明創生の名将:徐達⑳
◯胡惟庸の獄、友の嘆願
1380年(洪武13年)頃、中華全土を統一した明朝は、新たな時代を迎えていましたが、その宮廷には、暗い影が忍び寄っていました。宰相であった胡惟庸が謀反を企てたとして、彼とその一族、そして関係者が次々と処刑される、通称「胡惟庸の獄」が始まったのです。獄とは、罪人を捕らえて罰すること、あるいは大きな事件のことを指します。これは、洪武帝(朱元璋)による功臣粛清の始まりであり、多くの功臣たちが巻き込まれ、命を落としました。
病に侵され、すでに自身の死期を悟っていた徐達は、この惨状に心を痛めていました。太傅と太師という最高の位にありながら、彼はこの粛清の流れを止める術がないことに苦悩していました。
しかし、胡惟庸の獄には、ある奇妙な例外がありました。それは、徐達や洪武帝の故郷である濠州鍾離(現在の中国安徽省鳳陽県)の出身者は、刑罰の対象外とされていたことです。洪武帝は、この粛清の嵐の中で、自身の故郷の者たちだけは、特別扱いをしたのでした。この事実は、徐達にとって、ある種の安堵をもたらすと同時に、大きな葛藤を生み出しました。
ある冬の日、病で体が重いにもかかわらず、徐達は、自らの意思で洪武帝の元を訪れました。彼の顔色は悪く、その足取りも覚束ないものでしたが、その瞳には、決意の光が宿っていました。
洪武帝は、徐達の訪問に驚き、そして心配そうな顔をしました。
「徐達、なぜそなたがこのような病身でここへ?」
洪武帝の声には、親友を気遣う気持ちが滲み出ていました。しかし、徐達は、その優しい言葉にも、表情を変えませんでした。
「陛下……この胡惟庸の獄について、お話し申し上げたいことがございます」
徐達は、辛うじて体を起こし、深々と頭を下げました。洪武帝は、彼を座らせると、静かに彼の言葉を待ちました。
「洪武帝、あなたは変わってしまった」
徐達の言葉は、まるで氷のような冷たさでした。洪武帝は、その言葉に、わずかに眉をひそめました。
「俺は変わっていない。徐達、そなたは何を言う」
洪武帝は、徐達を睨みつけるように言いました。彼の目は、かつての戦友に対する感情と、皇帝としての絶対的な権威が混じり合っていました。
「濠州鍾離の人々は味方だ。そうだ、俺は故郷の人間を信じる。だが、宮廷にいる高官どもは、かつて憎んだ敵だ。奴らは、俺が泥水をすすっていた頃、俺を見下し、民を苦しめた。金と権力を持った輩は、皆殺す」
洪武帝の声は、怒りに震えていました。彼の言葉からは、かつて貧しい農民であった頃の恨みと、天下を統一した今、その恨みを晴らそうとする執念が感じられました。彼は、腐敗した官僚や、私腹を肥す貴族たちを、自らが憎んだかつての支配者たちと同じ「敵」と見なしていました。
徐達は、静かに洪武帝の言葉を聞いていました。そして、ゆっくりと顔を上げ、問いかけました。
「……それでは、私も殺すのですか?」
その言葉に、洪武帝はハッとしました。彼の表情は、一瞬にして凍りつき、怒りが消え失せ、驚きと困惑に変わりました。
「馬鹿を言うな! 徐達、そなたは……そなたは親友だ。共に死線をくぐり抜けてきた。殺さん! 絶対に殺さん!」
洪武帝は、立ち上がり、徐達の肩を強く掴みました。その手は、震えていました。徐達は、洪武帝の言葉に、わずかに表情を緩めました。彼は、洪武帝がまだ、友としての情を失っていないことを確認しました。
しかし、徐達の口から出たのは、さらに洪武帝を驚かせる言葉でした。
「陛下、皇帝たるもの、差別はいけません」
徐達の声は、静かでありながらも、揺るぎないものでした。
「高官たちを殺すのであれば、まず私から殺すべきです」
その言葉は、洪武帝の耳には、まるで雷鳴のように響きました。洪武帝は、徐達の真意を測りかね、大きく目を見開きました。
「何を言うのだ、徐達! お前は大切な存在だ! 明朝には、お前が必要なのだ! 殺せるわけがないだろう!」
