6.集落と老婆の裁定
結論から言うと、寝場所は男の集落だった。
彼はこの森を拠点としている一族の出だと言う。
塚の道を少し外れると、たちまち霧に包まれた。
夜のとばりと霧で二人は大人しく着いていくしかない。
ここで意地を張る選択肢が無かったのは、ガスパルに森の怖さを叩き込まれすぎているからだ。
霧も闇も男は苦にならないようで、足元が確かな場所を選んで歩いている。
もちろん、後から続くものが歩きやすいように。
一人であれば、きっと木から木へ飛び移るのではないかと感じるほどの身の軽さだった。
霧に包まれた中で、足元の苔がうっすらと光を放つ。
「なんだか、今日は歩きやすいねー。お客さんがいるから発光苔ががんばってるのかなあ」
アルからすれば、歩きやすさは全くない。
確かにブレイドがついてこれる道を選んでくれているのだろうが、五歩離れると姿が見えなくなるほどの霧だ。
男の後を追うのに四苦八苦しているアルたちを揶揄うように、直前で「あ、そこに落とし穴あるよ」とか「ほら、吊り橋から落ちたら、二度と上がってこれないから」とか、案内役として不親切極まりない。
そして、濃霧の立ち込める場所にこそ、曲がり道や吊り橋がある。
これは、道を知るものでなければたどり着くことはできないだろう。
ここまでに二度、霧の中に彼は矢を射た。
一度目は野兎を捕らえた。
素早く血抜きし、堂々とブレイドに括り付けた袋に投入。
二度目は何も捕らえなかった。
放った先で、幾つもの羽ばたきの音がした。
ここまでも身体能力の高さを見せてきた男が無駄矢を放つとも思えず、首をかしげると、笑いを含みながら教えてくれた。
「ツイ鳥が群れてると、大物を呼んでる可能性があるからね。散らしただけ」
この濃霧の中で、彼は離れた位置にいる小鳥の存在を感じ取れるのだ。
特殊能力を持ち合わせているとしか思えない男についていくと、やがて霧が薄まってきた。
急に開かれた視界にあったのは、宙に浮いた集落だった。
隣で息を呑む音がした。
「す、げえ……!」
フェリクスと完全に思いが一致した。
月明かりと満天の星、あちこちの岩がぼんやりと光り、その集落が浮かび上がっている。
木の上に小屋がいくつも構えてあり、小屋同士が頑丈な蔦のようなもので連携されている。
等間隔に並ぶ木々は奥行きがあり、奥に行けば行くほど巨木になっている。
暗闇で全貌が見えないが、アルは最奥にとてつもない存在感を感じ取った。
さながら空中に浮かぶ村のような景観だ。
「きれい」
陳腐な言葉しか出ないが、目を瞠り、少し上擦った声音がアルの興奮度合いを示している。
この空間だけ、ぽっかりと夜空が見え、星々が瞬いている。
「んー、まあそうなんだけど、これはさすがに」
「ゼス!!」
怒号に近い野太い大声が、響き渡った。
どこから、と仰ぎ見ると、上空で何かが動いた。
蔦に見えていたものの一部がするすると降りてくる。
いや、それは蔦ではなく人だった。
男──ゼスは小さくため息をつくと、振り向いた。
「やれやれ、まあ知らない顔をここに連れ込んだら、そうなるよね!」
木々の間から数人の影が音もなく降り立つ。
彼らは、ゼスと同じような装いをしていたが、鋭い目をアルとフェリクスへ向けていた。
ゼスにも、同様に。
「おい、ゼス。説明しろ。おばばさまに断りなく連れてきたのか」
先頭に立つ大柄な壮年の男が低く鋭い声でゼスを糾弾した。
ゼスはにこりと笑い、手をひらひらと振った。
「大丈夫だって。道に迷っただけの子どもだ。一か月も前からダスクホーンが陣取ってるの、知らなかったらしいよ。こんな年頃の子が森に喰われるのを見るのも後味悪いじゃない?」
ゼスの軽い口調は、相手の男の表情を微塵も緩ませることはなかった。
「ピーをなぜ放たなかった。郷に先に知らせることができたはずだ。何を考えている。こいつらは何者だ」
鋭い目がアルとフェリクスを射抜く。
アルは思わず身構えた。
この男の眼光は、ガスパルを思い出させた。ためらいなく、命のやり取りをするものの目だ。
口を開こうとした、その時。
「その先はわしが預かろう」
しゃがれた声が、少し離れた木の上から響いた。
大きな声ではない、しかし威厳のある声が。
アルとフェリクスが目を向けると、そこには杖をついた小柄な老婆が立っていた。
「おばばさま!」
こちらに詰め寄っていた大柄な男がわずかにたじろぐ。
「ルガ、客人を根本に案内せよ。ゼスはワシと共に来い」
「はあい」
「おばばさま! なんで根本に?」
「ルガよ、何度も言わせるな」
ゼスは慣れた手つきで垂れ下がる蔦を手に取ると、木上へ登り、老婆の元へたどり着いた。
その瞬間、老婆からゼスの頭上に杖が振り下ろされた。
「っ! ったあ!」
「このたわけが」
杖をつきながらも、しっかりした足取りで老婆はゼスを引き連れて去っていった。
あっという間の展開に、アルとフェリクスは口を挟む隙も無かった。
ルガと呼ばれた男は、一瞬の逡巡の後、深く息を吐いた。
「……ついてこい」
彼は踵を返し、アルとフェリクスに歩くように促した。
ブレイドの手綱を引きながら、フェリクスはアルと目を合わせた。
口元を引き結んでおり、フェリクスが緊張しているのが見て取れる。
アルは頷いた。悪い感じは受けない。
ルガの背に続くように、周囲の者たちも動き出す。
その様は木々の影が流れるようだ。
木の間を抜けていくうちに、一人二人と影が減っていく。
目的地に近づくにつれ、案内人はルガのみとなっていた。
ブルルル、と嘶くブレイドを落ち着かせながら進んでいたが、ある地点でぴたりと進まなくなった。
「そこで放してやれ。そいつはここからは進めん。賢い馬だ。戻れば餌と水を誰かが世話するだろう」
その様子を見ながら、ルガは告げた。
最初の激昂した印象とはかけ離れた、落ち着いた声音だった。
予定調和であるかのように。
分からない。状況も全く分からないが、今は男の言う通りにするしかない。
フェリクスが手綱を離すと、ブレイドは鼻先をフェリクスに寄せ、すぐに身をひるがえした。
「お前たちは……」
ルガが強い眼差しでアルとフェリクスを見据え、何事かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。
目的地に着くまで、振り返ることはなかった。




