明創生の名将:徐達⑦
〇采石磯の勝利、常遇春の昇進
1355年(至正15年)の夏、長江のほとり、采石磯と呼ばれる断崖絶壁の地には、緊張感が満ち溢れていました。朱元璋の軍は、長江を渡り、集慶路(現在の南京にあたる、当時重要な都市)を攻略したばかりでしたが、元王朝は、その勢いを食い止めようと、采石磯に大軍を派遣していました。この采石磯は、長江の要衝であり、ここを制する者が、江南の覇権を握ると言われるほどの戦略的な重要地点でした。
朱元璋の幕舎では、徐達と常遇春、そして湯和が、今後の戦いについて熱心に議論していました。彼らは、目の前の地図を睨みながら、元軍の動きを分析していました。
「元軍は、采石磯の地の利を生かして、強固な防衛線を築いている。ここを突破するには、相当な犠牲を覚悟しなければならないだろう」
朱元璋が、厳しい表情で言いました。彼の言葉には、兵士たちの命を慮る気持ちが滲み出ていました。
徐達は、冷静に答えます。
「元軍は、その地の利に頼り切っている。だからこそ、我々が予期せぬ場所から、あるいは予期せぬ方法で攻撃すれば、彼らを混乱させることができるはずです」
常遇春もまた、力強く頷きました。
「そうです! 私が先鋒となり、敵の度肝を抜く突撃を仕掛けましょう!」
湯和も、二人の言葉に同意しました。
「采石磯は、地形が険しい。大軍での正面突破は難しい。少数精鋭で、敵の油断を突くべきでしょう」
朱元璋は、三人の意見を聞き終えると、深く頷きました。彼の軍には、知略に長けた徐達と、武勇に優れた常遇春という、まさに最強の矛と盾が揃っていました。
そして、運命の采石磯の戦いが始まりました。元軍は、その地の利に胡坐をかき、朱元璋の軍を侮っていました。しかし、彼らは朱元璋軍の巧妙な戦術を予測できませんでした。
徐達は、敵の警戒が手薄な場所を選び、夜陰に紛れて、精鋭部隊を上陸させました。彼の指揮は、いつものように冷静沈着で、兵士たちは迷うことなく彼の指示に従いました。そして、常遇春は、その最前線に立っていました。彼の体には、何よりも強い決意が満ち溢れていました。
「行くぞ! 我らがこの采石磯を奪い取るのだ!」
常遇春の雄叫び(おたけび)が、夜の闇に響き渡りました。彼は、まるで獣のように敵陣へと突進し、その怪力と豪腕で、行く手を阻む元兵を次々と薙ぎ倒していきました。彼の槍は、嵐のように舞い、その一振り一振りが、敵の士気を打ち砕いていきました。
徐達は、常遇春の猛攻の様子を見ながら、的確に後続部隊を投入し、敵の防衛線をさらに切り崩していきました。彼の頭の中では、戦場の全てが立体的に見えているかのように、次々と最適な指示が閃いていました。元軍は、まさかこんな場所から攻め込まれるとは思っておらず、完全に虚を突かれました。彼らは混乱し、指揮系統が寸断され、あっという間に総崩れとなりました。
夜が明ける頃には、采石磯は朱元璋軍の手に落ちていました。元軍は壊滅的な打撃を受け、その多くが降伏するか、逃げ散っていきました。朱元璋の軍は、快勝をおさめ、采石磯を占領し、そして平定――戦乱を収め、安定させること――することに成功しました。この勝利は、朱元璋の江南進出を確固たるものとし、彼の天下統一への大きな一歩となりました。
戦いが終わった後、朱元璋は、この戦いの最大の功労者である常遇春の元に歩み寄りました。常遇春は、全身血まみれになりながらも、その顔には達成感と高揚感が満ち溢れていました。
「常遇春よ、見事な働きであった! お前の勇猛さと、あの突撃なくしては、この采石磯を落とすことはできなかっただろう。その功績を称え、お前を総管都督に任命する!」
総管都督とは、軍を統括する重要な役職で、今でいう軍の総司令官のような地位です。常遇春は、この大きな昇進に、驚きと喜びを隠せない様子でした。
徐達は、常遇春の昇進を心から喜びました。彼は、常遇春の才能を誰よりも早く見抜いていたからです。同時に、自分もまた、朱元璋の天下統一のために、さらなる努力を重ねなければならないと、決意を新たにするのでした。
この采石磯の勝利は、朱元璋軍の士気を大いに高め、彼らの威名を天下に轟かせました。そして、徐達と常遇春の二人の将軍は、朱元璋の天下統一という壮大な夢の実現に向けて、その名を歴史に刻み込んでいくこととなるのです。
〇鎮江の攻防、徐達と常遇春の飛躍
1356年(至正16年)の春、長江下流には、朱元璋の軍勢の雄叫びが響き渡っていました。前年の采石磯の勝利で勢いを得た朱元璋は、さらなる勢力拡大を目指し、重要都市である鎮江の攻略へと乗り出していました。鎮江は、長江の要衝に位置し、水陸の交通を抑える戦略的な要地でした。