洪武帝は、激しく拒否しました。彼の顔には、友を失うことへの恐れと、徐達の言葉の持つ重みに、苦悶の表情が浮かんでいました。
「陛下……私は、もう長くないのです」
徐達は、自らの背中を指さしました。
「私は死病です。どうせ、もうすぐ死にます」
その言葉に、洪武帝の顔から血の気が引いていきました。彼は、徐達の病状がそこまで悪化していることを、初めて知らされました。
「なに……?! 死病だと……?!」
洪武帝は、信じられないというように、徐達の顔を見つめました。彼の目には、悲しみと、そして深い絶望が宿っていました。
「だから、陛下。遠慮することはありません。私が死ねば、公平性を損なうこともない。まず私を殺して、王者としての公平性を示すべきです」
徐達の言葉は、まるで自らを犠牲にして、洪武帝を、そして明朝を救おうとするような、悲壮な覚悟に満ちていました。彼は、この粛清の嵐の中で、洪武帝が公正な皇帝であることを、自らの命をもって示そうとしていたのです。
「ダメだ……! 徐達! お前は必要だ! 死ぬことを禁ずる! 死なないでくれ!」
洪武帝は、徐達の手を再び強く握りしめ、涙を流しました。彼の声は、親友を失うことへの恐怖と、彼を止められない無力感で、震えていました。徐達は、洪武帝の涙を見て、静かに微笑みました。彼の目的は、洪武帝に公正さを説き、そして彼が友としての情を失っていないことを確認することでした。
この日、徐達と洪武帝の間で交わされた会話は、明朝の歴史に深く刻み込まれることとなるでしょう。徐達は、病に侵されながらも、最後まで洪武帝の親友として、そして明朝の忠臣として、その命を懸けて、洪武帝を諫めようとしたのでした。彼の病は、次第に彼の体を蝕んでいきましたが、その心は、最後まで明朝の安寧を願う、静かな情熱で満たされていました。
◯揺れる宮廷、友との追憶
1381年(洪武14年)頃、明朝の都、応天府(現在の南京)には、冷たい風が吹き荒れていました。宰相であった胡惟庸が謀反を企てたとして、彼とその一族、そして関係者が次々と処刑される「胡惟庸の獄」は、すでに多くの功臣たちの命を奪い、宮廷全体を恐怖で震え上がらせていました。
そんな嵐の真っただ中、病に侵され、背中の疽(腫瘍のこと)に苦しむ徐達の邸宅には、洪武帝(朱元璋)から密かに数々の名医が送り込まれていました。医者たちは、徐達の病を治すべく、日夜懸命に治療を施していました。洪武帝は、最も信頼する親友であり、明朝建国の最大の功労者である徐達を、何としても救いたいと願っていました。
徐達は、医者たちが真剣な面持ちで診察し、様々な薬を調合する様子を眺めながら、内心で苦笑していました。洪武帝の気遣いは、もちろん嬉しくもあり、温かいものでしたが、同時に、この病はもはや医術ではどうにもならないことを、徐達自身が一番よく分かっていたからです。
「陛下も、ご無理をなさる……」
徐達は、深々と息を吐きました。自身の命が尽きようとしている中で、友がこれほどまでに心を砕いてくれることに、感謝と、そして少しばかりの寂しさを感じていました。
そんなある日、徐達の元に、一人の老将軍が訪れました。それは、同じ濠州鍾離(洪武帝と徐達の故郷)出身で、共に戦乱の世を駆け抜けてきた古参の友、湯和でした。湯和もまた、長年の激戦を生き抜いてきた百戦錬磨の武将でしたが、その顔には、胡惟庸の獄による深い疲労の色が浮かんでいました。
湯和は、徐達の病床の傍らに座ると、まず、宮廷の状況について、重い口を開きました。
「徐兄……今回の獄は、あまりにも酷い。多くの者が、無実の罪で命を落としている。陛下も、少しばかり、度が過ぎるように思えるのだが……」
湯和の声には、深い悲しみと、そして洪武帝に対する複雑な感情が混じり合っていました。徐達は、湯和の言葉に、静かに頷きました。彼もまた、心を痛めていました。かつての友が、今は自らの手で多くの功臣を粛清していく姿は、徐達にとって耐え難い光景でした。
