23.王都の闇とオルドゥス
フェリクスとゼスが何の変哲もない平家の裏口から出たとき、周りには誰もいなかった。
エステバンとの別れはあっさりしたものだった。
「じゃあ、私は先に出るよ。ここにあるものは使っていいけど、君たちも早めにここを出たほうがいい。あ、灯はつけないほうがいいね、何せここは空き家のはずだし、音も立てないでね。裏口から出れば今なら大丈夫だから」
出てきたのは床下だったが、エステバンが少し離れた位置にあった引き具を引くと、土が動いた。
ゴッと鈍い音がし、今まさに出てきたはずの穴は地に埋もれた。
あっという間に痕跡を完璧に消した男は、ヒラヒラと手を振って裏口とやらから出ていった。
現在の位置も分からないが、残された二人に迷いはない。
王都であるなら、今の薄汚れた格好は人目に触れる可能性があることから、埃を払い、室内にある水と布で軽く清拭した後、裏口から出た。
大通りに向かう道に入った途端に人波に押された。
老若男女問わず、一方通行で同じ方向へ向かっている。
雑踏に紛れれば問題ない、というエステバンの言葉は正しかった。
何千人もの人が、やや興奮気味に話をしながら進んでいる。
周りのことを気にかけている者など、ほとんどいないだろう。
大聖堂前の広場は、押し寄せる人々の熱気と騒めきで息苦しさを感じるほどだ。
「ま、こうなるよね」
一人きりになったゼスは軽い口調で、周囲を見渡した。
確かに赤茶の髪はあまり見ない色だが、成長期の少年は身長の伸び代がまだある。
曇り空の夜に差しかかる時間帯では一度はぐれると見つけるのは困難だろう。
目的地は同じなのだ。
遅かれ早かれ、合流するだろうと、雑踏と同じ方角に向き直ったとき。
ピリッと背筋を撫でるような視線を感じた。
森で獰猛獣に目をつけられたときと類似しているが、どこか違う気配。
ゼスは思わず唇を舐めた。
自分でもよくない癖だと思うが、厄介ごとを面白いと感じてしまう。
しかもこれはとびきり厄介ごとの予感がする。
「おっと」
何かを探すふりで、群衆の流れから徐々に外れていく。
薄暗い路地にたどり着けば、答えが出るだろう。
視線はひとつ。
しかし、何が出てくるか予想がつかない。
腰の短弓を引く間を与えられるとは思えない。近距離かつ路地であれば獲物は短剣になる。
フェリクスは軽々と場所を選ばず長剣を振り回すが、あの長さであの速度で剣を振れるのは異常だ。
天灯の一族ならでは、と言っていい。
まだまだ未完成の十五歳にして、末恐ろしい戦闘力だ。
本人は無自覚だが、どんな鍛えられ方をしたらあんなことになるのか、ゼスは思わず過去のフェリクスに同情した。
面白いので、それも指摘はせずに放置しているが。
「よりによって、この日デスか」
裏路地に入った途端に襲撃されるのではと考えていたが、のんびりと声をかけられたのは意外だった。
目を向けると、外見はこれといった特徴のない中肉中背の男が立っていた。
平民街でよく見る装い、麻布の上着に灰色のズボン。腰に擦れた布袋を下げている。
袖は少し捲られ、腕に小さな傷がある。
髪は焦茶で無造作に撫でつけただけ。
平民街の労働者にいくらでもいそうな、そんな印象の男だ。
だが、ゼスは眉をひそめた。
一つだけの違和感がすべてを表している。
動きが、静かすぎる。
路地裏に吹く風より、音も立てずに現れた男。
距離にして、八歩。
「ヤァ、森の坊やダネ」
男、フィン・カロルは、口端を吊り上げた。
軽佻な口調ながら、どこか測られているような圧を感じる。
こんな距離、目の前の男にとっては一息に詰めることができる。もちろん、自分にとっても。
「何か用? 誰か知らないけど」
「いやあ、用があるというか、興味本位カナ?」
男は距離を詰めようとはしない。
