13.境界樹の意思
森は淡い緑光をまとい、葉の隙間から零れる陽が三人の肩に柔らかく降りかかっていた。
枝先で鳥が囀り、時折、遠くの沢の水音が風に乗って届く。
結局、集落に三日ほど滞在し、大樹や森の護りの一族に送り出され、体調も万全だ。
「さて、ホーンを避けて通らないとねぇ」
先頭を行くゼスが、軽い調子で振り返る。
肩の上には、案内役の小鳥ピーがちょこんと止まっている。
「避ける?」
フェリクスが聞き返す。
ど真ん中に鎮座している巨大な体躯を避けることができるものなら、みんな迂回して通るだろう。
塚から離れれば離れるほど獰猛な獣に襲われる可能性が上がる。
しかも、塚の道から外れると、たちまち濃霧に包まれる。
「ダスクホーンの縄張りに入らない、別の道があるってことかな」
アルが足を止めず、のんびりした声で言った。
「お、姫さま、察しが早いね」
ゼスが口元を上げる。
「森の護りの一族だけが知ってる道を通る。人間の目じゃ、まず見えない」
ゼスが短く口笛を吹くと、ピーが飛び立ち、落ち葉に覆われた細い小道へ先導する。
アルはためらうことなく、ゼスが示す道へ進んだ。
フェリクスは何も言わず、ブレイドを引いてその後ろに続く。
アルのこういう勘に従うのは、もはや考えるまでもない自然な選択だというように。
ピーの進む道は、柔らかい緑の光に溢れていた。
三人が進むにつれ、木漏れ日はさらに柔らかくなり、緑光が一層濃く漂い始めた。
風が枝葉を揺らし、ざわめきはまるで囁き声のように耳に届く。
ふいに、頭上からひとひらの葉が舞い降り、アルの掌に落ちた。
葉脈の中を金色の光が流れ、やがて淡い粉となって溶ける。
「ほら、森が俺たちを通すってさ。と言っても、ここまで歓迎されることなんて、普通は無いけど」
ゼスの軽口に、アルは頬を緩めた。
不思議と、この道は護られていると実感する。
獰猛な獣が跋扈する樹海とは思えない、のどかな空気だ。
ピーがチチッと鳴き、肩の力を抜いたまま、淡い緑光の道を歩き続ける。
やがて道は、緩やかな下りへと変わった。
足元の土はしっとりと湿り、踏みしめるたびに、周囲の緑光が足首のあたりでふわりと揺れる。
ふと、右手の奥で霧が蠢いた。
塚道から外れた者を迷わせるといわれる濃霧──白い壁が、まるで意志を持った生き物のように枝間を這い寄ってくる。
フェリクスが足を止め、無言で剣の柄に手をかけた。
しかし、霧は彼らに触れる寸前で止まった。
微かな音を立て、金の葉が霧の中へ舞い込む。
その瞬間、白は淡い緑へと変わり、陽光に溶けるように霧がほどけていった。
「……霧が道を閉じない」
アルは静かに呟いた。
その声に応えるように、ブレイドがぶるるると短く嘶いた。
「おかしいねぇ」
ゼスが笑う。
「いつもはもっと難儀するんだけど?」
靄の向こうには、木々の幹がわずかに開けた場所が見える。
そこに立つのは、ひときわ太い大樹。
ゼスは肩越しに二人を振り返り、冗談めかして言った。
「──境界樹、森の門番だ。歓迎なのか、それとも……試されてんのかもしれないけど」
境界樹の幹の奥で、何かがゆっくりと動いた。
枝ではない。影でもない。
まるで、大地から伸びた木の腕のようなものが、彼らの方へとしなやかに伸びてきていた。
境界樹は森の霧の中でそびえ立ち、幹は巨岩のように分厚く、表面の裂け目から緑光がにじんでいる。
足元の土は湿り、葉の香りが濃い。
「ここを抜ければ、ホーンの縄張りは回避できるよ」
ゼスが軽く告げる。
試練を受けるという立場からの緊張感は感じられない。
幹の中央に、淡い光の輪が浮かび上がる。
ピーが短く鳴くと、輪はしゅるりと広がり、奥に石造りの通路が現れた。
だが、その先はすぐに揺らぎ、緑の霧が押し寄せる。
「動くな!」
ゼスの声と同時に、地面が隆起し、三人とブレイドを取り囲むように木の根がせり上がった。
根は蛇のようにうねり、隙間なく塞いでいく。
「物理的に、行かせないってわけか」
フェリクスが剣を抜き、肩越しにアルを見た。
アルは頷き、腰の小型ナイフを握る。
一本の根が鞭のようにしなり、アルへ迫る。
その瞬間、ブレイドが嘶き、蹄で根を弾き飛ばした。
「!」
アルはブレイドの首筋を軽く叩き、ゼスに視線を送る。
ゼスは緑還の弓を構え、矢をつがえる。
瞬きの間に、弓弦には緑光の矢が生まれた。
放たれた矢は根を貫き、土に溶け込むと周囲の根の動きを一瞬止める。
「今だ!」
フェリクスが踏み込み、止まった根を断ち切った。
剣筋に迷いはない。
しかし、次の瞬間、残った根が頭上から垂れ下がり、フェリクスの背を狙う。
「フェリクス!」
アルが手持ちのナイフを放ち、それは根の先端に刺さった。
緑色の樹液が飛び散り、根は引き下がる。
息を合わせるように、ゼスがもう一本矢を放ち、ブレイドが障害を蹴り飛ばす。
フェリクスは切り開いた隙間をさらに広げ、アルの手を引いて前へ。
ついに光の輪の前に辿り着いた瞬間、根の動きが止まり、森の奥から低く響く声がアルの脳裏に響いた。
──到達した。
光の輪は広がり、境界樹が静かに道を開く。