「陛下は、清廉な国を望んでおられる。しかし、そのやり方が、あまりにも……」
徐達は、言葉を濁しました。彼には、洪武帝の真意も、その奥底にある孤独も、理解できていました。だからこそ、痛ましく、そして悲しかったのです。
二人の老将は、しばらくの間、重い沈黙に包まれました。そして、湯和は、その沈黙を破るように、ゆっくりと話し始めました。
「しかし、我らは、よくぞここまで来たものだ。振り返れば、まるで夢のようだ」
湯和の言葉に、徐達の表情が、わずかに和らぎました。
「ああ……そうだ。まだ、私らが泥まみれになって、小さな砦を攻め落としていた頃が、つい昨日のことのようだ」
徐達の声には、懐かしさ(なつかしさ)が滲み出ていました。
「常遇春も、劉基も、まさかこんな世が来るとは思わなかっただろうな」
湯和は、遠い目をして、空を見上げました。常遇春は、徐達と並び称された明朝の猛将で、数年前に北伐の途上で病没していました。そして、劉基は、明朝の制度設計に尽力した天才軍師で、その才知は天下に轟いていましたが、数年前に病死していました。しかし、その死には、胡惟庸による毒殺説が囁かれていました。
「常兄は、きっと天国で、また一番槍を振るっているだろう。劉先生は、あの世で、新たな戦略を練っているかもしれないな」
徐達は、静かに笑いました。彼の言葉には、亡き友への深い愛情と、変わらぬ敬意が込められていました。
「そして……皇后様も……」
湯和の口から、馬皇后の名が出ました。馬皇后は、洪武帝の妻であり、慈悲深く、賢明な皇后として、多くの人々に慕われていましたが、つい数年前にこの世を去っていました。彼女は、乱世の荒波を共に乗り越え、常に洪武帝を支え、諫めてきた、まさに明朝の母のような存在でした。
「皇后様が生きておられたら、きっと、陛下ももう少し、穏やかであっただろうに……」
湯和の声は、かすれていました。馬皇后の死は、洪武帝にとって、計り知れないほどの悲しみをもたらし、その後の彼の政治に大きな影響を与えたと言われていました。
徐達は、黙って湯和の言葉を聞いていました。彼の心には、長きにわたる戦乱の中で共に苦楽を分かち合い、そして先に旅立っていった大切な人々の顔が、次々と蘇っていました。常遇春の豪快な笑い声、劉基の冷静な分析、そして馬皇后の温かい笑顔。彼らの思い出は、徐達の心を温かく包み込みました。
湯和は、徐達の顔を見て、彼の病状が深刻であることを改めて悟りました。彼の目には、悲しみが滲んでいましたが、それ以上に、長年の友への深い友情が込められていました。
「徐兄……どうか、ご無理をなさらぬよう……」
湯和は、徐達の手を握りしめました。徐達は、その温かい手に、静かに応えました。
二人の老将は、胡惟庸の獄という暗い時代の中で、亡き友たちの思い出を語り合うことで、互いの心を慰め合っていました。徐達の命の灯火は、刻一刻と消えゆこうとしていましたが、彼の心は、友との絆と、明朝の未来への希望で、満たされていました。
◯最後の贈り物、友の涙
1385年(洪武18年)の旧暦2月、明朝の都、応天府(現在の南京)には、まだ冬の寒さが残っていました。太傅と太師という最高の位にありながら、征虜大将軍として中華統一の礎を築いた徐達は、長年の病に侵され、ついに病の床に伏していました。彼の背中には、黒く腫れ上がった疽、あるいは腫瘍と呼ばれるできものが、彼の命を蝕んでいました。
徐達は、薄れゆく意識の中で、朦朧とした目で天井を見つめていました。彼の耳には、遠くから聞こえる胡惟庸の獄の響きが、まだ残っているかのようでした。彼は、すでに自分の死期が近いことを悟っていました。
そんな徐達の元へ、一人の宦官(皇帝に仕える役人のこと)がやって来ました。その宦官は、厳重に包まれた木箱を抱えており、静かに徐達の枕元に置きました。
「徐公、陛下より、お見舞いの品でございます」
