夜更けの談話室
今日の食堂は、どこか落ち着きがなかった。それも当然で、癒しの力が使える日が初めてやってきたから。日没から日の出までの短い時間。この間が彼女たちの力が使える時間だ。
同じ”侍女”でもセラはそんなことがなく、時々立ち眩みのような症状とともに勝手に文章として頭に流れ込む。と彼女は言っていた。文章なのが助かります、とも。そうだよね、写真や絵のように見えると恐ろしいものが見えてしまったときに辛いと思う。
「こんな変な時間に食べたら夜にお腹空いちゃいそうね」
キャトラさんが早い夕食の魚のソテーを口に運びながら呟く。守護魔術師の皆も同じように病院に行くみたい。詳しくは知らない。あまり聞くのも悪いし、わたしが知っていても……。
「大丈夫ですよ、いくらかソーチャさんが夜食をもらってくると言っていましたから」
セラが微笑みながらキャトラさんに教える。ララチアとルルフェ、それにレーチェはずっと不安と興奮をにじませてお喋りをしている。ノイラが食べておかないと体調を崩すかもと呟きながら、普段の彼女が食べている量の明らかに倍を用意してもらっていたけど、この様子だと食べきれなさそうだ。
飛び交う会話のほとんどがこの後のことで、それは仕方ないのだと分かっているけど。この家に来て初めて覚えた疎外感かもしれない。
力が使えなくても受け入れてくれた場所なんだから、人たちなんだからと言い聞かせる。それに誰かの力になれないことじゃなくてみんなと違うことで苦しくなっちゃだめだ。
「部屋に戻れって。顔色悪いぞ」
隣から声が聞こえる。ずっと頭の中でぐるぐると思考が回っていたから、ちゃんと外の様子が把握できていなかったみたいだ。ルイカのその言葉を聞いて皆が次々と大丈夫かと声をかけてきた。
「だ、大丈夫だよ。見間違いじゃないかな?」
体調は悪くないし、落ち込んでもない。ただ考えているだけ。そうだと言い聞かせる。顔を見合わせた後、皆はそれぞれの会話に戻っていった。皆の優しさが痛い。
「ノイラ、ど。どう? 食べられる? もしお腹いっぱいだったら言ってね。一緒に食べよう……」
話の途中でノイラの顔が曇るのを見てしまった。だめだ、空回っている。
「口を付けたものだからちょっと……今無理なら包んでもらってもいいですし」
そうだよね、と笑いながらごまかした。恥ずかしい。……皆、今日のわたしが様子おかしいって思っているのかな。そうだったらどうしよう。
「なんだ、リティは腹が減っているのか?」
ティトラスさんがにやりとした。わたしもえへへと笑って、それを見たソーチャさんが果物を分けてくれようとする。慌てて断った。
「そう? わかった。お腹空いたからってお菓子でごまかしちゃダメだよ?」
「気を付けます……」
正直言うと、わたしは結構そんなところがある。食べるのは好きだけどすぐにお腹いっぱいになっちゃって、食べた量が少ないから次の食事前にお腹が減って、お菓子も大好きだからお菓子も食べて。そんな感じ。お菓子を食べているからお腹が減っていないわけではない。ご飯を食べるときにはちゃんとお腹はぺこぺこだ。
ソーチャさんはキステットに袖を引っ張られて彼女に耳を近づける。なにか話しているみたい。ティトラスさんもレーチェにこれから行く病院について知っているかと問いかけられていた。話もひと段落だ。あと数口残った夕食に手を伸ばした。
しいんとした談話室。普段ならもう誰もいないはずの部屋に、わたしとルイカが二人だけ。セラとティトラスさんは一時間ほど前に部屋に戻っていった。わたしは、皆が日の昇った後帰ってくるのを待つつもりだ。わたしだけ何もせずに寝ているのはいけないことだと思ったから。
「ルイカ、そろそろ部屋に戻ったら? 明日大丈夫?」
ペンをすらすら走らせていたルイカがわたしの方を見る。談話室は誰もいなくなるまで昼のように照らされているから、実は部屋よりも夜の勉強には向いているのは向いているのだけど。
「もうちょっと。これが終わったら」
彼は手元から視線を外さずに答えた。この様子だと、本当に誰もいないから捗りそうだなと思ってここで勉強しているのだろうと思う。自意識過剰だけど、わたしがここにいるから気を遣って、ではなくて安心する。
わたしは、どうも何も集中できなくて火の消えた暖炉をじっと見つめていた。冬まで使わないからと掃除されていてぴかぴかだ。レンガとレンガをつなぐ白い部分を目でなぞっては戻っていく。これって本当に意味があるのだろうか。石でいろいろなものができていると考えると不思議な気持ちになる。
時間が進むのが、遅い。そんなことを思っちゃだめだと自制する。今、皆は頑張っているんだから。でも何をすればいいんだろう。
「リティ」
手招きされて首をかしげながら彼のもとへ歩いていく。彼が広げていたのは、何冊かの入門書。タイトルがなんだか、小さい子向けのような。彼が持っていなさそうな本だ。
「どうしたの、これ」
確か彼の本棚にはこれらの本はなかったはず。あったら一番に借りていたと思う。絵でわかる、なんて理想かもしれない。黒板の前に可愛いウサギが立っている絵が表紙だ。
「実家から送ってもらった」
そういえば数日前に大きな木箱が部屋に届いていた。実家からだとは聞いていたけど、本が入っていたんだ。
「ルイカの本?」
「まあ、そう。久しぶりに読もうかと」
彼の隣に動かされている椅子を示しながら座るようにと言われる。よくわからないけど頷いて座ってみた。ちょっと距離が近い。とは言ってもいつもと同じくらい?
