳥が鳴いているようだった。


 防波堤には釣り人が立ち、竿先をゆらゆら揺らしていた。

 チラリと見えたバケツの中には数匹の魚が泳いでいた。


 昨日と同じ場所を見やる。

 そこに彼の姿があった。

 こちらに気づいた彼は、海を背景に大きく手を振った。

 私も手を振り返し、彼のそばに行くために足を進める。


 赤い遊歩道の下には、魚の鱗のように重なった岩の階段があり、白い砂浜へと続いていた。

 砂の上には、小さな貝殻が点々と散らばっている。


 風が吹き抜けるたび、細かな砂が足元をさらう。

 さらさらの砂が靴の中に入り込み、歩くたびに気持ちが悪い。


 少しでも砂が入らないよう、私は足元を気にしながら慎重に歩いた。


 そんな私とは対照的に、彼はまったく気にする様子もなく駆け寄ってくる。

 そして目の前に立つと、軽く片手を上げた。


「ミト、おはよー」


「おはよう。あんた、靴に砂入ってないの?」


「んー、砂だらけだよ」


 彼は片方の靴を脱ぐと、逆さにした。

 そして、“ほら”と見せびらかすように、靴の中の砂を落とす。


「ここだとまた砂が入るから、あっちに行こう」


 葵葉は遊歩道の方を指差した。

 私はその後に続くように、来た道を少し戻る。


 その短い間にも海風は吹きやまず、体をどんどん冷やしていった。


 私はポケットに手を突っ込み、カイロを握りしめる。

 その部分を暖かく感じるが、皮膚が出てる部分はやはり寒い。


 チラリと彼を見る。

 彼は寒さを気にする様子もなく、指先で横髪を耳にかけただけだった。

 同じ人間に見えるのに、どこか別の生き物のようで――その対照的な姿に、私は薄ら寒い違和感を覚えた。

 胸の奥を、小さな緊張が走る。


 それなのに、不思議だった。

 昨日、ほんの少し言葉を交わしただけの相手なのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。

 心臓の奥で、落ち着かない鼓動が静かに速くなる。


「昨日以来だね」


「そうだね」


 昨日は名前を聞きそびれたまま別れてしまった。

 遠ざかる背中を見つめながら、胸の奥で名前を聞けなかったことが妙に気にかかっていたのを覚えている。

 だから今日は、最初にそれを確かめようと心に決めていた。


「ねえ、あんたの名前は?」


「あれっ、僕言ってなかったっけ?」


「聞いてない」


「えっ、ごめん!自分から名乗らないで、相手の名前聞いちゃうなんて、僕、失礼だった」


 一人慌てる彼を見て、昨日の自分の姿を思い出す。

 心の中でくすりと笑い、少しだけ気持ちが和らいだ。


「いや、別に気にしなくて大丈夫だから」


「それならよかった」


 彼は安心したように一息つき、微笑んだ。

 その笑顔に、私は思わず目を奪われた。


「僕の名前はアオバ。花の葵に葉っぱの葉で、葵葉。好きに呼んでね」


「なら、葵葉って呼ばせてもらうね」


 葵葉は微笑むと、後ろで組んだ手にきゅっと力を込めた。


「葵葉はこの数字の意味を知ってるんだよな?」


「うん。じゃー、昨日言った通り僕が知ってることを説明するね」


「ありがとう」


 これからの話が長くなりそうだと察して、私たちは海沿いのカフェへに向かって歩いた。

 海が見えるテラス席が人気の店で、開店間際の店内には柔らかな光が差し込んでいた。

 木製のパーテーションで仕切られた半個室の二階席に座ると、足元のラタンマットの感触が少し温かく、外の冷たい空気との対比で安心感があった。

 微かに漂うコーヒーの香りも、心を落ち着ける効果があった。


「ちょっと辛いけど、美味しいー!」


 ロングコートを着た葵葉はカレーを口に運び、そのまま二口目を頬張る。

 ミトは思わず心の中で、“味覚はあるんだな”と呟いた。

 視覚も聴覚も問題なさそうだと分かると、触覚や温度感覚に何か特異なものがあるのかもしれない――そんなことを無意識に考えてしまう自分に、苦笑する。


 仲のいい友人以外にはあまり興味が湧かない自分が、出会って二日目の彼をこんなふうに観察している。

 変だと思いつつも、昨日のおかしな出会いを思い出せば、無理もないのかもしれないと思い直す。

 それだけ印象深い出会い方だったのだ。


 葵葉は今日も、半袖に半ズボンという冬の空気には不釣り合いな服装で現れた。

 念のために持ってきたロングコートを、さっと羽織らせたのは先ほどのことである。

 まさか冬だと分かってもこの格好で来るとは思わなかった。

 このままでは通りすがりの人の視線を集めてしまう。

 そう考えると、やはり持ってきてよかった、と心底思った。


 ミトはカフェオレを口に含み、視界に入る葵葉の手元へ目をやる。

 そこに浮かぶ花数字。


 昨日は“7”だったのに、今朝は“6”に変わっていた。