両手を広げて、無害を訴えるが、余計にうさんくさい。
「誰だって気になるよネェ。森の護りの一族がわざわざ王都見学? しかもご丁寧に次期の弓まで携えて」
ふっと風が動いた。
言葉が終わるより早く、ゼスは踏み込んでいた。
短剣を抜くと同時に、ゼスの体は霧のようにずれた。
視界から外れた位置から、首筋に叩き込んだ刃は、火花を散らせて男の短剣で食い止められた。
「森の子はせっかちダネ!」
「誰だって気に触るよねぇ。土足で自分の領域にズカズカ踏み込んでこられりゃ。しかも興味本位で」
「そりゃ、仕事だったらもっと下準備するヨ。こんな雑な仕事はしない」
分かっていて、芯をずらす回答をしてくる男。
ゼスは一瞬で悟った。
コイツとは合わねえ。
これは、この感情は同族嫌悪だ。
面白い、この類の不愉快さを感じるのも、森から出なければ味わえない。
姫さまとフェリクスでは、ゼスにこの感情をもたらすことはできない。
ニヤリと歪んだ笑みを浮かべたゼスに、男も同様のことを感じたのだろうか。
滑らかな動きで、足を払った。
そのつま先には、鋭利な刃が仕込んである。
揺れるように必要最小限の動きで避けたゼスに、男は口笛を吹いた。
「掠めたら終わりなのに、いい度胸ダネェ」
刃先に毒が塗布してあると、フィンがわざわざ匂わすのは、ゼスの動きを少しでも鈍らせたいからだ。
だが、ゼスにその手は通用しない。
そして男の言葉の端々から察知した。
「オルドゥス、ね。道理で妙に勘が鋭いはず」
「あれ? 正体を明かすつもりもなかったのに。マ、森の護り人に隠し事は難しいカ」
「隠すつもりもないときたらね」
金属が火花を散らす。
ゼスの短剣と、フィンの刃が交差した。
風が渦を巻き、二人の足元に落ちていた埃が一気に吹き上がる。
互角──だが、ゼスには余裕があった。
戦いながらも、目は常に相手の呼吸と重心を読んでいる。
それを見たフィン・カロルは喉の奥で笑いを含んだ。
「森が動いたとは聞いていたヨ。星詠みの王子が生きていると、話半分で聞いていたことを彼の方にお詫びしよう。これほどの手練が出てくるとなると、こりゃ本当ダネ!」
ゼスの動きに変化はない。
動揺もない。
だが、フィン・カロルが逃げの一手を選ぶことは読めていなかった。
瞬きする間もなく刃を交わす中で、ごくわずかな隙間があった。
呼吸の間というべき隙が。
その間をフィン・カロルは待っていた。
ゼスの短剣が一閃し、翻した瞬間、風がねじれた。
フィン・カロルの刃は空を切り、後ろへ避けたゼスと同じだけ、フィン・カロルも後ろへ引いていた。
「風遁か!」
オルドゥスの本気の逃走術。
風を読み、風に乗るオルドゥスの諜報員が使う技。
「ッ」
ゼスはもう一歩、後退った。
立っていた地面に小さい刃が刺さる。
それはフィン・カロルから放たれたもの。
「悪いネー、森の」
さらに遠ざかった先から、フィン・カロルは弾んだ声で辞去を告げた。
「趣味の時間は終わりなんダ。また会えるような気がするヨ。最後に一つだけ。王都の夜は、森より闇が濃い」
「忠告、ありがと。次に会うときまでに比べておくよ」
相対した時間ではなく、密度で分かる。
今日はもう相対することはない。
何かを口の中で呟くと、現れた時と同じく音もなく男は姿を消した。
獰猛獣の気配が遠ざかったのを痛感し、つぅっと、額から汗が滲んだ。
大きな息をついて、ゼスは地面に突き刺さった小さな刃を抜いた。
持ち手まで鉄器で拵えてある。
そこに、小さな文字が刻まれていた。
マリソル
最後に投げつけたものがこれとは、あからさまに呼んでいる。
くるくると手の中でもて遊び、ゼスは無邪気に笑んだ。
「面白すぎるなあ、姫さまとの旅」
そう呟くと、ゼスはまた群衆の波へ身を投じることにした。




