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天はあまねくものを照らす  作者: 藍砂 しん


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30.ガスパルの教え

ふわり、と柔らかな土の匂いが鼻をくすぐる。


アルは、意識が深い泥の中から浮上するような感覚で目を開けた。

最初に視界に入ってきたのは、木漏れ日だった。

枝葉の間をすり抜けてくる光は、まだ朝のものだ。


上体を起こすと、自分が深い森の地面に横たわっていたことに気づく。

背中には薄い草と土の感触。

身体に大きな痛みはない。

ふいに、肩に重みを感じた。


「……ピー?」


アルがそっと肩に触れると、白い小鳥は「チチ」と可愛らしい鳴き声を上げて、くちばしでアルの頬を軽く突いた。

その大きさは、指先にもとまれる、いつもの小さな姿だ。


アルはほっと息をついた。

昨夜の、あの巨大な純白の鳥の姿は、まるで夢だったかのようだ。

一連の流れがすべて、夢のように思える。

アルは昨夜の出来事を思い出した。


地下深くにあった、青白い光の泉。

古の女性の記憶。

そして、「アルフェ・セレスタリアの生誕を言祝ぐ」と刻まれた石板。

アルがその石板に触れた瞬間、大地が激しく揺れ始めた。

ピーは巨大化し、アルは純白の鳥の背に乗せられた。

地面が割れ、光の奔流とともにアルは石板の欠片を抱えたまま上空へ。

下を見れば、広場を埋め尽くす人々が、皆一様に仰ぎ見ているのが見えた。

戸惑う間もなく、視界が青銀の光に包まれたと思ったら、次に目を覚ました時には、この森の中だった。

すべてが急展開すぎて、アル自身も把握しきれない。


「何が起こってるんだろう……」


アルは、無意識に左肩に手をやった。

肩からマントが滑り落ち、地面に落ちている。

ふと、自分の髪が長いことに気がついた。


「あれ?」


いつもは結べる程度の長さだが、鎖骨を遥かに超え、背中にまで達する長さに伸びている。

アルは髪をかき集めた。

手持ちの紐か布で括れないか、手元を探る。


また驚く長さになったものだ。


縛るために髪を集めていると、見慣れた紺の髪の間に輝く色が一束混じっている。


「……白髪?」


急激に長くなったために一部の色が抜けたのか、非日常に晒されて抑圧から色が抜けたのか。

原因は分からないが、森を抜けてフェリクスと合流したら、元の長さに切ってもらおうとアルは決意した。

縛るものもすぐに見当たらず、諦めてはフードに髪を突っ込むことにする。


「今は落ち着いて、考えよう」


アルは、ガスパルの教えを思い出した。

どんな状況でも、まず現状を把握し、冷静に優先順位をつけること。


ここがどこかは分からない。

日差しの感じからは朝。雨は降っていない。

見渡せば獣などはいない。すぐの危険はない。

だが、森を抜けるのにどの程度の深さなのかは不明。


「まず、安全と水の確保」


森であれば、湧き水がないかを探す。

川が出てくれば、辿れば必ず森から出れる。

ただし、川沿いには生き物が集まりやすい。中には獰猛な種もいる。

水源をまずは見つけること。


革の腰巻きにいくつか小刀を指してある。

八割以上の命中率になったのを見計らい、ガスパルは何度か狩りに同行させた。

危うくなったら、助けてくれることは分かっていたが、危険がない中で魚相手に小刀を投げているのとは危機感が違っていた。

その経験があって、アルはこの状況でも落ち着いていられる。


アルは、立ち上がると周囲の木々を見渡した。

この豊かな植生から、何らかの命の源が近くにあることは予測できた。


「ピー、行くよ」


肩の小鳥にそっと声をかけ、アルはまず森の地面に注意を向けた。

水脈が近ければ、地面の苔や湿度の高い植物が増えるはずだ。

一歩、また一歩と慎重に足を進める。

朝の森は静寂に包まれ、時折聞こえる野鳥のさえずりだけが、その静けさを破る。

アルの靴が踏む腐葉土の音も、彼女には大きく響いた。

数歩進んだところで、アルは足を止めた。

地面に目を凝らすと、そこには微かに獣の足跡のようなものが残っている。

小さく、四つ足の動物のものだ。


「この足跡の方向へ行けば、水場にたどり着く可能性が高い」


動物は本能的に水場を知っている。

しかし、水場は獰猛な獣も集まりやすい場所。

アルは小刀を指している革の腰巻きに手をやり、いつでも抜けるように準備した。


歩を進めるにつれて、空気の湿度が徐々に増していく。

そして、遠くから微かに水の流れる音が聞こえ始めた。


「あった」


アルは喜びを抑え、音の方向へ慎重に近づいた。


やがて、森の木々が途切れ、眼前に清流が開けた。

その川はさほど深くなく、水底の石がはっきりと見えるほど澄んでいる。

両岸には水草が生い茂り、水の流れに合わせて揺れていた。

アルは小刀を抜くことなく、周囲の木の上や、水辺に潜む可能性のある場所を注意深く確認する。

大きな動物の気配はない。


水辺に膝をつき、まず両手を浸す。

ひんやりとした水の感触が、アルの乾いた喉を刺激した。両手で水を掬い上げ、喉を潤す。


「美味しい……」


生き返るような心地がした。