 それを見ていることに気づいた葵葉が言った。


「これね、カウントダウンだよ」


「カウントダウン?」


「僕がこの世界にいられる日数なんだ」


 意味がわからず、思わず眉を顰めた。


「その説明を始める前に、まずは僕のことを説明しないとだね。まず僕はこの世界の人間じゃありません」


「は?」


「うん、そんな反応するよね」


 葵葉はニコニコと笑って頬杖をつく。


「僕はパラレルワールドからきた人間なんだ。そうだな、わかりやすく言うと異世界転移ってやつかな」


 突然そんな意味不明なことを言われて困惑する。

 そんなフィックションの設定を言われても、“はい、そうなんですね”とはならない。


「ミトはわかりやすいね。何言ってんだコイツって顔をしてる」


「そりゃー、私をおちょくってるようにしか聞こえないからな」


「本当なのにー。まあ、そう思うのは仕方がないんだろうけどね」


 葵葉は自分の手元を軽く指した。

 ミトは、つられるように花数字を見る。


「この数字は、僕がこの世界に滞在できる残り日数。七日間いれるんだ。だから、今日からあと六日間ってことだね」


「……今日が26だから、31までってこと?」


「そうそう」


 ――異世界転移。

 まるでファンタジー物語だ。

 漫画や小説、アニメではよくみる設定。

 だから、その単語の意味も理解はできるし、イメージもできる。

 だが、それは空想の中の世界であって、現実味はない。

 そんなミトの様子を察したのか、葵葉は困ったように笑った。


「まあ、こればかりは信じて、って言うしかないんだけどね」


 嘘をついているようには見えない葵葉の表情を見て、ミトは心を落ち着かせるように大きく息を吐いた。


「まあ、一旦頭を整理してみてよ。それで、とりあえずは信じる気になったら教えて。これ以上の話は、信じた前提でなければ進んでかないからさ」


「……わかった」


 葵葉は頷くと再びスプーンを手にする。


「ん、美味しい。久しぶりにカレー食べたな」


 美味しそうに食べ始めた葵葉を横目に、私はとりあえず彼の言う通り頭を整理することにした。

 とりあえず信じるという方向で。


 “パラレルワールド”、“七日間”、“カウントダウン”……

 重要なキーワードを繰り返しながら、彼の話を頭に落とし込んでいく。

 違和感は残るが、とりあえず続きの話を聞く気になれたので顔を上げると、葵葉は既にカレーを食べ終えるところだった。


「ご馳走様でした。美味しかったな。それで、ミトは整理ついた?」


「ああ」


「それならよかった」


「なあ」


「ん?」


「なんで、私の手にもこれがあるわけ?」


 話を聞く限り、葵葉の滞在期間なら私には関係ないはずだ。

 無関係な自分が巻き込まれた理由がわからない。


「それはミトが“しるべ”だからだよ」


「しるべ?」


「そう。僕がこの世界に来るための目印となったのがミトなんだ。

 だから、(しるべ)であるミトにも花数字があるってわけ」


「私が標に選ばれた理由は?」


「それは……なんでだろうね?」


「はあ?」


「そういう運だったからとかかな」


 あやふやなことを言われ、ミトはため息を吐きたくなった。

 運でこんな非現実的なことに巻き込まれてたまるかと思うが、受け入れるしかないのだろう。


「……じゃー、この花模様は何?これ、彼岸花だろ」


 形が良さ特殊なので私でもすぐに分かった。

 真っ赤な細い花びらが、火花みたいに広がって咲いてる花。


「うん、僕も彼岸花だと思う。花模様は……何を基準に選んでいるんだろう?」


 葵葉は特に気にしてもいなかったようで首をかしげた。

 その仕草に私は頭を抱えた。


「知らないのか」


「ごめんね」


 説明するというから来たのに、どうやら答えられないようだ。


 花のイメージ……そう言われて思いつくのは限られてくる。


「パッと思いつくのは花言葉か。この模様に意味があるならだけど……」


 さっきみたいに偶然選ばれたのなら、考えても無駄だが。


「確かに一番可能性が高いのは花言葉だね。色も昨日と同じだから意味はなさそうだし」


 彼岸花は“怖い、“”不吉”といったネガティブなイメージがある。

 墓地や彼岸の時期に咲くことから、死や別れを連想させる意味合いが強いからだ。


 でも、葵葉はどちらかというとポジティブなイメージを持っているようだった。


「彼岸花って面白いよね」


「面白い?」


「うん。色鮮やかで綺麗だし、形も独特で唯一の花って感じ。なんか特別感があるよね。それに国によって印象が真逆なのも面白い。日本ではマイナスなイメージを持たれやすいけど、海外だとプラスなイメージを持たれる花だ。文化的背景や民族信仰とかの影響だろうね」


