2.旅立ちと襲撃
雨は二日続いた。
ぬかるみがあるが、馬車を走らせることはなんとかできそうとの知らせがあり、隣り村までの乗り合いの馬車が出る。
その馬車にアルは乗っていた。
隣り村の近くにある雑木林には、スイリンの朝露という発熱に効果の高い薬草がある。
シスターレイナが、冬に備えるには薬が心もとないと心配し、アルを隣り村までお使いに出した。
その名の通り、朝露が降りる時間帯に採らないと効果が見込めない。
何日かがかりの採取になることは、孤児院の面々にも伝えてある。
という設定だ。
「うーん……」
「なんだ? アル坊、初めての隣り村までの遠征で緊張してるのか?」
「朝が早いから眠いんだろ? 寝とけ寝とけ。今から二日かかるんだ。いいマント、あつらえてもらってるじゃねえか。シスター奮発したんだなあ。首元まで閉めておけよ」
「初めてなら、酔うかもしれんしな。寝てたほうが楽だろ」
知り合いばかりの馬車の中では、初めてお使いにいく子どもに寛容な声がけがされている。
孤児院のシスターレイナが子どもたちが独り立ちできるように、あちこちに気を配り、お手伝いをさせていることで、街での知り合いは多い。
少し前から次の馬車にアルを乗せてほしいと、シスターが頼んでいたようだ。
帰りは路銀を少し持たせているので、別の乗り合い馬車で帰ってくると、見送りにきたシスターが御者役の男に伝えていた。
アルは、口々に気を遣ってくれる男たちを一瞥して笑った。
「そうだよね。ありがとう。寝過ぎたら起こして」
呑気な言い草に、笑いが起こる。
「本気で寝るつもりだな、大物になるぜ」
「ま、この辺りは獰猛な獣も少ないしな。ちぃと気を抜いても大丈夫だ」
アルは礼を伝え、目をつむった。
楽天的なほうではあるが、さすがにこの状況で眠気はこない。
考えなければならないことが多すぎる。
まず、この靴底や衣類に縫い付けられた銀子は乗り合い馬車で帰るような金額ではない。
一人であれば、一年以上旅をし続けられるだろう。
目をつけられないように、音が鳴らないように、一つずつ小さな布で包んで縫い付けられている。
シスターは、あの夜、もう帰ってきてはいけないと言った。少なくとも、三年は何があっても。
そして、三年経って、もし何事もなくて、帰ってきたいと思ったときは本当の姿で帰ってこいと。
街を出て、東の辺境へ。
目的地へ着いたら、本当の姿になるように、と。
本当の姿。
何を意味しているのか、アルには分かっている。
だが、アルにしてみれば「それはそんなに大ごとなのか?」と言いたい。
挨拶の一つも許されず、出ていくことになる。
兄弟同然に過ごしていたフェリクスにさえ。
しかし、あの夜のシスターレイナは本気だった。
悠然とほほ笑む姿が常態の彼女から想像できないほど、真剣な眼差しで約束させられた。
誰にも何も言わずに、隣り村へ行き、そしてその翌日に次の村へ、そこからは日を置かずにさらに乗り継いで東へ向かえという。
一人だから、広大な森を通り抜けるより、村沿いに馬車を乗り継いで進むように。
誰か旅の共連れができたとしても深く関わらないように。
幾つもの注意を受けて。
アルがすんなりと孤児院から発つことを受け入れたのは、自分でもそうすべきだと感じたからだ。
昔から勘は良かった。
雨が降りそう、この方向に行かない方が良さそう、など些細な予感が幼い頃からアルを助けてくれた。
夜空をぼんやりと眺めていると、昔の旅人が道しるべとした星たちがアルに何かを教えてくれるような気持ちになる。
その予感が、シスターの言う通りにすべきだと伝えてくる。
生きてさえいれば、そしてその気があれば、会える。
三年後に会うときが楽しみだよな、と、アルは気を取り直した。
シスターレイナが孤児院から去り、フェリクスが春にガスパルさんのところへ行くのは、残された子どもたちにとって環境の変化が大きすぎるかもしれないとぼんやり考える。
しかし、子どもたちはたくましい。
環境に合わせて、したたかに過ごすだろうし、シスターレイナは残される子どもたちに対して、できる限りの手当をするだろう。
泥濘に脚を取られてか、馬車はゆっくりめだ。
振動も少なめでちょうどいい揺れ具合だ。
眠気はこないはずだったが、マントと日当たりの良さがアルをあらぬ方向性に導こうとしてくる。
少しだけなら意識を飛ばしてもいいかと思いつつ、何気なく視線を馬車の外へ向けた。
それは、偶然だった。
「っ! 血牙獣!」
黒の四つ脚が草むらの視界の端に見えた。
アルが叫んだ瞬間、周囲の男たちが立ち上がった。
手に鋤を持っている。
「どこだ!」
「ダンデ、速度を上げろ!」