朱元璋の幕舎では、徐達と常遇春が、鎮江攻略の作戦について話し合っていました。彼らの顔には、この重要な戦いを必ず成功させるという、強い決意が満ちていました。
「鎮江は、元の軍が厳重に守っている堅固な城だ。しかし、ここを落とせば、我々の江南における足がかりは、確固たるものとなる」
朱元璋の言葉に、徐達は冷静に頷きました。
「ご命令とあれば、この徐達、必ずや鎮江を攻略いたします。常遇春殿と共に、先鋒を務めさせていただきます」
常遇春もまた、勇猛な目で朱元璋を見つめ、力強く応えました。
「もちろんです、兄貴分! 私の突撃で、敵の防衛線を突破してみせましょう!」
朱元璋は、二人の頼もしい言葉に、満足げに頷きました。徐達の知略と常遇春の武勇があれば、いかなる難攻不落の城も落とせると、彼は確信していました。
鎮江への進軍が開始されました。城壁は高く、堅牢で、元の兵士たちは、地の利を活かして頑強に抵抗してきました。しかし、朱元璋の軍は、これまでの戦で培った経験と、揺るぎない士気で、一歩も引くことはありませんでした。
徐達は、鎮江攻略の総指揮を執っていました。彼は、城壁の弱い部分を見抜き、そこに集中攻撃をかけるよう指示しました。また、城内の兵糧庫への陽動部隊を送り込み、敵を混乱させるなど、巧みな戦術を次々と展開しました。彼の采配は、常に的確で、兵士たちは迷うことなく彼の指示に従って動きました。
常遇春は、徐達の指示に従い、先頭に立って敵陣に突撃しました。彼の槍は、まるで嵐のように舞い、敵兵を次々と打ち倒していきます。その姿は、まさに鬼神のごとくで、敵兵は常遇春の突進を恐れ、次々と退却していきました。彼の猛攻が、城壁に大きな突破口を開いたのです。
激しい攻防の末、ついに鎮江は朱元璋軍の手に落ちました。この勝利は、朱元璋軍にとって、江南における重要な足がかりとなるものでした。戦いが終わると、朱元璋は、この戦いの最大の功労者である徐達を称え、彼を淮興翼統軍元帥という、軍の重要な役職に任命しました。
統軍元帥とは、広い範囲の軍を統括する総司令官のような地位で、朱元璋の軍における最も重要な将軍の一人であることを意味しました。徐達は、その温和な人柄の裏に秘めた、類まれな軍事の才覚を、この鎮江攻略で遺憾なく発揮したのです。
しかし、戦いはこれで終わりではありませんでした。鎮江を攻略した後、徐達が率いる軍は、さらに東へと進み、常州を攻略しました。常州もまた、江南の豊かな都市であり、ここを抑えることは、朱元璋軍の勢力をさらに強固なものとしました。
そんな折、呉の勢力――朱元璋のライバルであった別の反乱軍の一派――が、徐達の軍を牛塘という場所で包囲したという報せが届きました。呉軍は、その地の利と兵力を活かして、徐達の部隊を完全に孤立させていました。徐達の軍は、まさに絶体絶命の危機に陥っていました。
この危機に、常遇春が駆けつけました。彼は、徐達が包囲されていることを知るや否や、休む間もなく軍を率いて、牛塘へと急行しました。常遇春の軍は、まるで嵐のように呉軍の包囲網に突入し、その圧倒的な武力で、敵を蹴散らしていきました。
「徐達殿を救い出すのだ! 怯むな!」
常遇春の雄叫びが響き渡り、呉軍は彼の猛攻に総崩れとなりました。彼は、包囲網を突破し、見事に徐達の軍を救援――救い助けること――しました。
常達は、常遇春の迅速な救援に心から感謝しました。彼の登場がなければ、この窮地を脱することはできなかったでしょう。この常遇春の活躍は、朱元璋の耳にも届き、彼はその功績を大いに称えました。そして、常遇春を中翼大元帥に任命しました。
中翼大元帥もまた、軍の重要な指揮官の地位であり、常遇春が朱元璋軍の中核を担う存在となったことを意味しました。
徐達と常遇春は、この鎮江と常州の攻略、そして牛塘での救援を通して、互いの信頼をさらに深めました。徐達の冷静な判断力と、常遇春の勇猛な行動力は、まさに朱元璋軍の両翼となり、彼らの天下統一への道のりを、力強く切り拓いていくこととなるのです。
〇激流を制す、知勇の連携
1356年(至正16年)の夏、朱元璋の軍は、長江下流の要衝、鎮江と常州を立て続けに攻略し、その勢いを大きく広げていました。特に、鎮江での徐達の巧みな指揮と、牛塘での常遇春の決死の救援は、将兵たちの間で語り草となっていました。
