気弱な少女
「チトア!」
とある日の、学校から帰ったばかりの頃。荷物を降ろしていたら大きな声が聞こえた。男の人の声。職員さんかと思ったけど、どこか違う。チトアさんが職員さんにあんな怒られ方をするとは思えない。
全く動じていない、というか興味がなさそうなルイカは放っておいて、ちょっと様子をうかがおうと一回に降りてみた。何かあったのかもしれないし、職員さんを呼ばないといけない事態かもしれない。
階段を降りると黒い髪の男の人が立っていた。眼鏡をかけているけど、チトアさんとどことなく似ている気がする。この様子だと心配はいらないようだ。
「チトアちゃんですか……?」
わたしのすぐ後ろからおどおどした声が聞こえた。黒い髪に白い部分が所々混ざったような髪の女の子。コルネーヤだ。大人しくて控えめに主張するタイプだけど、チトアさんとは虫が合うようですっかり仲良くなっていた。
「そう、チトアだ。いつもお世話になっているね」
「いえいえ、こちらこそ」
お互いに面識があるような雰囲気だ。もう会ったことがあるのだろうか。
「チトアちゃんに何か用ですか?」
階段の上にいるのになぜか上目遣いだと感じられるような視線を男の人に向ける。そもそもこの人はいったい誰なんだろう。
「私のところに連絡が来てね。チトアが傍受した通信内容を盾に報酬の上乗せを要求していると」
難しい言葉が並んでいるけど、つまり何かしらのトラブルをチトアさんが起こしたことだけは分かった。報酬。チトアさんが作ったものは人気があると聞いている。学生なのにすごいな。
「さすがですね、チトアちゃん」
とんとんと階段を下りながらコルネーヤは目を輝かせている。コルネーヤ的にはさすが、なんだ。
「確かに、簡易的な送信装置のようだったが……。通信魔術を使わなかったのが逆に仇となったな」
少なくともチトアにはバレなかっただろうよと続ける。そもそもこの男の人は誰なんだろう。なんとなくお父さんだと思っているけど。
「なになに、ぼく呼ばれた気がするんだけど」
わたしの背中からチトアさんがひょっこり顔を出す。それを見た男の人の眉間にしわが寄った。
「チトア、降りてきなさい」
男の人の言葉を聞いた途端、わたしにしがみついて嫌そうな顔をしている。いたずらがばれた小動物のような反応で、ちょっと可愛らしい。背中も暖かくて、状況には似つかないけど癒されるような感じ。
「やだ」
「お嬢さんも困っているだろう。離れて、大人しく降りてきなさい」
ぎゅうっと力が強まる。ちょっと苦しくなってきた。
「ルネ、パパを説得してよ。内緒にするお手伝いの代わりにちょっとお小遣いの件でしょ?」
チトアさんとコルネーヤは”チトアちゃん”、”ルネ”と呼び合っている。もう出会って数日くらいでそんな呼び方だったから、すぐに仲良くなれたのだろう。
コルネーヤは困ったようにチトアさんと男の人、彼女のお父さんを見比べる。言葉が見つからないようで肩を落としていた。
「チトア、危険な橋を渡るのはやめなさい。私に話が行ったからよいものの……」
「大丈夫だよ、パパ。公然の秘密ってやつだし。だから話がパパにも伝わったんでしょ?」
そのこと自体は隠していない? じゃあ、何を秘密にしたかったのだろう。
「ちょっと、ね。やり取りが特殊なことをって話じゃん?」
やり取りが特殊? 気づけばいつのまにかチトアさんが離れていた。
「不倫相手とはっちゃけてたのをうっかり聞いちゃっただけだよ、ぼく」
なるほど。よくわからないけど分かった気がする。人の好みって色々あるし、仕方ないよね。不倫についてはだめだと思うけど。わたしは誠実な人が好きだ。
「あら、どうなさったのですか?」
職員さんがチトアさんのお父さんの後ろから現れる。洗濯籠に洗濯物がたくさん入っていた。いつも職員さんが洗ってくれている。身の回りのほとんどのことをしてくれて、感謝の気持ちしかない。
「ああ、お邪魔しています。許可証はこちらに」
彼がジャケットを引っ張った胸元にきらりとバッジがあるのを見つけた。神殿の敷地内、その奥の職員さんやわたしたちが住んでいるエリアに入るのに必要なバッジだ。
