32.麦穂の里
ブレイドを休ませるため、王都を出て二日半。
三人は、街道沿いにある麦穂の里に昼下がりに到着した。
里は街道の賑わいから一歩奥に入った場所にあり、素朴な藁葺き屋根の家々が並んでいる。
街道沿いの宿屋にブレイドを預け、三人は里の食堂兼宿屋に入った。
周囲の客は、王都の騒動から逃れてきた旅人や、荷を運ぶ商人たちで賑わっている。
ゼスは相変わらず旅慣れた兄を演じ、店主に部屋と麦粥を注文した。
ピーはこの里に着いたときから、うれしそうに地面に落ちた麦の穂を啄んでいる。
その姿から人を乗せて羽ばたいたなんて、誰も想像できないだろうな、と、アルは眺めていた。
「それにしても、さ」
ゼスが小声で、アルに問いかけた。
「さっきの『おじさん』訪ねたほうがいい?」
悪戯っぽく、細目を和ませてゼスが笑う。
フェリクスも釣られて笑い出した。
「たまに急に思いつくんだよな。おじさんがこの里に今いるかどうか、怪しいけど」
アルはフードの奥で頷いた。
髪のせいで、フードを脱ぐことはできない。
だが、食堂に入ってフードを被ったままだと、宿の店員に怪しまれることは間違いない。
麦粥を作ってくれている恰幅のよい男に、荷物を部屋に置かせてほしい、と頼む。
「ああ、できたら呼ぶから、その時に降りてきてくれりゃいい」
二階が宿のそれほど大きくはない宿だ。
大声で叫べば十分に聞こえる。
礼を告げて、三人は一宿の部屋に向かった。
「まず、どうしたものかと」
アルは先延ばしにした件をゼスに丸投げすることにした。
すなわち、部屋に入ってすぐにフードを取り払う。
「ひ、姫さま」
長髪を見たゼスが、言葉を失って一歩後ずさった。
彼の目線はアルの腰、そして頭部に縫い付けられている。
「なるほどねぇ。これが、セレスタリアの銀糸」
しばし凝視し、すぐに落ち着きを取り戻したゼスは、少し考えてから自分の袋から端切れを出した。
さらに、旅装の裾をわずかに破くと、その布を細い紐状に裂いた。
「切るにはもったいなさすぎ」
ゼスはアルの髪を一房掴み、銀色の筋をじっと観察した。
そこから、くるくると髪をまとめ始めたゼスに、アルは抵抗しなかった。
「すげえ器用」
フェリクスは、感心してゼスの手つきを見ている。
ゼスは紺と銀の長髪の美しさを損なわないよう、あえて複雑な編み込みを施した。
そして、端切れの中に髪をまとめ、裂いた布紐を使い、結び目や長さを調整しながら、結髪のように仕立てた。
銀の髪を編み込むことで、自然な髪飾りのように見える。
仕上げに、ゼスが持っていた小さな銀の留め飾りを数か所に使用した。
アルはそっと自分の髪に触れる。
編み込みのおかげで、髪は重さを感じさせず、顔周りがすっきりした。
「すごい、ゼス! まるで魔法みたいだ」
「おれは割と手先が器用だからねー。さあ、腹ごしらえだ。麦粥を食いに降りよー」
三人が一階の食堂に降りると、先ほど店主に頼んだ麦粥が、湯気を立ててテーブルに運ばれてきた。
温かい麦粥の匂いが食欲をそそる。
フードを被っていたときは、小柄な少年と思っていたのだろう。
店主は二度、アルを見た。
髪を上げ、髪飾りをしたアルはどこから見ても少女だ。
「おじさん、そろそろきてくれたらいいよねえ」
アルの設定をどこまで引っ張るつもりか、ゼスは揶揄いを含んだ口調で続ける。
なんと返そうか、とアルが口を開きかけたその時、宿屋の扉が開き、一人の男性が入ってきた。
三十代前半に見える。
まだ食事時の時間帯で賑わいのあった店内が、一瞬で静まった。
上質な濃紺の外套を羽織り、その仕立ての良さが里の宿屋とはあまりに不釣り合いだ。
高身長で無駄のない体躯。
彼の顔立ちは端正な美丈夫だが、それ以上に強烈なのは、その切れ長の眼差し、深い濃紺の瞳だった。
彼は、周囲を見渡すというよりも、空間そのものに目を向けた。
そして、一点に視点を定めた。
「おや、ここで会えるとは! 待たせたな」
食堂の静寂の中で男が躊躇なく歩み寄ったのは、アルたちが座る卓だ。
口元に穏やかな笑みを浮かべ、親しげに近づいてくる。
大声ではないのに、朗々と響く声は覇気に満ちている。
アルを男の視界から遮るように、フェリクスが立ち上がり、前に出た。
「私のことはカルナと呼んでくれ。私はその子の叔父だ。手紙は受け取ったぞ。王都の騒動から逃れて、この里まで来るのは大変だったろう」
心の底から驚いたのは、アルだけではない。
その証拠に、フェリクスの肩がわずかに揺れた。
なぜこの男は、アルの架空の設定を完璧に踏襲しているのか。
それは、ゼスの予想通り、アルたちの旅路の近くに様子を探るものがいた、ということを示している。
一気に警戒感を強めたフェリクスとゼスから、肌が痺れそうなほどのピリピリした空気を感じる。
アルの銀の髪飾りに視線を向け、男はにこりと笑んだ。
「姪に会えると思っていくつか装飾品を誂えた。無駄にならなさそうでよかった」
アルは震撼した。
この男は、すべてを知っている。
そして、こちらは何の情報もない。
それはこの場を逃れたとしても、いずれはこの目の前の男と対峙しなければならないことを意味していた。
