わたしも彼も
ええと、ええと。どうしてこんなことになったのだろう。頭がまったく働かない。すでにさっきからずっと祭司長様に言われるがままだったけど。手順をいろいろと踏んだ後、どれくらいたっただろうか。ともかく、儀式はもう最後の段階に来ていた。
「いいから早く終わらせよう」
シャツを抱え込んで時折体を震わせながら男の子は椅子に座ったまま足をとんとんとさせている。たぶん、とっても怒っているのだろう。
どうやら朝と夜が同じ長さになるとき、つまり新年をついこの間迎えたらしいとはいえ、まだまだ冬の名残を色濃く残している。この部屋でも薪が盛んに燃えていた。その上で服をちゃんと着ているわたしだってまだ冷えるなと思っているのだから、シャツを着ていないとなおさら寒いはずだ。
「リティ?」
低い声に振り向く。わたしの名前だ。
おじさんとおじいさんの間くらいの年のころの、その目でにらまれたらすくんでしまうような雰囲気がある男の人。祭司長様が不審がってか声をかけてきた。緩やかに体を覆っているガウンは同じ色の糸による花の刺繍で満たされている。あまり冗談は通じない人なのだと職員さんが噂していたのをほんの一瞬聞いた。
そんな人に急かされてしまったらもういよいよ覚悟を決めるしかない。軟膏の入った瓶の蓋を開けた。やさしいトーンの薄い黄色で、なんだか大人っぽい匂いがする。嗅いでいるともやもやしてくるような。嫌な臭いではないし、どちらかといえばいい匂いなのだけど、本能的に? 嗅ぎなれない。
「ご、ごめんなさい……ひやっとするかも……」
ほんの少し指にとって、女神を表す図柄をちょうど心臓の真裏になるあたりの位置に描いた後擦り込む。ただそれだけなのだけど、どうも恥ずかしい。なんというか、出会ったばかりの男の子の素肌に触れるのは、わたしにとってなかなかハードルが高い。女の子ならいいのかと言われると、それはそれで同性ゆえに照れてしまう部分があって難しいな。
意を決して彼の背中に指を置く。明らかにびくりと肩が震えた。三角と丸で構成された図柄を描く。引っ掛かりなく指は進んでいった。うらやましいほど滑らかな肌だ。わたしなんてかさかさしている。潤いが足りていないというか、なんというか。さっきお風呂に入れてもらった時にクリームを塗ってもらったけど、当然まだ効果はあまり実感できていない。
一瞬だけそんな風に全く違う方向へ意識が向いてしまった。あわてて今自分がどこにいて何をしているのかを確認しなおす。シャツを顔に押し当てている彼の様子をそっとうかがうと、後ろから少しだけ見える頬が赤くなっていた。彼もこの状況に動揺していると思うとちょっとだけ親近感が湧く。
「……えっと。できました」
さらさらになるまで指で図形をなぞることで擦り込み終えたから、振り返って祭司長様に伝える。”冗談が通じない”所を見ていないのにもかかわらず、委縮してしまって上目遣いになってしまっている気がした。祭司長様は彼の背中を見て何度もうなずいている。
「よくできましたね、リティ。これで二人の間につながりが生まれました」
祭司長様は口元をわずかに緩めた。そんなことでつながりが生まれるのだろうか。そう思ったけれど当然言葉にはしない。そんなことを言ってしまえばどんなことになるか。
「これは魔術的なものですか。それとも単なる形式上のものですか」
ばさっと勢いよくシャツを羽織りながら彼は澄んだ声で祭司長様に向けて、わたしの疑問に似ている気がする質問を投げかけていた。場に緊張が走る。わたしまでなんだかそわそわしてきた。
「どちらでもありません。何か問題でも?」
祭司長様の言葉を聞いて強い不信の感情を露わにしている。最終的に行ったのはわたしだから罪悪感を覚えた。わたしは自分が無意識に胸の前で手を組んでいることに気づいた。止めたいけど止められないな。
「つながりとやら以外に効果はありますか」
彼は次々に質問する。当然、それに対して祭司長様もあまりいい顔をしていない。小さい声で聞こえないように「魔術師組合に染まっているな」と呟いていた。聞こえてしまった内容に首をかしげる。魔術師組合?
「女神の恵みに効果など……。なるほど、わかりました。貴方が言いたいことが。はっきり言いましょう。女神が人々に対して害なるものをもたらすとお思いですか」
祭司長様の言葉に彼は低くうなって反論しなかった。当然、できなかったのだろう。信じている、よりどころにしている、彼がそうであってもそうでなくても。そして、今話に上っている女神様がそんなことをしないとわたしもわかっていた。周りの人とは少し違う感覚で、かもしれないけど。
「……いつ、消えますか」
今のはちょっとだけ切ない気持ちになった。確かに一方的で、彼にとっては不明瞭で煩わしい物かもしれないけど。なんだか拒絶されている気がした。
「あなた方が役目を勤め上げた頃には。ご心配はいりませんよ」
彼は明らかに渋い顔をした。わたしたちの役目。わたしは女神様の授けてくれた力で人々を助けること。彼は、そんなわたしを守ること。
そんな授けてくれたはずの力を”使えない”わたしと、本来の役割を時代の変化で失い、ただの伝統で、意地悪に言えば昔から今へとつながる惰性でそばにいることになる彼。なんだか、おままごとみたいだ。言葉にできない胸の痛みがある。
そう、わたしは女神様が授けてくれた力の使い方を知らない。使えるのかもわからない。そもそも、わたしが何者かもよくわかっていない。
「……わかりました。不躾な質問申し訳ありません」
明らかに心がこもっていない言いかただったけど、ひとまずの謝罪を聞けて気が済んだみたい。祭司長様は若者にはそんなときがあるだとかなんだとか言って、自分のあごを撫でながら部屋を出ていった。冗談は通じないかもしれないけど、話は通じる人のように見えた。
「リティもごめんな。属している場所を悪く言われるのは自分のことじゃなくても嫌だろうし」
確かに、多くの人にとってはあまり気分のいいものではないのかもしれない。そう言いながら整えなおしている眼鏡のまんまるなフレームが、幼さを残す顔つきによく似あっていた。
「ううん。しょうがないよ」
首を振った。それに、数時間前目覚めたばかりで属している感覚なんてない。他の”女神の侍女”の子にすら会ったことがない状況。だから、どこにも根付く感覚がなくてふわふわ世界に浮いているような。
「リティも座れって」
頷いて部屋の端っこへ儀式のために追いやられた椅子に腰掛ける。部屋の真ん中に一人座っているのもやりづらかったのか、彼も私の横の椅子に移動していた。職員さんが呼びに来るまであとどれくらいかかるだろう。何やら考え込んで話しかけないほうがいい雰囲気を出していたから、わたしも黙ったまま床を見ていた。
沈黙の中、わたしは目覚めてから今、こんな状況に置かれているまでの経緯を思い出していた。