29.王都脱出
夜の闇に紛れ、フェリクスとゼスは王都の迷路のような裏路地を進んでいた。
石畳は雨上がりの湿り気を帯び、二人の足音をわずかに吸い込む。
頭上の屋根は互い違いに連なり、月光すら差さない。
フェリクスは時折、すぐ前を走るゼスの呼吸の速さを確かめるように耳を澄ませていた。
ゼスもまた、フェリクスが無理に速度を合わせていないかを気にしている。
大聖堂前の広場を離れても、王都全体を覆う空気は重苦しかった。
王都の中心部から遠ざかるにつれ、その重さは逆に濃度を増していた。
夜更けにもかかわらず、遠くの通りで駆け込む足音や怒号が風に乗って届き、街そのものが怯えているかのようだ。
王弟への襲撃という衝撃的な出来事と、その直前に起こった光の現象が、人々の間に根深い動揺を残している。
そのざわめきの残滓が耳に届くたび、フェリクスは唇をかすかに噛んだ。
声にこそ出さないが、“あの光に呑まれたアルが今どうしているか”という不安を胸の奥に抱えていた。
王弟が死ねば、このまま済むはずがない。
政も軍も、そして教会すら巻き込む大渦。
それを王都の住人は、本能で感じ取っていた。
そして、その渦の中にアルが巻き込まれる未来を思うと、フェリクスの胸の奥はひりつく。
おそらく、それは前をひた走る男も同じだ。
だが互いが同じ焦りを抱えているのを知っているからこそ、どちらも無闇に速度を上げなかった。
足並みを揃えたほうが、確実に彼女に近づけると分かっていた。
「まったく、とんでもないよねえ」
ゼスは、跳ねるように裏路地を走りながら、軽い口調で言った。
闇に目が慣れた猫のように、影から影へと滑り込んでいく。
背後に遅れを取ることなく、フェリクスが付いてくる。
軽口に見えて、その声はフェリクスの焦りを和らげるためのものでもあった。
フェリクスもそれに気づいたが、あえて指摘しない。
それがゼスなりの励ましなのだと、分かってきた。
「いきなり王弟が刺されるなんて、予想外にも程があるし。フェリクス、王都は初めてだろうけど、見学どころじゃないねぇ」
「問題ねぇ。それより、どこに向かってるんだ?」
「うさんくさい彼との落ち合い場所」
フェリクスの返事はそっけないが、声に芯はある。
それを確認してゼスも口を閉じた。
目指すはエステバンと合意した集合場所、王都の北西にある星辰の灯台近くの廃屋だ。
あの抜かりなさそうな男が指定した場所だ。
合流になんの問題もないのだろうと、ゼスは何となく信頼を寄せていた。
根拠は、アルの直感だ。
何とも心許ないものを信じるようになったと苦笑しつつ、先ほどの光景を脳裏に浮かべた。
ピーの示した方角は西。
ブレイドを回収し、明日早朝に城門が開き次第、王都を発つ。
裏路地を縫い、人目につかないように移動すること約四半刻。
途中、閉ざされた扉の隙間から恐る恐る外をうかがう視線を感じ、どの道にも匂い立つような不安が張り付いていた。
彼らがたどり着いた廃屋は、古びた石造りで、もはや屋根も半分落ちている。
放置された年月の匂いが、夜気と混じって重く沈んでいた。
あの男もよほど王都に精通しているのか、よくこんな物件を指定してくるものだとゼスは感心する。
中に入ると、隅に小さな灯火が置かれており、その淡い光の中に、男が一人座っていた。
「無事で何より」
片眼鏡を外し、丁寧に髪を撫でつけた商人風の男は、衣装こそ変わっているが、紛れもなくエステバンだった。
この異常な空気の中でさえ気取った仕草は崩さない。この混乱の夜にあって、その余裕が異質なほどだ。
「あんたもな。まさか王弟が刺されるなんて、誰も予想しなかっただろ」