「ご丁寧にありがとうございます。もし御用でしたら応接室にお通ししましょうか?」
「ありがとうございます。チトア! 行くぞ」
もうこれ以上抵抗できないと思ったのか、この状況をひっくり返すすべを思いついたのか。そのどちらかは全く見当がつかないけど、チトアさんは渋々階段を降りていく。職員さんに案内されてお父さんとチトアさんは応接室へと消えていった。
似たようなむすーっとした顔の二人を見送った後、わたし達は顔を見合わせる。これからいろいろな”話し合い”が始まるんだろうけど、親子の問題だ。そっとこの場を立ち去ろう。
「さっきの騒ぎは何だったんだ」
右端から左端へと吹き抜けを通って部屋に戻る。ルイカはペンを走らせるのを一度やめて椅子ごとこちらを向いた。色々聞こえちゃっているみたい。
「チトアさんのお父さんが来たの。それでね、えっと……いろいろあって」
「ふーん」
聞いてきたのに、あまり興味がなさそうだ。単純に緊急性だとか自分に関わりがあるかとか、そのあたりのことを気にして聞いてきたのだと思う。
「そういえば、ルイカのお父さんってどんな人なの?」
変なものを見るような目で見られる。確かに急だなあという自覚はあった。でも、ちょっと聞いてみたい好奇心が抑えられない。
「いい父親だと思うよ。少なくとも古い考えの人じゃないしな」
ルイカが古い考え方についてあまりいい印象を抱いているイメージがなかったから意外だった。トリカさんはなんとなく分かるのだけど。
「普段どんなことをしているの?」
「なんでそこまで話さないといけないんだよ。ま、いいけど」
もしかしてすごく怒られちゃうのかと思ってちょっと身構える。呆れたような言い方だけど、怒ってはいないみたいだ。
「地方の役人だよ、ただの」
それは初めて聞いた。なんとなく魔術師の一家だと思っていたから意外だ。
「そうなんだ。どんなお仕事をされているんだろう?」
「知らない。あまり仕事のことを話さない人だから」
あまり気にした様子もなくルイカは言う。それは無関心ではなくて、信頼関係があるから「知らなくても心配じゃない」なのだと思う。難しそうなお仕事だな。
「わたしのお父さんはどんな人だったのかな」
何気なくつぶやいた言葉にルイカが目を細めた。なにか聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような表情。そんなつもりじゃなかったんだけど、わたしの状況からするとそう取られても仕方ないよね。
「あ、ごめんね。重たい感じになっちゃって……大丈夫、今のわたしは”女神様の娘”で”侍女”だよ」
……余計、心配されるような言い方になっちゃったかもしれない。取り繕うような言葉がすらすら出てきたけど、どれも心配させるようなもので。眉間に皺が寄っているルイカを見て不安になる。
「……ちょっと寂しいけど、納得はしてて、今みんなといられるのが楽しいの」
理解してもらえないかな、寂しいってところで心配されないかなと思って言えなかったことを口に出す。これが今の段階でのわたしの本音だ。
「わかった」
彼の表情が少し緩む。心配はいらないことだけでも通じていたら嬉しい。”納得がいっている”感覚は説明が難しいし。
「えへへ、ありがとう。説明が下手でごめんね」
ルイカが小さく首を振る。控えめな優しさが快い。会話も一応の終わりを見せ、互いに自分の作業に戻ろうとする。
「皆ー! 父ちゃんと母ちゃんからの差し入れだよー! 食堂に降りておいで!」
その時、玄関からここまで響いたのは快活で気持ちよく通る声。ソーチャさんの声だ。パン屋を営んでいる彼女のご両親はたまにパンを差し入れてくれる。そのパンはとってもおいしくて、何個でも食べられてしまいそう。普段量をあまり食べられないわたしでもそうなのだから、きっと一つだけ買って帰ったら後悔しちゃうだろう。
「降りるか」
まあ、とりあえず。といった言い方のルイカだけど、彼もパンを楽しみにしていることは知っている。わたしも途中だった片づけをいったん止めてドアを開けた。