 花に詳しくないミトからしたら、初めて知る情報だった。


「ミトはさ、彼岸花の花言葉知ってる?」


「いや……」


「1つも?」


「ああ」


「なら、調べてみなよ。彼岸花っていろんな花言葉があるんだよ」


 葵葉に催促されたミトは言われるがままにしまっていた携帯を取り出すと、検索アプリを起動した。


 “彼岸花”、“花言葉”。

 キーワードを入力して検索すると、トップに5つの花言葉が表示された。


「情熱、独立、悲しい思い出、あきらめ、また会う日を楽しみに」


 一つずつ読み上げると、葵葉は「うん」と頷いた。


「代表的な花言葉はそれだね。あとは、色によっても変わるかな。陽気とか妖艶、楽しむとかもあるよ」


「詳しいな」


「まあね。よく本を読んでたから」


 葵葉がカレーを食べ終えたのを見届けると、ミトは店員を呼び、それぞれ食後のドリンクを注文した。


「じゃあ、昨日は?」


「昨日はね、シオンっていう花だと思うよ」


 検索欄を“彼岸花”から“シオン”に切り替える。

 すると、背の高い薄紫の小菊が群れて咲いた写真が表示された。


「追憶、あなたを忘れない、遠くにある人を想う」


「あとは、時が経つのを忘れて。ごきげんよう。どこまでも清く、って意味もあるね」


「なるほど……シオンは“別れと記憶”、彼岸花は“別れと再会”か」


「そうだね」


 ――どれも、別れにまつわる言葉ばかりだ。

 もしこれが、葵葉との別れのカウントダウンだとするなら……意味は通る。


 注文したドリンクが届くと、ミトは一度息をつき、頭の中を整理する。

 カップを両手で包み込むと、かすかな温もりがじわりと指先に伝わった。


 ふと視線を上げると、葵葉はカップの縁を見つめたまま黙り込んでいた。

 表情は穏やかなのに、どこか迷っているようにも見える。


 私が口を開く前に、彼は小さく息を吸い込んだ。


「ミトにお願いがあるんだ」


 葵葉はカップに視線を落とし、指先でそっと縁をなぞる。

 何か大切なことを言おうとしているのが、その仕草から伝わってきた。


「何?」


 私はそっと問い返した。


「僕がこの世界にいる間は毎日会って、話をして欲しいんだ」


 葵葉は両手のカップを包む指先にわずかな力を込めた。

 私は思わず瞬きをする。


「毎日ってどうして?」


 葵葉は小さく息を吸って続けた。


「僕がこの世界に存在できるのは、ミトーー“導”から得られるエネルギーのおかげなんだ。だからミトと会うことで、僕の存在は安定する」


「エネルギー?」


「まるで火が燃え続けるための燃料が必要なように、ミトは僕にとって生きるためのエネルギーなんだ」


 その説明を聞きながら、胸の奥で何かが重く動くのを感じた。

 それは驚きや恐怖とは違う、説明のつかない感覚だった。


「だから、会わなければ僕の存在が揺らいでしまう」


 声を出そうとしても、喉の奥で絡まってしまい、ただの葵葉を見つめるしかできなかった。


「カウントダウンの数字は、毎日ミトと会えた場合に維持できる日数なんだ」


「……つまり、私と会わなければ短くなるってことか?」


 葵葉は静かに頷いた。

 その答えに唇を噛み、思わず聞き返した。


「もし、私が会わなくて……滞在日数が減ったら、どうなる?」


 私は息を詰めた。

 自分が誰かの「存在」を支えている――その事実が、現実の輪郭を少しだけ歪ませた。


 葵葉は一瞬だけ目を伏せ、静かに答えた。


「本来の滞在日数を維持できなかったら、僕は元の世界に戻ることもできず、そのまま消える」


