17.エステバン・クレメンス
夜が明ける直前、村の教会は薄い朝靄に包まれていた。
石壁に染みついた冷気は、夜の余韻を手放さず、礼拝堂には朝日が差し込む寸前の静けさが漂う。
「おや、そろっているとは、思ったより早起きだな」
低く、よく通る声が裏の入口から響いた。
施錠されていた扉を押し開けて入ってきたのは、茶の外套に身を包んだ男。
鋭さと落ち着きを併せ持つ眼差しに、司祭が息を呑む。
「……エステバン様……?」
驚きで声が震えた。
昨夜、密かに使いの鳩を放ち、瞳に星を宿す者を見た、と知らせたばかりだ。
王都で儀式対応の指揮を執るはずの彼が、一夜にして現れるなどあり得ない。
しかも、外套の汚れを見れば、どこから来たのか司祭は察することができた。
夜明けの村に正面から入らずとも、彼が知る道を夜通し歩けばこの教会に現れることは可能だ。
「私の報せを受け、許可いただければと思っていましたのに……!」
司祭が慌てて立ち上がる。しかしエステバンは軽く首を振った。
「急を要すると感じたのだ。君の判断は正しい。だが、星を宿す瞳とあらば、この目で見ずにいられると思うか?」
外套を脱ぎ、静かに近寄ってくる背の高い男から、アルを隠すようにフェリクスが立ちはだかった。
ゼスは笑みを絶やさず、腰元の短弓に手を添えている。
一触即発の空気を破ったのは、登場した本人だった。
「君たちほどの腕があれば、分かるだろう? 私はどうあがいても、星を継ぐものを害する腕はない。その警戒はないんじゃないか?」
不敵な笑みを浮かべつつ、ふんぞり返って伝える内容はなんとも情けないものだった。
それが的を得ていることはアルの目から見ても明らかだった。
彼は鉄を帯びていない。
背丈はあれど痩せぎすで、動きもフェリクスやゼスに比べたら緩慢としている。
しかし、その眼差しの強さが、その空気感が、只者でないことを肌で感じさせる。
警戒が解けるはずもなかった。
「私はエステバン・クレメンス。君たちが今、最も必要とする人間だ」
フェリクスが一歩前へ歩み寄り、視線を逸らさず問いかける。
「どうやってここに? なぜ、わざわざ俺たちの前に姿を現した」
「理由は先ほども述べた」
エステバンの声は低く、しかし礼拝堂の石壁を揺らすように響いた。
「君たちの中に、星を宿す者がいると聞いたからだ。だが……本当のようだな」
アルの瞳はフェリクスの背で見えず、この薄暗い中では判別がつかないはずだった。
エステバン・クレメンスという男は、そもそもフェリクスから視線をうつしていない。
「そりゃ、バレバレだよなあ。まんま、天灯だし」
呆れたように合いの手を入れたのは、ゼスだった。
短弓に手は添えたままではあるが、ある程度の警戒心をゆるめたようだ。
目を和ませ、目の前の男はゼスにも目を向ける。
「君の存在でも、ますます確信を得た。天灯と森が寄り添うなど、彼のものを置いて他にあるまい。さあ、待ち望んだ邂逅を私に果たさせてくれ」
エステバンの痩せた影が朝靄の中に伸び、少しずつ差し込み始めた朝日が祭壇の光に重なる。
「フェル、大丈夫」
アルに促され、フェリクスがわずかに体をずらしたとき、朝の光がふわりと広がった。
「……っ」
瞠目するエステバンの表情はそれまでの貼り付けた笑みを一掃したものだった。
アルの存在を目に焼き付けるように凝視し、感情を排した一言を漏らした。
「よく、無事で」
そこから小声で何かを呟き、強く目を瞑った。
額に二本の指を添え、流れるように心臓を三本の指で指す。
何かを祈る仕草であることは理解できた。
誰に対しての祈りかは分からなくとも、侵さざるべき真摯さが、そこにはあった。
時間にすれば、三度呼吸を繰り返すほどの間だった。今の表情は幻だったのかと思うほどの短さだ。また薄い笑みを浮かべる男がいた。
「さて、ルシフェン。君に頼みがある」
エステバンは、司祭に告ぐ。
