1.孤児院の日常と二人の少年
十余年前、その王宮では天を焦がす炎の中、革命貴族の旗が掲げられた。
旧王家の居住区、ルミナス殿は灰と化し、そこにいたはずの幼子は煙とともに行方をくらました。
王家に連なるものは、あるがままに滅びを受け入れ、ただ一筋の流れとなって歴史の底へ沈んでいった。
セレスタリア王国の終焉である。
曇天から、最初の一粒がこらえきれずに落ちた。
その後は水袋の底穴が広がったかのような勢いで雨足は強まった。
「あー、やっぱり」
今朝は数日ぶりの晴れ間が見えていた。
人々の波に押されながらも、アルは孤児院の買い出しで市場からの帰り道を急いでいた。
あともう少しで濡れずに済んだのに、と、買い物を腹に抱えて体でおおう。
あっという間に紺色の髪はびしょ濡れになった。
柔らかそうな髪質で、それは甘い顔立ちを引き立てるような夜空の色をしている。
襟足に届くくらいの長さで、背丈と細身の体躯から、10代前半の少年に見える。
寒くない時期でよかったなと、アルは他人事のように考え、人通りが少なくなった通りを走りぬけていく。
すぐに止むような様子はない。
雨の匂いからは明日の朝まで降り続けそうな予感がする。
本当は朝早くから買い出しにいけばよかったが、最年少のリリーが熱発した。
解熱作用のあるルルファ草は乾燥させたものが院内にあったが、苦味があり、三歳児は吐き出してしまった。
メルティの果実をつぶして水に混ぜれば、体を冷やす効果がある。
日持ちしないので、孤児院に常備することは難しい。
幸い近くの風鳴りの森で採取できるため、朝のうちに森まで取りに向かっていた。
幸い、孤児院の近くまで帰ってきていたので、服の中に入れた買い出しの食料は濡れずに済んだ。
「あー! びしょ濡れじゃない!」
「アル兄、ビチャビチャー!」
「ザック、アル兄に近づいたらダメだって」
「せんせー! アル兄がー!」
ギィー、と蝶番の音を軋ませて扉を開けた途端、かしましい声が響き渡る。
急な雨が降ってきたので、まだ外出しているアルを心配して待っていたのだろう。
しゃがんで服の中に抱えた荷物を下ろすと、ふわっと、頭に布をかけられた。
「アル、マントを乾かして、ズボンも着替えなさい。きちんと乾かさないと風邪をひくわ。シャツとチュニックはあまり濡れてなさそうね」
「シスターレイナ、買い出しのものもなんとか濡れずにすんだよ。リリーは?」
「メルティの実のおかげで今は落ち着いてるわ。眠ってる。明日の朝には熱も下がるんじゃないかしら」
顔を上げると、柔らかい緑色の髪が修道服のフードからこぼれていた。
教会のシスターや司祭がそうであるように、額に菱形の誓印を刻んでいる。
緑の髪の間に白い筋がところどころ混じり、まなじりに薄いしわを刻んでいる。
温かみのある瞳が笑みを形作っていた。
この孤児院の責任者として、十年以上この場所を守っている女性だ。
アルを労い、荷物を受け取ると、さっさと服を搾って暖炉に行くように命じた。
暖炉の側には、濡れた衣服を乾かすための紐が複数用意されている。
「ん?」
「ああ、フェルも濡れて帰ってきそうなのよ」
「フェリクス、ガスパルさんのところからまだ帰ってきてないんですか?」
「ええ、雨が止んでいるうちにしないといけないことが沢山あるって言ってたわね」
そう言い残すと、シスターレイナはアルが手に入れてきた荷物を持って台所へ消えた。
十二人分の食事を仕込むのに、ノアとエリーが手伝いへついていく。
街の近くで農場を営むガスパルの手伝いは、この孤児院にとって欠かせない日々の食べ物をほどこしてくれる。
何年も通っているので、最年長のフェリクスとアルは作業の手際もよく重宝されている。
最近はガスパルからの拳つきの指導も減ってきて、変わりにお小言が増えている。
ずぶ濡れで帰ってきて風邪をひいた日には、間違いなくお小言案件だ。
バタン!