「予想外は楽しむものだが、他人様の不幸となると、いささか楽しみにくいものだ。それに真の予想外は姫ぎみだった。そちらは文句なしに楽しむことができる」
ゼスが軽口で応じると、エステバンの心の底からの愉悦を感じさせる答えが返ってきた。
本来なら続けて語りたそうだったが、弁えているのだろう、懐から小さな木片を取り出した。
「まずは君たちの旅の足を取り戻しておこう。ルシフェンは北西の城門の厩番に愛馬を預けている。これが預かり証だ。馬預所で渡せばいい」
木片を受け取りながら、フェリクスは口を開いた。
「エステバン、さん。色々ありがとうございました」
片眉を上げたエステバンだが、フェリクスのまっすぐな視線を受けて肩をすくめた。
彼は善意で動いているのではない。
もっと先の、もっと別の目的がある。
「まあ、その礼は受け取っておこう。勇敢な彼女の保護も請け負うから安心するといい」
あの光の浄化によって、教会の内情は混乱の極みだ。司祭として、かつての仲間として、彼女が安全な場所に身を置けるように手配すると、エステバンは続けた。
フェリクスは、深く頭を下げた。
「王都は、早晩完全に封鎖されるだろう。君たちは、夜が明けて城門が開いたら、すぐに出ることだ。時間はない。我々もそうするだろう」
エステバンはそう告げると、再び片眼鏡をかけた。
その仕草は軽いが、その裏に「今動けば間に合う」という確信を宿している。
「北西の城門は何かと情報が遅延気味でね。閉まるのが一番遅いと、目端のきく商人たちが集まってきている。王都は入る分には厳しいが、出るのは比較的容易だ。それも、今回のことで是正される可能性がある」
さて、と、エステバンはフェリクスたちの前に二本指を立てた。
「君たちには二つの選択肢がある。
一つ目は、ここで私と朝まで過ごし、いかに姫ぎみが私の予想を超えてきたかを聞く」
「「二つ目で」」
二人の返答に迷いはない。
なんだその選択肢の一夜は。
「そうか……ではこちらを」
心なし、肩を落としたエステバンは、もう二つ、木片を渡した。
そこには華印が焼き付けてある。
「ルシフェンの名で素泊まりの宿を予約してある。昨日よりは快適に眠れるだろう」
二人は満面の笑みで木片を受け取った。
夜が明けると共に、フェリクスとゼスは北西門近くの馬預所へ急いだ。
朝の空気は冷たく澄んでいるが、街の奥にはまだ昨夜のざわめきが残っている。
愛想のない厩番に木片を渡すと、厩舎の奥から一頭の馬を連れてきた。
ブレイドが、フェリクスの気配を感じて、静かに嘶いた。
しきりに鼻をフェリクスに寄せる様子を見て、厩番は手綱を渡す。
ひとしきりブレイドを撫で、落ち着かせたところで、フェリクスとゼスは手綱を引いて北西門へ向かった。
重々しい音を響かせながら、門が開こうとしているところだった。
門の前には、開くのを今か今かと待ち構えている旅装の人々や馬車が並んでいる。
まだ騒乱の報せは緘口令が敷かれたこともあって、広場外の門番に届いていないのか、封鎖はされていない。
しかし、王弟が襲われた事実は、すぐに王都中を席巻するだろう。
その列に並んだフェリクスとゼスとブレイドは、城門をくぐると一気に王都の外へと飛び出した。
「間一髪ってとこか。もう少し遅れていたら、王都に閉じ込められてたな。下手すりゃ、何か月と」
王都には、この門の他に南の正門と東門がある。
そこがどんな状況かは分からないが、最も小さいと言われる北西門がこの賑わいだ。
昨日の夜から雨が止み、歩きやすいということもあるだろうが、王都から出るものたちの顔色はいい。
フェリクスは王都の城壁を振り返った。
エステバンは、彼らも発つと言っていた。
シスターレイナも共にあるはずだ。
無事を祈り、西の空へ馬首を向けた。
「よし、行くか」