「私が彼らを案内しよう。シモーネに伝えてくれないか? 後は任せたと」
「……は?」
「伝える間もなかったんだよ。大丈夫、彼女は分かってくれるはずさ」
初対面のアルでさえ、目の前の長身痩躯の男が心にもないことを話していると察知できた。
少しでも付き合いのある司祭ならどういう反応になるか。
「……お断りします」
「え? なんでだい?」
「あなた自身に連絡手段があること。シモーネの怒りを買いたくないこと」
「ああ、それね」
エステバンは軽く指を鳴らすと、笑みを深めた。
「ほら、やっぱり君は正しい。彼女は怒ると怖いからな。私だって、彼女の雷を頭の上で受けるのは御免だ」
ルシフェンは口をへの字に曲げながらも、どこか諦めの色をにじませる。
「……なら、最初から根回ししてから来られればよろしいでしょう」
「その時間も惜しかった。それに君への賭けは継続中だ」
司祭は呆れ顔を見せる。
「そう。君が断るか、それとも渋々引き受けるか。今のところ、私の頼みを引き受けるのは三割を切る。せめて割合は逆転するのがいいね」
エステバンはにやりと笑い、からかうように司祭を覗き込む。
「君は律儀で、恐ろしく用心深い。だから私は安心していられるんだ」
「……お褒めの言葉として、受け取っておきます」
そう答える声は硬かったが、ルシフェンの目には一瞬、笑みがよぎった。
そのやりとりを見ていたアルは、ずいぶん砕けた態度に意外性を感じた。
アルは第一印象をほぼ外すことはない。
エステバンのことを油断してはならないと感じた感覚まで是正するつもりはないが、少なくとも仲間に対して寛容ではあるらしい。
フェリクスも同様の印象だったらしく、わずかに硬さの残る声音で目の前の男に話しかけた。
「……ずいぶん気安いんだな」
「気安い?」
エステバンは大げさに首を傾げ、片手を広げる。
「君の前にいるのは、誰にでも厳しく当たる冷酷な陰謀家だとでも思ったか?」
ゼスがくすっと笑い、短弓から手を離した。
「そっちの方が楽で分かりやすいんだけどな」
「残念だが、私はそういう単純な性分じゃない」
エステバンは穏やかな口調で続けた。
「君たちが私を信じようと信じまいと、私には守るべきものと守る理由がある。だから──君たちを利用しようとしても、決して粗末には扱わない。それだけは保証しよう」
そう言って、彼は再び司祭へ視線を戻し、軽く肩を叩いた。
「ね? ルシフェン。君だって知っているだろう?」
司祭は小さく息を吐き、肩をすくめた。
「……ええ。エステバン様は嘘をつくときも正直ですから」
アルからすると、その評価は矛盾しているように思えたが、からからと笑うエステバンが気にする風もない。
「では、私からシモーネには連絡しておくとしよう。そうと決まったら、さっさと出ていかないとね。ルシフェン、君の村での評判を活かす機会がきた」
「……何をしろとおっしゃる?」
「彼らが村に来たのは、村人たちは知っている。出ていくのを知らないと、整合性は取れない。だが、私はこれ以上、彼らを人目につけることを望まない。さて、ここに無愛想かつ不親切と評判の、村人と最低限の付き合いしかしない司祭がいる」
キラキラと目を輝かせているエステバンと応対する司祭の表情は対照的だった。
死んだ目をエステバンに向けていたが、言いたいことは十二分に伝わったのだろう。
「夜間に年端も行かない少年たちは追い出したと。冷酷司祭の評判も追加しろと仰せですか」
「そう、さりげなくね。君は村人を案じて必要以上の接触を控えていたけど、いやあすばらしい采配だね。しかし足りないな。さらにもう一つ、強欲であることもお願いするよ」
何を言っても無駄だと、司祭は理解したに違いない。
ふう、とため息をついた司祭を前に、エステバンは笑みを深めた。
「まずは三割を目指し、君の合意が取れたことを喜ぶとしよう」