戦が一段落し、わずかな休息を得たある夜、徐達と常遇春は、静かな幕舎――軍のテントのこと――の中で向かい合っていました。油灯の揺れる光が、彼らの顔を照らしています。二人の顔には、戦い抜いた男たち特有の、充実感と疲労が入り混じった表情が浮かんでいました。
「常遇春殿、今日の武功は、まさに天下に比類なきものでした。あの牛塘での救援がなければ、危うく命を落とすところでした」
徐達は、心からの感謝を込めて常遇春に頭を下げました。彼の言葉には、偽りのない敬意が込められていました。
常遇春は、豪快に笑いながら、徐達の肩を叩きました。
「何を仰せられますか、徐達殿! あなたの周到な采配があってこそ、私の突進も活きるのです。あの鎮江攻略の見事な手際こそ、まさに神業でしたぞ!」
互いの健闘を称え合った後、二人の会話は、自然とこれまでの戦い、特に水戦の話題へと移っていきました。
「この長江での戦いは、陸での戦いとはまるで違いますね」
徐達が、地図に広がる長江の流れを指差しながら言いました。
「もちろんです! 水戦は、船の種類と、その使い方で勝敗が決まりますからな」
常遇春が、力強く頷きました。
「長江で使われる主な船は、大きく分けて二種類ありますな。一つは、私たちが主に使っていた沙船と呼ばれるもの。これは、平底で安定性が高く、荷物も多く積めるので、兵士や物資の輸送に優れていました。喫水が浅いので、浅瀬でも航行でき、多くの兵を迅速に運ぶことができます。」
徐達は、沙船の特徴を分かりやすく説明しました。
「そして、もう一つは、敵が使っていた楼船のような大型の戦闘艦です。これは、高く櫓が組まれ、多くの兵士が乗り込み、遠距離から弓や石を撃ち込むことができます。まさに水上の城塞のようなもので、直接ぶつかれば非常に強力な相手です」
常遇春が、楼船の威容について付け加えました。
「水戦では、いかにして敵の大型船の優位性を崩すかが鍵となります。直接ぶつかるのは得策ではありません。私たちは、沙船の機動性――素早く動けること――を生かし、敵の隙を突いて、火攻めを仕掛けたり、夜陰に紛れて近づき、白兵戦に持ち込む戦法を得意としていました」
徐達は、自身の得意とする水戦の戦術について語りました。
常遇春は、深く頷きながら、自身の戦い方を付け加えました。
「そう! 私などは、まず小舟で敵の大型船に接近し、身軽さを生かして乗り込み、敵兵を蹴散らして、船を奪い取るような戦い方を得意としていましたな。敵は、まさか少数の兵が直接乗り込んでくるとは思わないでしょうからな!」
彼の言葉に、徐達は微笑みました。常遇春の大胆不敵な戦い方は、敵にとってはまさに悪夢でしょう。
「しかし、我々二人の戦術は、それぞれ異なるにも関わらず、なぜこれほどまでに上手くいくのでしょうか」
常遇春が、不思議そうに問いかけました。
徐達は、静かに、しかし確信に満ちた口調で答えました。
「それは、我々がお互いの得意な戦術を深く理解し、尊重しているからです。常遇春殿は、誰よりも先に敵陣を突破し、その武勇で敵を混乱させることに長けている。私は、そのあなたの突進を最大限に生かすための、道筋を作ることに努めます。敵の弱点を見抜き、兵の配置を工夫し、あなたの力が最も効果的に発揮されるように準備する。そして、あなたが道を切り開いた後、私はその混乱に乗じて、敵を完全に包囲し、殲滅する」
徐達は、さらに言葉を続けました。
「そして、私が困難な局面に直面した時には、常遇春殿が、あなたの勇猛さで駆けつけてくれる。牛塘での救援が、まさにそれでした。我々は、互いの役割を明確に認識し、決して相手の領域を侵すことなく、互いに助け合う。それが、我々コンビの強さの秘訣なのです」
常遇春は、徐達の言葉に深く納得し、満足げな表情で頷きました。彼の武力と、徐達の知略が、まるで呼吸をするかのように連携し、最強の相乗効果――二つ以上のものが合わさることで、単独では得られない大きな効果が生まれること――を生み出していることを、改めて実感したのです。
夜空には、満月が輝き、長江の波音が静かに響いていました。二人の間には、言葉以上の深い信頼が築かれていました。彼らは、この知勇の連携をもって、朱元璋の天下統一という壮大な夢を、必ずや現実のものとすることでしょう。彼らの前には、まだ多くの強敵が立ちはだかるでしょうが、彼らの絆と戦術は、どんな困難も乗り越える力を秘めていました。
「それにしても、我々が組むと不思議と負けませぬな。」
「未来永劫までそうありたいものですな!わはは!」
千年後まで「名コンビ」と称えられる二人の快活な笑い声が辺りにこだましました。