27.証の灯火──聖教主の御技
少し時は遡り、群衆のざわめきの中、ひとりの商人風の男がいた。
土色の外套、灰褐色の髪は丁寧に撫でつけられている。
頬はふっくらとし、体躯も応じて堅太りのようだ。
その割にひょこひょこと歩幅は小さく、片眼鏡をかけてたまにずれるのを戻している。
戻す指には古い指輪がいくつか嵌められている。
平民街で商売を営んでいるんだろうと、外見から想像のつく出で立ちだ。
重心の取り方も後ろ気味なのか、群衆に押されるままに流されている。
どこにでもいる男───エステバン・クレメンス。
この十数年ですっかり身についた変装術は、エステバンの顔見知りさえも看破できない水準になっている。
どこに精通しているのかと、自分でも思うが、便利な技を使うことに躊躇いはない。
なんでも器用に熟す男は、舌下に忍ばせる指輪を口の中で動かした。
何十通りの選択肢の中で、最も可能性がある道。
己が大教主だったときに、苦戦した相手を利用すること。
大聖堂の梁の下に何千羽と屯する、天敵。
幾度、追い払ったか。
どれほどの手段を駆使したか。
試行錯誤するエステバンを前に、彼の尊敬してやまない上司は事もあろうか貴重な御技をふるう。
『エステバンや、彼らも感じたいのだよ。聖域の温もりを。どれ、彼らの棲家に祝福を』
穏やかな大聖堂の主がエステバンをやんわりと宥める。
ああ、なんと平和な日々だったろう。
『セラフ老。彼らが自分の営みを自分たちだけで完結できるなら、私も何も申しますまい』
『……エステバンや、しまったのう。祝福が多すぎたようじゃ』
『老。これではますます奴らを遠ざけることが困難になったではありませんか。ああ、ほら床に体を擦り付けている』
頑な若きエステバンは、あの手この手を尽くし、最後はエステバンが大聖堂を追われる形で、彼らの前から去った。
完敗を喫したエステバンだったが、彼らとの激闘の中でいくつかの仕掛けも施していた。
その中の一つ。
梁に仕込んだ高域の調べ。
人の耳には聞こえぬほどの音域で、彼らが避ける音があることに気づいた。
その音域を共鳴して放つ石がある。
研究者気質のあるエステバンはあらゆる石を集め、共鳴する距離を調べ、効果的な配置で梁に埋め込んだ。
これで、何度も何度も追い払えば、やがて彼らは諦めるだろう。
果たして、その効果は絶大だった。最初の一月は。
順応性の高い彼らにとって、三月経てば完全に元通りになった。
エステバンの研究を知る老爺は腹を抱えて笑ったものだ。
さすがに、十数余年の間隔を空けただけある。
梁に仕込んだ共鳴音に、一斉に飛び立つ様は快哉をあげたいほどだった。
実際には、周囲と同調して驚き、逃げるふりをしていたが。
祭壇の最上段、それが石が共鳴する最長の距離だ。
そして、たった一つの焦点だ。
そこに足をかける最初の一人になること。
それが、エステバンがシモーネに頼んだことだ。
細かいことは告げていない。
毅然と前を向く彼女の、なんと美しかったことか。
後ろを歩くルシフェンは、きっと言ったに違いない。自分が一番最初に壇上に上がると。
それを断り、エステバンとの約束を成し遂げたのだ。
シモーネの衣装はシスターが着用している既製品だ。
既製品を着用しているプラトたちは、裾や襟に自分の名や印を刺繍している。
シモーネの裾にも白い糸で精緻な刺繍が施してある。何を隠そうエステバンが自ら縫った。
なんでもできる自分の才能が怖いほど、見事な刺繍だ。
刺繍に気づいたシモーネが、呆れながらエステバンに言ったものだ。
『いくつも聞きたいことがあるわ。なぜ、白い服に白い糸で刺繍するの? なぜ、裏地にするの? なぜ、片袖しかしないの? そして、どうして私の許可を取らないの?』
『単なる興味だよ、シモーネ』
「白い服に白い刺繍なら、支障はないだろう?」と続けたエステバンに彼女はプリプリ怒っていたが、その後、愛用していたことを知っている。
