21.王都──修道女と司祭と伝言
「あのおバカさんはどこへ行ったの?」
ルシフェン、初老の司祭は思わず遠くを見てしまった。
思えば、ブレイドと昨日朝早くに村を出立し、何度か封鎖中の街道で足止めされたが、黙々と歩く旅路はなんとも楽しいものだった。
ブレイドがいななき、水源で水を飲み、草を食む。
大人しく賢い馬なのだろう。
ほとんど手間をかけさせることはない。
乗馬をそれほど嗜んでいない自分でも、なんとか騎乗できたのは、単に馬の協力があってのことだ。
飛躍的に移動速度が上がった。
今日の夜に到着予定だった王都に、朝のうちに入都できるほどには。
空いている北西門に回り、入都手続きをした。
急いでいるなら、東門か南の正門だが、ルシフェンが王都を訪う時はいつも北西門だ。
内側にある馬の預所にブレイドを預け、少しなら朝の雑踏を楽しんでもいいかもしれない、と思った。
それが間違いだったのか。
料金を支払い、厩務員がブレイドを連れていくのを見送る。
馬がいなければ目立つこともない。
徒歩旅へと戻った心持ちで、ルシフェンは朝の市に繰り出そうとした、その矢先。
「司祭さま、久しぶりだね。こっちだよ」
幼い声が脇道へと彼を誘導する。
脇道から、顔を覗かせるように立っていたのは、両手で数えるには、満たない年ごろの子どもだった。
快活そうな表情は、少年だろう。
にぱっと歯を見せると、正面から右の前歯が欠けている。生え変わりのようだ。
「君は?」
一歩踏み出すと、少年は得意げに笑った。
「イヤだなあ、忘れたの? シモンだよ」
「あ、ああ……! しばらくぶりだな、君たちの年齢の子はすぐに大きくなる」
「ねえ、久しぶりなんだし、ちょっとウチに寄れるでしょ? 姉さんもいるよ」
ルシフェンは、無邪気に手を引く子どもに踵を返したくなった。
表情には出さずに、久しぶりの邂逅を懐かしむように、子どもに着いていく。
本当はもう一度聞きたい。
君は誰だ?
裏通りには、紐に吊るされた洗濯物が所狭しと干されていた。
久しぶりの晴れ間で、住人たちはさぞ張り切って洗い物をしたに違いない。
洗濯物の合間を縫うようにして歩くと、やがて裏通りのさらに奥へ。人気が少なくなっていく。
少年は、少し立ち止まって、一つの扉を指した。
その頃には親しげな空気は霧散していた。
「ここは?」
「……姉さんがいる」
木の扉は蝶番もガタガタで、屈強とはお世辞にも言えないエステバンでもかろうじて蹴破れそうだ。
ルシフェンはため息をひとつ、ぎいいい、と軋む音を立てて、扉を開いた。
そして、中から現れたのは、清楚な白い衣をまとう若いシスターである。
にこにこと慈愛に満ちた笑顔を惜しみなく少年へ向けた。
「ありがとう。ジャン」
「別に、お安いご用だよ」
ぷいっと顔を背け、ぶっきらぼうだが、照れたように少年は礼を受け取る。
枝で編んだ籠の中に、パンが並んでいた。
籠ごとシスターは少年に渡すと、柔らかい口調で伝える。
「本当に助かったわ。王都に久しぶりにきたおじさんが道に迷うだろうと心配だったの。これはお礼よ。みんなで食べてね」
「やった! あいつら、めちゃくちゃ喜ぶよ! シスターのパンは本当においしいもん」
「あらあら、そんなうれしいことを言ってくれるのね」
少年は屈託なく笑い、籠を抱えて走り去っていった。
その背を見送り、くるりと振り返ったシスターの表情こそ、ルシフェンは忘れ得ぬだろう。
慈母のような微笑みが溶け去る瞬間を見た。
なまじ顔が整っているだけに余計に怖い。
「──さて」
そして、冒頭の発言へと戻る。
「あのおバカさんはどこへ行ったの?」
ルシフェンは、その声音でここにいるのが自分とシスターのみであることを悟った。
少なくとも、信徒は存在しない。
この何もかもをかなぐり捨てたかのような、低い声音は胸ぐらを掴んでいないのが不思議なくらいだ。
完全に逃げ場はない。
「ご自分で君に知らせると言っていましたが」
ふ、ふふふ、と、目を座らせて、若いシスターが近づいてきた。
「知らせる。これほど知らせるという言葉に相応しくないことは滅多にないわ。なにが『ルーのところへ行ってます』なの……!」
いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どうやって。
あらゆる疑問符が付きそうなエステバンの手紙。
乾いた笑いを漏らすしかなかった。
脳裏にエステバンの言葉を思い出す。
『さて、ルシフェン。君に頼みがある。シモーネに伝えてくれないか? 後は任せたと』
この展開になることなど、エステバンの目からはきっと明らかで。
ルシフェンが予定より早めに到着することも。シモーネなら間違いなくルシフェンを捕まえることができることも。
そして、結局は彼の言伝をシモーネに伝える羽目になることも。
そういえば、エステバンがお願いの撤回をしていなかったということに気づいたが、すでに時は遅かった。
「……………君に、後は任せると、彼は言っていました」
人は、本当に憤りを感じたときはこれほどすべての感情を削げ落とすことができるのか、と、現実逃避をしてしまったが、目の前の女性が異音を発するにあたって、我に返った。
目をカッと見開いまま、唇の端から血が流れていた。
「……お、落ち着いてくださいッ」
視線も合わなくなったシモーネの肩を揺さぶり、正気に戻さねばとその一点に集中する。
ぎりぎりと歯の奥を噛み締める彼女は勢い余って口の中を怪我したようだ。
このままでは、脳の血管すら危うい。
額の誓紋から血が噴き出しかねない。
慈愛溢れるシモーネも、彼女の本質であることは知っている。
彼女に一定の精神的負荷をかけると、怖くなるだけで、それはエステバンも分かっているのに一切の遠慮をしない。
「私も儀式には参加します。並んでいるほうなので何ができるか分かりませんが、力になれることがあれば……」
「ッ……あなたの善良さを彼が見抜いた上で、何もかもを仕組んでいるのは、分かっている。分かっているのに……!」
「大丈夫、大丈夫です」
ルシフェンは言いたい。
大丈夫だから、落ち着いてくれと。
彼女の慟哭は、ルシフェンを巻き込むことに対しての自責の念だ。
画策した当人は歯牙にもかけていないというのに、彼女のほうこそ、随分と善良だ。
「大丈夫です」
ルシフェンは同じ言葉を三度繰り返した。
エステバンが何をしようとしているのか、具体的には何も知らない。
しかし、ルシフェンは知っている。
あの男は儀式を阻止するつもりであるということを。
ならば、自分の意思と合致する。
あの傍迷惑な男は、それでも様々な手法で相手を出し抜いてきた。
それを知るルシフェンは、彼の思惑に乗ることを厭わない。
可能性が最も高いのだから。
「さ、時間がありません。することがあれば教えてください」