「これ読んでみないか。簡単すぎるようなら言ってくれ」
カラフルな鳥が表紙だ。ウサギが表紙だった本よりは絵がリアルになっている気がする。あと、表紙がカラーだ。ほとんどの本は白と黒だから珍しい。正直言ってあまり本を読もうとは思っていなかったのだけど、ちょっとおもしろそうだ。
「……うん! ありがとう」
ページをめくってみる。本の厚さから察してはいたけど項目がたくさんだ。最後まで読めるかな。
「目次見て興味があるところから読めばいい」
そんな読み方もあるんだ。最初から最後まで読むのが本だと思っていた。辞書みたいなのは除いて。
「なんだかいいのかなって気になっちゃう」
とはいえ、今までのやりかたで慣れない気持ちだ。飛ばしていいのかな……。
「まあ、好きなように読めばいいんだけど」
それでも試しにルイカの言っていたように興味のある項目を開いてみる。丁度授業で先生が話していたところだ。筆跡の違う文章がたくさん書きこまれている。
大胆で文字一つ一つがはっきりしている字の人と、すらすらと崩しているけど綺麗な字。大胆な字の方に線が引いてあって、その先に疑問点がメモ書きされていた。どうやら時系列的には大胆な字の人より、字を崩している人が後みたい。
この字を書く人をわたしはよく知っている。わたしのノートの隅にもたくさん残っているから。姉から弟へと受け継がれた本だ。なんだか心が温かくなる。
「トリカさんの本だったの?」
目と指で文章を追いながら尋ねる。難しい文章はまだちょっと指で追った方が読みやすい。それでも教科書に比べたら簡単な文章だ。
「そう。姉さんが昔譲ってくれた」
「優しいお姉さんだね」
頭を触っている。否定も肯定もしない。多分、恥ずかしいんじゃないかな。
「あ、トリカさんが買ってくれたペンだ」
きらりと光ったペンをよく見ようと、顔を近づけて彼の手元を覗き込んだ。……なんだか、彼からいい匂いがする。
「ルイカ、いい匂いだね。石鹸?」
筆記に戻っていたルイカの動きがぴたりと止まる。不思議に思って首を傾げた。
「あ、あまり、その、そういうことは言わない方がいいと思う……」
目をそらすように。少し頬が赤い。なにかちょっとまずいことを言ってしまった気がする。思ったままのことを伝えたつもりだったのだけど。
「えっと」
彼の反応の答えが欲しくて顔を見つめる。喉の奥からうなるような声が聞こえた。
「においを嗅がれるのって恥ずかしいだろ、ちょっと」
頬の赤みが強くなる。説明したら余計恥ずかしくなったみたいだ。配慮が足りなかったね。
「ご、ごめんね。でもいい匂いだったよ。安心してね」
ちゃんとフォローはしておく。ハーブの匂いがとてもいい匂いだった。どこで買ったんだろう。今のところわたしはもらった石鹸をそのまま使っているから、使い切った後に候補にしたい。
「どこで買ったの? わたしも使いたいな」
しばらく黙ってしまった。声をかけようか迷っているうちに、お店の名前だけを教えてくれた。商品名は知らないままだ。でも、嗅がせてもらったらどれか分かるかもしれないし、何とかなるかな。
「あ、そっか! そうすると同じ匂いになっちゃうね。えへへ。照れちゃうなあ」
なんていうか、他人から自分と同じ匂いがするのってちょっと照れちゃうよね。それがよくあるものならともかく、特別なものだったらなおさら。
「……なんというか、変な誤解が」
「変な誤解? 何が?」
余計なことを言ってしまった、と言いたげな顔。何らかの誤解について、見当がつかないけどきっとそれは考えすぎだ。
「なんでもない」
そう言うと本に新しく書き込んでいる。わたしに向けての補足。姉弟だけの空間にお邪魔してしまったような気がして、ちょっと申し訳ない。
「で、ここまでで気になるところは?」
気になるところ……。
「この部分、書き写させてもらってもいい?」
なるほどと思った文章を指さした。この考え方なら今日の先生が言っていた内容もつじつまが合う。
「そうか、分かった。この本持っておくか? もう読まないだろうから」
ん? さっきは読み返したいから送ってもらったって言っていたような。
「え、でも」
「いらないならいいけど」
そんなことは決してない。もらえるならとっても嬉しい本だ。三人の先生に教えてもらっているようなものなんだから。
「ううん、いただくね。ありがとう!」
ん、とだけ答えると彼は読みかけだった自分の本に集中し始めた。わたしも真似をするように視線を手元に落とす。
朝からずっと固くなっていた気持ちがいつの間にかほぐれていることに気づいた。さっきまでよりずっと前向きな気持ちで皆を出迎えることができそうで安心する。