 私はしばらく黙ったまま、カップを握りしめていた。

 胸の奥で、ずっしりと重い感覚が広がっていく。

 標の存在がそこまで重要だなんて思いもしなかった。


「まさかそんな重要な役割だったなんて……」


 思わず小さく呟く。

 運でそんな大役に選ばれるなんて、想像もしていなかった。


 小さな声だったが、葵葉にははっきり聞こえたらしく、彼は申し訳なさを滲ませた静かな微笑みを見せた。


「突然こんなことを頼んでごめん」


 胸の奥で、理解と恐怖が入り混じる感覚が波のように押し寄せる。

 私はカップを握りしめ、静かに息を整えた。それでも、心の奥にはざわつきが残った。


「でも、ミトが応えてくれたら嬉しい」


 その言葉は真っ直ぐで、胸にじんわりと染み入り、自然と心が緊張するほど真剣だった。


 一瞬、息を止め、心臓が早鐘のように打つのを感じる。

 戸惑いながらも、葵葉の瞳に映る揺るぎない意志に、自然と視線を奪われた。

 言葉が見つからず、胸の奥では重みと温かさが同時に広がっていった。

 不意に訪れた責任感に肩をすくめそうになったが、葵葉の表情に浮かぶ柔らかな光が、不思議と怖さを和らげてくれた。

 気づけば、自分の中で小さな答えが形を取り始めていた。


「わかった。毎日、会おう」


 一瞬、葵葉の瞳が揺れた。

 それから、彼はほっとしたように笑った。


「ありがとう、ミト」


 その笑顔は無邪気で、どこか頼りなげで幼さを感じた。

 その笑顔によって、心の中で何かがゆっくりと、でも確かに動いた。

 彼を支えたいという気持ちが、言葉にできない形で胸に宿ったのだ。


 ふっと、二人の間に静けさが落ちる。

 重たい話を終えたばかりなのに、葵葉は急に声の調子を変えて、少し照れくさそうに笑った。


「じゃあ、明日はいつ会える?学校終わり?」


 拍子抜けするような問いに、私は思わず瞬きをした。


「えっ、学校終わり?」


 少し驚きながら答える。

 すでに長期休みに入っているから、学校に行く必要はない。


「うん、学校があるでしょ?昨日も今日も休みだったから」


 葵葉は戸惑ったように言葉を継いだ。


「いや、冬休みだから高校はないよ」


 肩をすくめて答えると、葵葉はぱちりと目を瞬かせた。


「冬休み……そうなんだ」


 返ってきた声はわずかに遅れ、言葉を確かめるような響きを帯びていた。

 その“反応のずれ”に、説明のつかない僅かな居心地の悪さを覚えた。


 葵葉はすぐに柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめた。


「じゃあ、明日は朝か昼どっちが空いてる?」


「朝」


 昼から会う約束をすると、その間の出かけないといけない憂鬱感を感じなければならない。

 だから会うなら午前中がいい。


「10時がいい」


 特に予定はないが、朝はゆっくりしたい。

 そんな考えを見透かしたように、葵葉はくすくすと笑う。


「朝はゆっくり寝たいから?」


「そう」


 もともと朝が弱いので休日ともなれば二度寝が常だった。

 起きるのはいつも遅く、朝昼兼用の食事が習慣のようになっている。


 そんな自分を少しだけ情けなく思いながらも、葵葉の前ではなぜかそれを隠す気になれなかった。


「じゃあ、10時にしよう」


 葵葉がにっこり笑い、手を軽く振った。


「うん」


 胸の奥で、かすかな期待が小さく息づく。

 明日という約束が、静かに心の輪郭を照らしはじめていた。

 

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