ここ大一番の時こそ、その刺繍した衣装を身にまとっていることも。
シモーネ自身は仕掛けの意味を知らない。
飾り糸と織り合わせた極細の細工糸が導線となり、エステバンの共鳴軌道石の道となる。
舌下に忍ばせた、古い指輪の裏に配置した石。
それを器用な男は、舌先でずらした。
そして指輪内部に押し込んだ。
かすかにチリ、と音が響き、共鳴音が応じる。
瞬間、彼の周囲の空気が震えた。
──チリ、チリチリ。
それは、人には聞こえぬ呼び声。
キーン、と空気音が鳴った。
群れていた何百、いや千を超える影が揺れた。
梁の上部に広げられていた砂が、驚愕して急な羽ばたきと一斉に飛び立ったことで巻き上げられた。
時の聖教主が祝福を与えたために、解呪の媒体に相応しい金の砂を。
金砂が月光を浴び、天からの聖灰のように、群衆に降り落ちる。
金の砂を浴び、恐慌とともに呪に縛られた人々は助けを求める。
清貧なるプラトは、祈りを捧げ、それに合わせてエステバンも祈りを唱えた。
同胞の祈りに、力を添えていく。
かつての大教主エステバン・クレメンスの祈りを。
呪が解けていく。
人々を癒したい、災いを遠ざけたいと願うプラトたちの祈りは真摯なものだ。
そこは間違いない。
鎖が音を立てて外れていくがごとく、呪に縛られた人々から偽りの感情が解き放たれる。
さて、呪を解放することによる混乱は、王弟へと向かうだろう。
口々に王弟を讃えていた人々は異様だった。
おそらく呪に縛られていた人々は、何かのきっかけうが必要だったのだ。
王弟の姿を見る、などをきっかけとして、狂信的な信者となるように呪が組まれていたのだ。
正気を取り戻すには、しばしの時間が必要だろうが、この混乱ぶりでは今は収拾をつけるために儀式は延期せざるを得まい。
そして、事態が落ち着いた時には、呪によって人がいかなる状況になるのか、流布されている。
その中で、呪の強化を行おうとする教会に対して、民衆はどう思うか。
エステバンも、民衆の不信感を増すために一肌脱ごう。
自慢ではないが、その類の工作はお手のものだ。
深まる狂乱を前に、兵たちが出動してきた。
──まずいな。
できれば、犠牲者は最小限に抑えたい。
しかし、想定より深く薬で支配されている人々は気が触れたように自我を取り戻そうとしている。
今すぐに正気を取り戻させること。
場の混乱を鎮めないこと。
これは二律背反だ。
だが、エステバンの予想の範囲外ではない。
ここにもう一つ、連中が目の色を変えて探し求めている男がいるのだ。
変装はしているが、呪の解除の御技をもう一つ深めながら出ていけば、疑念の余地はない。
正体を明かせば、それはそれで逃げ切れる算段もしてある。
エステバンが散歩に行くかのような気軽さで足を踏み出そうとした時、祭壇に立つ聖教主レクウス・ヴァリエが青白い灯火を天に向けて高く立ち昇らせた。
うぉぉぉ……。
言葉にならないどよめきが起こる中、エステバンは本気で驚きを隠せなかった。
一連の流れの中で、初めて彼の予想を超える事態に突入しようとしている。
あれは、あの光は。
聖教主が銀の光を放つ、あれは教会の持つ御技ではない。
解呪するための祈りではない。
あれは、星詠みの一族に伝わる、浄化の力。
「なぜ……」
驚きのあまり、呟きが音になって漏れた。
喧騒の中では意味をなさないが。
今代の聖教主が星詠みの力を持つ、その意味とは。
過去からの様々な場面がエステバンの脳裏を駆け巡る。
今得た情報を加えて再整理するために。
一際大きな悲鳴が場に響いた時、離れた位置で一人のシスターが兵から槍で払い除けられようとしていた。
そして、その直後に大きな激突音。
兵の剛力により吹き飛ばされるはずの槍を受け止めたのは、先ほどまで道程を共にしてきた、赤茶の髪の少年。
それほど大きな声ではない。
しかし、少年が告げた言葉は、エステバンの耳にもはっきり届いた。
「これ以上、誰にも触らせねぇ」
大地が、音を立てて揺らいだ。