ゼスは笑い、肩に戻ったピーを軽く撫でた。
「これで、道は開けたね」
アルはナイフを鞘に収め、フェリクスと目を合わせた。
「ありがとな、背中」
「いや、当然のことだから」
フェリクスは目を細め、アルの頭をぽんと叩いた。
アルもそれ以上言及するつもりもない。
フェリクスと合流してから、彼がガスパルによって徹底的に剣技を仕込まれていると再認識した。
アルと同行することの多い街中では、気づく機会もなかったが、明らかにアルが身につけた護身術とは動きが異なる。
フェリクスの身のこなしからすれば、アルがナイフを出さずとも自身で防げたに違いない。
一瞬のうちにアルの動きも見極めて、手を出さずにいる。
簡単なようで難しい。
万一アルがナイフを外してからでも、自分で避けれる自信があったのだろう。
……長兄の気質だな。
彼が一番年長だった孤児院では、幼い子に自然と譲っているフェリクスを見てきた。
譲られた側が負担にならないようなやり方で、フェリクスは年下に安心を与えてきた。
それは剣を握る手の力強さよりも、ずっと人の心を支えるものだ。
フェリクスのその過保護とも言える性格は、本人は無自覚で、それを相棒と位置付けるアルにも発揮しているところがくすぐったい。
「フェリクスってさ、根っから守る側だよね」
先頭を歩くゼスが、振り返ってからかうような笑みを浮かべた。
同じようなことを考えていたアルは、ゼスの観察眼の鋭さにわずかに瞠目した。
「あ、もしかして姫さまも同じこと思ってた?」
「……同感」
「当の本人は自覚はあるのかな?」
フェリクスは肩をすくめる。
「さあな、何かを考えてしているわけじゃない。自分が思う己と、他人から見る評価は違うもんだろ」
「達観してるね!」
フェリクスの言葉に口笛を鳴らすゼスだが、アルはその言葉の続きを知っている。
『そして、他人からの評価は千差万別だ。捉われすぎて物事の本質を見誤るな』
言葉足らずの老爺が自分たちに伝え続けてきたことが、根を張っている。
「結局のところ、自分の行動を決めるのは自分、か」
アルの言葉で、フェリクスもガスパルに深く影響されていることを自覚したらしい。
ぽりぽりとこめかみをかくと、先を促した。
「せっかく境界樹が通してくれるうちに通るとするか」
それは間違いなく、第一優先事項だった。
だが、境界樹の光の輪をくぐると、アルは膜一枚の隔たりがあるかのように、周囲の空間が切り取られた感覚を覚えた。
くるくるとゼスの頭上では小鳥が羽ばたいている。
行き先を見失ったかのような姿に、ゼスが指先を伸ばした。
「ピー?」
指先にとまる小鳥をゼスが軽く撫でると、チチッと囀り、小鳥は飛び立とうとしない。
ゼスは辺りを一瞥し、眉をひそめた。
笑みが常態となっている彼にしては珍しい表情だ。
「んー……姫さま、フェリクス。このまま進むのは厳しいって森が言ってる」
「え? ダスクホーンの縄張りは超えたのに?」
最難関を超えたところでのまさかの中断にフェリクスは疑問を呈した。
そこに非難の色は無い。
単なる質問に、ゼスも軽く答える。
「ほら、見てみなよ」
膜のように感じていた向こう側に広がる風景に、アルは目を見開いた。
広大な湿地帯、そして薄暗さの奥に光る小さな赤い光。
認識すると、すぐさま風が湿った空気を運んできた。
それは根腐れした植物と、それだけではない獣の生臭さ、血臭までも孕んでいる。
「あれは……」
「確実に増えているね。下手したら、生態系が崩れそうなくらい。雨が降り続いたから、湿地帯が広がった。森が抑えていても、勢力が膨れ上がっている。ピーがとまるのは、森の警告ってこと」
重い水音が、ピチョンと静かに響いた。
踏み出せば、ぬかるみをかき分けて無数の影が近づいてくるだろう。
今はかろうじて森がその足を留めている。
異様に濃い気配が、一行を取り巻いていた。
アルは、静かに空を見上げた。
先ほどまでの緑の光が注いでいた森と異なり、木々の隙間から見える空が今にも降り出しそうな薄暗さを感じる。
「引こう」
「そうだねー。あんなに泥ワームがいると、それを餌とする水棲獣も巨大化してるだろうし。沼バシリスクもわっちゃわちゃいそう」
森をよく知る住人の追加情報に、フェリクスが剣の柄から手を離して確認した。
「来た道を戻ればいいのか?」
答えたのは、ゼスにとまっていた小鳥だ。
体を震わせたあと、飛び立った。
向かっていた方向と真逆に。
「西か。港町へ向かい、そこから船で東の海岸に着ける航路だねぇ。遠回りだけど、そこしかないってことだね。境界樹を超えたから、西に向かう選択肢が出てきてよかった」
ゼスがピーの方向から結論を導く。
独り言のようだが、フェリクスは気にしない。
「進む道があるなら、迷う必要がなくていい」
思い切りの良さはフェリクスの美点の一つだ。
アルもあまり悩む質ではないが、フェリクスはいつも即決だ。
今まで進んできた道が徒労であるとか、一切考えていないに違いない。
明快な回答にゼスが吹き出しつつ、アルを振り返った。
「姫さまもそれでいい?」
「もちろん」
異論はなかった。