水を飲んだ後、アルはふと水面に映る自分の顔を見た。

一瞬、自分の顔ではないように感じた。


「……ん?」


紺色の瞳の周りに、微かに青銀の光が残っているように見えた。

それはすぐに消え、いつもの自分の顔に戻ったが、アルは首を傾げた。

そして、そこで初めて、伸びた髪の紺色に混じる銀の筋が、水面に反射して輝いているのを見た。


「白髪じゃない……?」


それは、白というより、凍った湖のような、青みを帯びた銀色だった。

昨夜の光の色と同じ。

アルは、伸ばした髪を一束手に取り、その銀色の筋を指で辿った。

この髪の色も、髪が急激に伸びたことも、すべてが泉の光を浴びた後に起こった変化だ。


「これ、どうしよう」


目立つ。

フードに隠すしかない、とアルは再度確認した。


気を取り直し、水の確保ができた今、アルは次の課題、食糧の確保に移る。

川には、流れに逆らうようにして泳ぐ魚の姿がいくつも見えた。


「食糧も問題ない」


魚影の濃い、浅瀬をじっと見つめる。

アルは腰の革紐から、最も使い慣れた小刀を一本抜き、川から少し離れた岩陰に身を隠した。

呼吸を整え、全身の力を抜き、集中する。狙いを定め、腕を振り抜く。


投げられた小刀は、水面を切り裂き、狙った魚の真横に突き刺さった。


「くっ……」


わずかに逸れた。魚は驚いて逃げていく。

小刀を回収し、再び岩陰に戻る。

森での狩りの経験が、アルの冷静さを保たせている。焦っても、無駄に体力を使うだけだ。


「もう少し、川岸に寄って、浅いところを狙おう」


アルは立ち位置を変え、体勢を低くした。

ピーは頭の上に移動し、じっと水面を見つめている。

再び集中し、魚の動きを読み切る。

今度は、小刀は魚の動きの一歩先を捉えた。


ズバッ


小刀が魚の頭を正確に貫き、水底の砂に突き刺さる。

アルは、小さな達成感と共に、獲物を回収した。

これで当面、食糧は確保できた。


続いて、アルはあたりに自生している木の実を探した。

いくつか熟した木の実を見つけ、毒の知識を総動員して安全なものを選び、布に包んで確保する。


食糧を確保した後、アルは川から十分に離れた場所で、焚き火の準備を始めた。

湿気を避けて集めた枯れ枝を組み、火打石を打ち鳴らす。

数度の試行の後、小さな炎が上がった。


アルは獲った魚を丁寧に捌き、串に刺して火にかける。

じゅうじゅうと音を立てて魚が焼け始めると、香ばしい匂いが森の空気に広がる。


この静かな作業の時間が、アルにとっては安心感を与えた。


昨夜の光の奔流、巨大化したピー、そしてフードに押し込めた自身の髪の異変。

すべてが非日常だったが、こうして自分の力で火を起こし、食糧を調理しているという現実が、地に足をつけてくれた。


「次の優先は、森からの脱出……」


魚を返しつつ、アルは考えを巡らせる。

街道に出れば、ここが王都の近くであることは判明するだろう。

その後は、街道の人の流れに乗って、フェリクスとゼスと合流できる可能性を探る。


だが、彼らは今、どこにいるのだろうか?


アルが頭上で焼ける魚を見つめていると、不意に背後の茂みが大きく揺れた。


獣か、それとも──。


アルは瞬時に串を火から遠ざけ、小刀を抜いた。

ピーは警戒するように、短い鳴き声を上げる。


茂みの中から現れたのは、息を切らし、全身から汗を噴き出しているフェリクスだった。

彼の赤茶の髪は乱れ、瞳の琥珀色は安堵と緊張がないまぜになって揺れている。


「アル!」


アルの姿を見た瞬間、全身を覆っていたフェリクスのピリピリとした緊張の糸が、音もなく切れるのを感じた。


「フェリクス!」


アルもまた、彼の姿を見て、全身の力が抜けるのを感じた。

見知らぬ場所で一人ではないということが、どれほど心強いか。

フェリクスは駆け寄って、アルの無事を確認するように両肩を強く掴んだ。


「無事だったか!」


聞きたいことがいくつもあるだろうに、フェリクスが口に出したのはその一言だった。

他はすべて瑣末事と言わんばかりに。

アルも、フェリクスの全身に目を走らせ、怪我をしていないことを見る。


「フェリクスも。ゼスは?」

「ああ、ゼスはブレイドと街道を進んでる。馬ごと森に入るのは目立つからな。ゼスがおおよその方角を示してくれたから、おれが一人で来た」


フェリクスの視線がピーに注がれる。

ピーは肩で居心地悪そうに身じろぎした。


「ピーと意思疎通ができるのはゼスのほうだ。本来ならゼスが探すべきだったんだが……代わってもらった。

ようやく見つけた。全く、探し回らせるなよ」


フェリクスの声には、安堵と、アルの無茶に対する心配が混じっている。

アルは彼の心配を理解し、頭を下げた。


「ごめん、フェリクス。何が起こったのか、まだわたしも把握できてないんだよね」


アルは焼けた魚を見て、彼に差し出した。


「お腹空いただろ。ほら、一本」


フェリクスは魚を受け取ると、もう一度アルの顔と肩のピーを見て、深く息を吐いた。

毒気を抜かれた様子だ。


「ああ、腹が減った。……さて、何があったのか、ゆっくり聞かせてもらおうか」

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