「アル坊、どこだ」
「あそこ」
アルが差した先に、黒の塊が見えた。
男たちの喉から呻くような音が鳴った。
誰かが唾を飲み込む音も。
一頭、二頭じゃない。
──五頭。
「こんな……」
絶望の声が上がる。
血牙獣は別名ブラッドファングとも言われ、黒のしなやかな肢体に赤い筋が入る獰猛種だ。
深い森や山岳地帯での目撃情報はあったが、こんな人通りのある草原で、出てくるような獣ではない。
少なくとも、今までは。
奥の牙に毒を持ち、噛まれれば治療は難しい。
農具を武器がわりにしか積んでいない、戦闘経験もない男たちで五頭を相手取るには荷が重すぎる。
一際、鮮やかな赤の筋を持つ個体が一歩進んだとき、残りの四頭が馬車のほうを向いた。
完全に認識された。
そのまま二歩目を踏み出そうとし、最初の一頭がビクッと大きく背後を振り返った。
アルの耳に、小さな遠吠えが聞こえた。
しかしそれはすぐにもっと大きな音にかき消された。
馬蹄が土を打つ音が、急速に近づいてくる。
ヒュンッと風鳴り音が響いたあと、草むらの黒の一頭が断末魔の悲鳴とともに崩れ落ちた。
「アル!! 大丈夫か!」
「……フェル!」
ドッドッドッと泥を跳ねながら、馬上の少年は次の矢をつがえた。
全身を捻って矢を引き絞り、次の瞬間にはその手から放たれている。
その行方を確認することもなく、フェリクスは腰に穿いた剣に手をかけた。
そのまま、馬で草むらへ突入しようとしたとき、赤い筋を持つ一頭が身を翻した。
続けて二頭、後を追う。
馬車の中から、歓声が上がる。
「う、おおおお! フェリクス! 助かったぞ!!」
「よく、よく来てくれた! お前は命の恩人だ!」
「も、もうダメかと思ったぞ」
口々にフェリクスに感謝を伝え、涙を流すものもいる。
「あーあー、おっさんたち、獣よけも積んでなかったのかよ。油断しすぎだろ」
フェリクスは、なめした黒皮の上着と同じ素材の皮を手に巻き付けていた。
フード付きの外套も、軽装ながら防具として十分な装備をしている。
確かに、同行者たちは農具と布の服という、防御力皆無に近い格好だ。
言われても仕方ないが、アルは何よりフェリクスへ言いたいことがあった。
「……フェリクス、なんでそんなに強いの?」
「え?」
図らずも、それはここにいる全員の気持ちが一致していた。
それに対して、何を言っているのか理解できませんという表情でフェリクスは驚いている。
「なんでって、そりゃあれだけやられりゃ強くもなるだろ? お前だって」
「え? 何が?」
「え??」
相互理解が不可能な間が空き、フェリクスが叫んだ。
「お前、じいさんとこで何してたんだ!?」
「……農作物と、豚と鶏と馬の世話」
主な作業はそんなもんだ。
他にも言えない内容もあったが、間違いではない。
ガスパルが最初にアルに告げたのはこれだ。
「いいか、アル。鶏や豚の世話はさぼるんじゃない。水と餌を忘れたらどうなるか、わかってるな? あいつらは喋れないが、お前の手抜きはすぐにわかる。馬もそうだ。蹄の手入れを怠れば、いざって時に役に立たなくなる。……農作物だって同じだ。土を耕さなきゃ実りはないし、手を抜けばロクなもんが育たん。結局、何事も積み重ねだ。誤魔化して楽をしようとすれば、ツケはいつか回ってくる。……お前が痛い目を見て覚えるならそれでもいいがな。そうならんうちに、ちゃんとやれよ」
後は見て学べとばかりに、無言で指し示すだけだった。
いくつもの失敗を思い出し、遠い目をするアルを見て、フェリクスは本気だと気づいたようだ。
「……っあっの、くそジジイ!」
馬を驚かせないように、大声は控えたもののまなじりが吊り上がっているフェリクスを見ると、怒髪天だ。
ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしっている。
何があったか知らないが、フェリクスがここにいる安心感は大きい。
アルはニッと笑った。
「助かったよ。フェリクスにも、フェリクスを仕込んでくれたガスパルさんにも感謝を」
アルの言葉に、周囲がワッと沸く。
「だよな! すげえわ、ガスパルじいさんもフェリクスも」
「助かった。ほんとに助かった。感謝しかねぇ、帰ったらじいさんにもなんか持ってくわ」
「よおし、フェリクス、お前には腹一杯肉を食わせてやるよ。まずはアイツらを処理してここを早く離れよう。お前はアルを追いかけてきたんだろ。ちょっと待ってろ。埋めてくるわ、他の獣を寄せ付けちまう」
土を掘るのはお手のものだ。
男たちは、程なく処理を済ませ、馬車に乗り込んだ。
日が落ちるまでに、見晴らしがよく野営ができる丘にたどり着きたい。