フェリクスがそっとアルを自分の背後になるように移動した。
庇うように、だが相手を刺激しない絶妙な位置に。
「おじさんですか。ここで会えてよかった。
彼女の母からは『叔父に会ったらきちんと証を確認すること』と言われている」
男の濃紺の瞳に、一瞬、興味深そうな光が宿った。
彼は微かな笑みを深めた。
周囲の目がある食堂で、彼に疑いの目を向けたこの少年は、なかなか賢い。
持ち合わせるはずのない叔父の証を人前で求める。
最善手だった。
男が人目を引く美丈夫であることで、宿中の人間が注目している。
男は穏やかに笑い、フェリクスの言葉に直接答えずに厨房を見た。
「店主、私にも何かつまむものと酒を」
そして、席につき、フェリクスにも着席を促した。
「腹ごしらえの途中だろう。ここの麦粥は実にうまい。温かいうちに食べれば尚更な」
「そりゃ、お褒めに預かり光栄だな」
厨房から出てきた店主が、香草の浮かんだ麦酒を木の杯に注ぎ、男の前に置いた。
男は礼代わりに軽く杯を掲げ、唇をつけた。
人目を引く男が杯を傾けて飲む姿を見せて、異様に静まり返った空間がようやく息を吹き返した。
少しのざわめきが、場に戻ってきた。
「とりあえず、腹が減ってるのは確かだよねえ。おじさん、ごちそうになります」
ゼスが麦粥の椀をカルナと名乗る男に向かって持ち上げた。
木の匙で湯気の立つ麦粥を実にうまそうに頬張った。
男は片眉を上げたが、口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、頷いた。
「ああ、足りなければ他にも頼むといい。赤子の頃に会ったきりだ。分からないのも無理はない」
目元を和ませ、焦る様子のない男は大人の余裕を感じさせる。
警戒心をあらわにする若者たちを微笑ましく相手する男の姿勢に、問題は起こりそうにないと、店主も厨房に戻った。
「フェリクス、食べよう」
アルは立っているフェリクスの腰を三度軽く叩いた。
フェリクスが身動ぎしたことで、意図が伝わったことを確信する。
ガスパルとの間で決めた「三度目の接触は様子見」の合図だと理解した。
一度目は偶然、二度目は問題なし、三度目は警戒を強め、相手の出方を注意深く探るべき段階だ。
フェリクスは無言で着席し、アルの隣に座った。
「腹が減った。確かに熱いうちだな」
各々が麦粥を口に運ぶ姿を見守りながら、麦酒を飲んでいる男は、思いついたように上衣の裏から巾着を取り出した。
無造作に卓に置いた布の袋に視線を向けたのは、ゼスだった。
「それは?」
「いるんだろう?」
訝しげに小さな巾着の口を開けたゼスが、その細い目を見開いた。
飄々とした彼が、これほど分かりやすく感情を出すことは少ない。
巾着の中で、淡く光を帯びた何かが、わずかに震えていた。
布越しにも感じられる、冷たい気配。
ゼスが息を呑み、視線を上げた。
「姉から預かったものだ。これで証になるか?」
「……姉?」
男はゼスの反応を面白がるように片眉を上げた。
「見覚えがあるか?」
ゼスは答えなかった。
ただ、目を細め、光を凝視した。
きゅっと袋の口を閉めると、持ち主へ慎重に返した。
そして、アルとフェリクスのほうへ向き直った。
「間違いない、『叔父さん』だね」
アルは、ゼスの様子に不自然さを感じた。
あからさまに安心した笑みをこぼす、肩から力を抜く、そんな素直な性質じゃないことは、会ってすぐに分かっている。
彼がそのように振る舞うことに意味があるのなら。
「おじさん、会えてよかったです。ね、フェリクス」
「……そうだな」
片や、まったく演技に向いていないフェリクスは、ぶっきらぼうに一言のみだ。
こんなところまでガスパルさんに似なくても、と、アルは苦笑する。
「叔父さん」と名乗る男、カルナは、アルの言葉に満足そうに頷いた。
「ああ、私も会えてうれしいよ。この後の段取りはしてある」
そして、卓上に食べ残しがないことを確認すると、厨房に声をかけた。
「店主、馳走になったな」
程なく顔を出した店主と言葉を交わし、カルナはアルたちに荷物をまとめるように告げた。
店主も金払いのいい客には特に言うことも無さそうだ。
カルナが店主に金貨を渡していたので、一宿一飯の対価としては十分だった。
荷をまとめるもなにも、部屋に荷を置いただけで荷解きもしていない。
部屋に戻った三人だが、ゼスはまだ笑顔を崩さない。
誰もいないはずの部屋でも。
手持ちの布を紐状に裂き、何かを書き付けた。
特に隠して書いているわけではなかったので、見えたがまったく読めなかった。
ゼスは、アルの肩にとまる白い小鳥に目をやった。
「ピー、おいで」
指に止まらせた小鳥をゼスは窓際へ降ろし、くるりと足元に布を巻きつけた。
「おばばへ」
ゼスの端的な指示にピーはためらうことはなかった。
窓を開け放った途端、飛び立つ小鳥はあっという間に空へと溶け込んでいった。
そして、ゼスはアルとフェリクスに向き直る。
「姫さま、フェリクス、行こっか」
胡散臭そうにゼスを見るフェリクスだが、何も言わないことを察したのか、短く同意するに留めた。
「ああ」
麦穂の里の滞在はごく短時間で終了した。




