うまくいかない日だって
朝晩を除けば寒さもだいぶ和らいでいる、そんなある日の一、二年の共同授業で。二年生による実技に指名されたルイカは、授業の流れが分かっていないわたしでも明らかに分かる失敗をした。
学校の貯水池から水を引いてくるという魔術だったのだけど、勢いをコントロール出来ずに最前列の男子学生に思いっきり水をかけてしまうというミス。水のかかった彼は全く気にせずに笑いながら、さっと服を脱ぐと一瞬で乾かしていたけど……。
共同授業故に学生がたくさんいる状況、そこで指名されたのに失敗した自分が許せないのか、そのあとはずっと硬い表情のままだった。いつもはさりげなくわたしのノートに書きこんでくれるはずの解説も今日はない。何度もわたしのノートを見ていたから、いじけて書かなかったようにはとても見えなかった。
「メートリカの弟らしいけど、なんか……思ったより、なんだな」
それでもそのあとはスムーズに授業が終わって、教室を後にするためにすれ違ったときに聞こえたのはがっかりしたような言葉。彼らにとってはまさか聞かれはしないだろう、と思っていたから出た言葉だとは思う。
学生、特に首都出身者の間ではトリカさんは有名なようだった。いつもの彼女の言動からは想像しづらいけど、魔術師組合の若きエース。ベテランでも受けることを躊躇う案件であっても解決する。そんな評価。
……だから、一年生にとっては”弟”に少し期待している部分があったのだろう。そんな彼らにとって、ルイカの失敗は期待外れに映ったようだった。トリカさんはトリカさんで、ルイカはルイカなのにな。わたしが、そんなことを言えないか。まだよく知らない世界のことだから。
そんな言葉が耳に入ってしまったのもあり、どう声をかけていいのか分からなくてただついて行く。お昼休みを挟んで次の授業だから少しでも気分転換できればいいのだけど。
彼の表情とわたし自身の落ち着かない気持ちがあって、ざわざわと学生たちが次の授業だったり、食べるメニューだったりの話をしているのがわかるけど、どこか実感がない。
「昼食でも食べてくれば」
教室から離れて、少しだけ周りより幅が広い廊下の隅。あの後から初めて聞いた声は淡々としているようで強張ったものだった。誰にも気づかれたくないんだということがわかって、ぎゅうっと胸が苦しくなる。
校内という数少ない一人で居られる場所なのだから、そっとしておいてあげた方がいいのだとわかっているけど……。でも心配だ。
「うん。一緒に食べよう?」
返事は無く、少しのためらいもなく首を振られた。そっか。本当は断られるだろうなと分かっていたけど、ちょっと胸が痛む。
「……少し頭を冷やせば大丈夫だから。放っておいてくれ」
わたしが余計な気遣いをしていたのが伝わってしまったみたい。辛い言葉を言わせてしまった。
「わかった。ごめんね」
多分わたしの声は届いていないだろう。返事を聞くより先に、廊下の逆方向を歩いていったから。いつもより背筋が伸びていて、歩くのも早い。気持ちを悟られないようにしているのが逆に伝わってしまう。ただ見送るしかできなかった。
真夜中の一歩手前、そろそろ眠ろうかと迷う頃にわたしは彼の部屋にいた。日中の出来事にはなるけど、彼の言葉は本当だったようで次の授業の様子は普段どおりのものだった。彼の中で折り合いがつけられたのか、抑え込んで平静を取り戻したのか、それはわからない。
なんとなく不安と居心地の悪さを感じて、でも普段と違うようなことをしたら逆に気を遣わせてしまうと思って、今晩も彼の部屋のテーブルで借りてきた本を読んでいた。
「リティ、今日はごめんな」
元気のない、ためらうような言い方だった。背中を向けたまま。とっても迷っての言葉だってことは痛いほど伝わった。
「ううん。気にしないで」
少し、沈黙が続く。ランプの中の炎を見つめた。ゆらゆらガラスの向こうで揺れている。触れる少し前まで手を近づけた。
