20.練兵場──葡萄酒と王弟
王宮の一角、練兵場の観覧席にちらほらと貴族の姿がある。
葡萄酒を片手に、若い騎士たちの馬上槍を眺めている。
馬蹄の音と怒号が飛び交うこの場所は、噂話に興じるのに最適だった。
特に目上の人物をくさすには。
観覧席のすぐ下では、騎士たちが馬の腹を蹴り、砂塵を高く巻き上げながら突撃の態勢を取っていた。
馬が大地を叩くたび、地響きが木製の観覧席を震わせ、体の芯にまで衝撃が伝わる。
それでも貴族たちは顔色ひとつ変えず、むしろ騎士の気迫を余興としか見ていない。
そんな冷淡さが空気に漂っていた。
「近ごろ、王都もなにかと騒がしいですな」
「どうも、ヴォルクレイ公の邸のあたりで物騒な噂がありますな」
「ほう、またか。市井では、夜中に大声で笑いながら駆け出す男だとか、訳のわからぬ歌を延々と口ずさむ老婆だとか……聞いたぞ」
「まるで狂気に憑かれたようだ、とな」
「奇妙なのは、同様のことがヴォルクレイ公の屋敷の近隣で起きていることです。出入りしている業者らしいですぞ」
「ふん。あの御仁が何をなさっていようと、こちらに害がなければどうでもよい。所詮は“王の弟”という肩書きのみで立っているお方だ」
「むしろ、このまま評判が落ちていただけるなら結構なことよ」
「治安の悪化は治世の問題でもありますからなあ。困ったものです」
槍がぶつかる甲高い衝突音が響き、騎士の一人が馬から大きく弾き飛ばされた。
その瞬間、観覧席に砂がかすかに飛び込み、兵たちは思わず身を乗り出したが、貴族たちは表情すら変えなかった。
むしろ葡萄酒を揺らしながら、まるで演劇の失敗でも眺めているかのような薄い興味しか示していない。
不敬罪になりかねない話も、小声であれば観覧席の入口に立つ兵まで届くことはない。
せいぜい、視察に来た貴族が目の前の馬上槍の訓練を好き勝手に評しているとでも思っているだろう。
気楽な貴族が葡萄酒の杯を軽く打ち合わせる。
無表情で立っている兵の眼差しは心なしか冷たいものを孕んでいた。
何を話しているのか分からずとも、仲間が懸命に訓練をしている風景の中で、視察と銘打って葡萄酒を酌み交わしていれば、いい気分にはならない。
王が視察に来るときは、葡萄酒どころか着座することもない。
背筋を伸ばし、鋭い眼光で側に控える将軍に二言三言伝える。
その時間、せいぜい四、五組の騎乗試合が行われるにすぎない。
馬上槍は突撃から衝突まで一瞬だが、待機から合図、再整列まで含めれば一巡で相応の時間がかかる。
王の視線はその短い数合いを逃さず捉え、槍の角度や馬の踏み込みの甘さを一言で射抜く。
「いまのは膝が緩んでいる。あれでは実戦で潰れる」
「馬の抑えがきかん。騎士より馬が勝っている」
そう口にして、わずかな時間で練兵場を去る。
王にとって視察とは、長居するものではないのだ。
王が去った後、ほんのわずかな緊張と敬意の気配が練兵場全体に残る。
兵たちはその余韻を胸に刻みながら、次の訓練へ向けて再び馬の手綱を握っていた。
だからこそ、観覧席の貴族たちが葡萄酒を酌み交わしながら軽口を叩く光景は、王の姿とは対照的に映る。
兵たちの胸中に、どちらが真の主であるかを強く刻みつけるのだった。
そして、そのどちらとも似て非なる、極めて異質な“王族”がもう一人いる。
王弟ヴォルクレイ公。
彼が現れるのは年に一度あるかないか。
王命を受けて、仕方なく腰を上げたのが見え見えである。
濃紺の外套を翻し、観覧席の最上段にゆるやかに腰を下ろすと、銀細工の杯に葡萄酒を満たし、香りを楽しむ仕草が目立った。
訓練の開始を告げる合図にも視線を向けず、若き騎士の突撃が始まるときでさえ、指先で髪を払ったり、杯の縁を眺めたりしている。
その優雅さは一見すれば気品と見えなくもない。
だが、ほんの一瞬だけ覗く金の瞳には、静かに渦巻く傲慢と軽蔑の色がはっきりと宿っていた。