蝶番が軋む間もなく、扉が開いた。
「フェル兄ー!!」
「フェリクスもびちょびちょー!」
「ザック、だから近づくなって」
また騒がしくなる子どもたちを制し、アルは暖炉の側にかけてあるもう一枚の布を丸めて扉付近に投げた。
「おつかれさん」
「おう」
赤茶けた髪の細身の少年は、布を片手で受け止め、ニッと笑った。
暖炉のそばに吊るされたアルのマントとズボン、布に包まれた本人を眺めながら、自分の服も手早く脱いでいく。
「そっちもだいぶ降られたようだな。お前にしちゃ、珍しい」
「いっつも、フェル兄だけ雨に降られるもんねえ」
「うるせー」
減らず口を叩く年下のニコに顔をしかめつつ、暖炉に近づいてくる。
アルはフェリクスのための場所を譲り、小さく笑った。
「降るのは分かってたんだけど、朝のうちに風鳴りの森に行かないと、当分また雨が続きそうな気がしたんだよね」
「あーそうかよ。ガスパルじいさんの機嫌がまた悪くなるぜ」
パチパチと暖炉の中で薪の音がする。
雨音と、雨漏りの音と。
「おら、ガキども。おれたちが帰ってきたら?」
「お掃除するー!」
フェリクスが習慣をうながすと、子どもたちはパタパタと掃除の道具を取りに走っていった。
残されたのは、暖炉の前で乾かす必要のある二人。
アルは、こちらを見ているフェリクスに気づいた。
琥珀色の瞳に、火の色が写っている。
いつもイタズラ好きな光を帯びている目が、いつになくまっすぐだ。
何か話があるということは、すぐに分かった。
「どうした?」
「じいさんがな、春になったら自分のところに来ねえかって」
思わず、目を見開いた。
フェリクスは自分より、一つ年上の十五才だ。
この孤児院を出るのは一番早い。
そろそろなんだろうとは、思っていた。
ただ、実感がなかっただけで。
「……そっか。よかったな、おめでとう」
「なんだよ。寂しいぜ、とか、なんとかあるだろが」
「まあ、寂しいと言えば寂しいけど、考えたら近いしな。それに来年にはぼくも出ないとダメだろうし」
「そりゃそうだ。会おうと思や、いつでも会える距離だわ」
この孤児院が設立されたのが、十三年前の争乱の後だ。
内乱で、寄るべのない子どもが増えた。
教会から派遣された司祭や修道女が、あちこちで古い建物を王国から借り受け運営している。
その中の一つであるここは、建物は古いが、出ていく子どもは、フェリクスが初めてになる。
出るときは、残された子どもたちは涙の大洪水だろう。
「アル、寝る前にちょっといいかしら?」
就寝前のあれやこれやを終わらせると、シスターレイナから声をかけられた。
シスターに促されるまま告解室へ入る。
狭いが二人なら特に支障はない。
シスターレイナは定期的に子どもたちの面談を寝る前に行なっており、それはけんかをしたり、失敗したり、何か彼女の琴線に触れることがあれば呼ばれた。
フェリクスが春になったら、出ていく話も、シスターレイナの耳には入っている。
アルが落ち込んでいないか、気にしてくれているのかと思いつつ、椅子に座る。
アル自身はフェリクスに伝えたように、少し感傷的になったものの、すぐに会えるだろうし、それほど気にしていない。
同じ場所に住まなくとも、途切れるような絆ではない。
シスターレイナは、湯気の出ているカップを両手に持ち、片方をアルに渡した。
ここでは温かいミルクが飲めるのだ。
だから、子どもたちはここに呼ばれるのが好きだ。
自分も一口飲むと、落ち着いた声で、シスターは言った。
フードをいつもより目深に被っているせいか、瞳の色は陰っている。
「近いうちに、私もここからいなくなるわ」
「え……?」
思ってもみなかった。
「王都に帰るの。ここには新しい司祭が赴任する予定よ。だから」
限界まで見開いたアルの濃紺の瞳を見つめながら、さらにシスターは告げた。
「すぐに、ここから発ちなさい」