「呆れただろ」
冷たい、壁をわざと作るような声でルイカは言う。突然、彼は何を言い出したのだろう。呆れたとか、呆れていないとか。失敗一つでそんな大げさなと思う。そんなことがあるなら、わたしだって……。
「呆れないよ、誰にだって失敗はあるよ」
「そこじゃない」
そこじゃない? 彼は振り返ることなく否定した。じゃあ、何に呆れたと言うんだろう。
「そこじゃないんだ。それを引きずってリティに心配かけただろ」
「でも、落ち込むことだって」
わたしが言おうとした言葉の続きを遮るようにきぃと椅子を引いてわたしの方に体を向ける。丁度反対になるような座り方をして椅子の背に顎を乗せた。やっぱり、明らかに疲れた顔をしている。本当は今すぐベッドで寝てもらいたいくらい。
「うまくいかないんだ。何が悪いのかも理論も分かってるはずなのに」
まるでこれまでずっと息を止めていたようなため息交じりに彼は言う。その声よりずっと小さな声で、「どうすれば」とつぶやく声が聞こえた。あとは小さく、小さくなって聞き取れない。急な彼の言葉にびっくりしてしまった。
まだ一月も経っていない付き合いだけど、彼は勉強熱心で努力家だということは分かっている。でも、それを伝えてどうなるんだろう。
……付き合いの浅い、事情もよく知らない人に力が使えないことを慰められたら、わたしはどう思うだろう。多分それに近しいものだと思うけど、そう重ねることも間違っている気もして迷ってしまう。
だけど、椅子から立ち上がって彼のそばに行った。ルイカは不思議そうな顔をしているけど、それに構わず彼の前に立つ。
「教えてくれてありがとう」
背もたれを握っている手に両手で触れる。彼の体に触れたのは初めてじゃないけど、やっぱり少しだけひんやりする。びくりとルイカの体が動いて、それでも振り払わない。
励ます言葉をたくさん考えても、わたしには言えなくて、この言葉。気づかれたくなかったであろうことだったのに伝えてくれた。気持ちは形にした方がきっと楽になるけど、それがとっても難しいことは知っている。だから、ありがとう。
「なんだよ、それ」
困ったような顔。わたしは答えずに笑いかける。じっとわたしの手を見ていた。何を考えているのか、全くわからないからちょっとどきどき。余計なことを、とか意味が分からない、とか、そう思われてもおかしくないことをしている自覚はある。
「変なこと言い出してごめんな」
時間感覚が少しおかしくなってしまいそうな瞬間の後、困ったような微笑みを浮かべてルイカはそう言った。わたしはそんなことないと伝えたくて何度も首を振る。
「大丈夫。今日はゆっくり休もう?」
包んだ手をぎゅうっと握る。こんな疲れ切った彼の様子を見るのはつらいけど、それでもわたしにきっと言いたくない思いを伝えてくれた嬉しさがあった。
——どうして急に気持ちを教えてくれたのか考えるけど、頭が悪いわたしには想像がつかない。でも、もしかしたら、本当は一人きりだったはずの時間と空間にわたしという他人がいたから。なのかもしれない。
「そうだな、リティも」
大きく息を吸った後にルイカは言った。立ち上がりたさそうにしていたから、手をそっと離す。わたしにぶつからないように椅子を机側に寄せたあと、背もたれを支えにして立ち上がった。
「うん、また明日ね。おやすみなさい」
表情が少し明るくなっているように思えて、ほっとする。もちろんそれがわたしの勝手な想像なのかもしれないけど。
「おやすみ。ありがとう」
しっかりとわたしの目を見ておやすみのあいさつをしてくれる。皆とも部屋に入る前におやすみを言い合うけど、本当に寝る直前に聞くのは彼の言葉だ。だから、わたしにとってちょっとだけ特別なもの。
わたしの部屋へつながるドアを閉めるとき、もう一度だけ彼を見て小さく頷いた。