騎士の突撃が砂を跳ね上げるたび、彼の唇には「不快だ」と言いたげな冷たい笑みがかすかに浮かぶ。
兵たちの目には「血と汗の鍛錬を、ただの見世物としか思っていない」冷淡さとして映っていた。
誰もが心の底で理解していた──ヴォルクレイ公は馬上槍にも兵の努力にも、まるで関心がない、と。
もっとも本人に悪びれる様子はない。
むしろ「王の弟」という肩書を背景に、騎士の突撃より優雅な自分を演出することこそが、視察の目的であるかのように。
その姿が人の口の端に上り、いつしか貴族たちが視察時に葡萄酒を持ち込むようになったのも、自明の理である。
一部の貴族たちへの悪影響を及ぼす人物、ヴォルクレイ公が王宮内に与えられた居室は、公爵家の広間に匹敵する規模である。
磨かれた大理石の床、金箔を散らした壁面装飾がその豪奢さを示している。
大窓の向こうには王都が見渡せるが、その景色は彼にとって「支配すべき領域」にすぎない。
城下の民がどれほどの混乱に陥ろうとも、憂慮の影が彼の顔に差すことはなかった。
執務を行うための重厚な卓が設置され、そこには柔らかい日差しが注いでいる。
残念ながら、本来の用途を果たさず、卓に置かれているのは銀杯だった。
赤い葡萄酒が注がれている。
玉座を模しているかのような贅を凝らした椅子に腰掛けることができるのは、この部屋の主だけである。
兄王のように逞しい体躯ではない。むしろ細身で長い足をゆったりと組んで座している。
北方の出自に相応しい白い肌、精緻な彫りの顔立ちに金茶の髪がさらりと肩口にかかる。
その様は、洗練された優雅さを感じさせた。
だが、それも浮かぶ表情を見るまでだ。
眼差しはきつく、どこまでも冷ややかで高慢さを感じさせた。
人を見下すことに慣れきった視線だ。
「愚劣な民どもが……!」
杯を握る指が震え、赤い葡萄酒が滴った。
その震えは怒りからか、焦りからか。
いずれにせよ、理性のたがが外れかけているのは明らかだった。
従者が慌てて布を差し出すと、ヴォルクレイ公はその手を払いのける。
葡萄酒のしみなど些末なことだ。だが、苛立ちの矛先を向けるには十分だった。
「下がれ、役立たずが!」
叫びとともに杯が壁へと投げつけられ、赤い飛沫が石壁に散った。
従者は顔を伏せ、震えながら後ずさり、素早く主人が投げつけた始末をすると、一礼して退室した。
その姿を一瞥すると、ヴォルクレイの口元に笑みが浮かぶ。
それは優雅な顔立ちを歪ませる、凍りつくような残酷な笑みだった。
まるで、他者の怯えそのものが彼にとっての蜜であるかのように。
「そうだ、あれは静かに効くはずだ。従順に従う以外の結果など、ありはしなかったのだ」
呟く声には、隠しきれない陶酔が混じっていた。
まるで自らの撒いた毒の進行具合を想像して愉しんでいるかのようだ。
だが現実には、貴族街でも狂気じみた騒ぎが続発している。
しかも、その発端はよりにもよって、自身の邸の近隣。
舌打ちが洩れ、華美な椅子の肘掛けを爪で叩く。
神経質な仕草に、仮初めの優雅さは剥がれ落ちる。
金の瞳には苛立ちと焦燥が混じり合い、奥底では“自分の支配が完璧でない”ことへの激しい拒絶が燃えていた。
──まだ、手は残されている。
兄王の威光を盾に、己は悠々と立ち回れる。
表面上は全面的に兄を支持し、臣下には「王の弟」として振る舞う。
それで十分と思わせておいて、裏では小細工を巡らせるのだ。
十年以上、やつの言う通り、おとなしく潜んできた。
王弟に甘んじつづけてきた。
手を伸ばせば、王冠が十二分に届く距離にも関わらず。
「アレが結果を伴えば、この程度の騒ぎなど帳消しにできる」
金の瞳にぎらりと光が宿る。
それは王の持つ威厳とは違う、己の野心と自尊心に酔った狂気の輝きであった。
「いずれすべては、私のものだ」