宦官の声は、どこか硬く、緊張しているようでした。徐達は、かすかに頷き、木箱を開けさせました。中から現れたのは、湯気を立てる、見事に蒸し上げられた一羽のガチョウでした。
ガチョウは、当時、腫れ物を患う者にとっては厳禁の食べ物とされていました。病状を悪化させると信じられていたのです。徐達は、そのガチョウを見た瞬間、思わず苦笑しました。
「陛下も、随分と意地の悪い冗談を……」
しかし、そのガチョウの肉を切り分けようとした時、徐達の指先に、何か硬いものが触れました。肉の奥深く、巧妙に隠されていたのは、一枚の紙切れでした。開いてみると、そこには、洪武帝(朱元璋)の筆跡で、震えるような文字が記されていました。
「徐達へ」
徐達は、その文字を見ただけで、洪武帝の苦悩と、彼を思う気持ちが伝わってくるようでした。彼は、震える手で、その手紙を読み進めました。
「ガチョウは当時、腫れ物には厳禁の食べ物とされている。これはそなたも知っているであろう。私からお前にガチョウを送ったとなれば、遠回しに死ねと伝えたことになる。
これで、後世では、私がそなたを殺したことになるだろう。
だが、俺は親友のお前を殺すことができない。これ以上、お前を苦しめることはできない。これが精一杯だ。すまない」
手紙の最後に、洪武帝の涙の跡のような染み(しみ)が見て取れました。徐達は、その手紙を読み終えると、堪えきれずに、その場に泣き崩れました。彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちました。
それは、洪武帝の甘さであり、同時に、親友への深い心遣いでした。この手紙は、表向きは命を奪うことを示唆しながらも、実際には「親友を殺すことなどできない」という洪武帝の切なる願いが込められていました。後世の人々が、この出来事をどう解釈しようとも、洪武帝は、最も大切な友を自分の手で殺すという汚名を、あえて被ろうとしていたのです。
「陛下……陛下……!」
徐達は、絞り出すような声で、洪武帝の名を呼びました。彼の涙は、洪武帝の孤独な戦いと、それでもなお友情を忘れなかった彼の心に、深く触れた感動の涙でした。病の苦痛も、胡惟庸の獄による絶望も、この瞬間、徐達の心から消え去りました。彼は、友の深い愛情と、自らの命を懸けた洪武帝のメッセージを受け取ったのです。
徐達は、涙を拭い、震える手で、そのガチョウの肉を一切れ取り、ゆっくりと口に運びました。肉は、彼の体には毒となるはずでしたが、この時の徐達にとっては、友からの最後の贈り物であり、友情の証そのものでした。彼は、その一切れ一切れを、噛み締めるように食べました。その味は、苦くもあり、甘くもあり、そして何よりも温かい、友情の味がしました。
その数日後、旧暦2月27日(陽暦4月7日)、徐達は、静かにその息を引き取りました。享年54歳(数え年)。明朝建国の最大の功臣は、友の温かい心遣いに包まれながら、安らかにこの世を去りました。
友の死、帝の慟哭
徐達の死の報せは、洪武帝のもとへと届けられました。洪武帝は、その報を聞くや否や、深く悼みました。彼は、最も信頼し、愛した友を失った悲しみに打ちひしがれ、大声で**慟哭**しました。慟哭とは、声を上げて激しく泣き叫ぶことです。彼の目からは、とめどなく涙が溢れ落ち、その姿は、一国の皇帝というよりは、大切な友を失った一人の男の悲しみに満ちていました。
「徐達……徐達よ……! なぜ、お前まで……!」
洪武帝は、自らの非力さを呪い、天を仰いで嘆きました。彼は、徐達の病を治すことができなかったこと、そして、彼に最後はガチョウを送るという苦しい選択をさせたことに対して、深い自責の念に駆られていました。
洪武帝は、徐達の功績を永遠に称えるため、彼を中山王に追封しました。中山王は、明朝において、最高の王号であり、徐達の偉大なる功績を後世に伝えるものでした。また、彼の諡号は「武寧」とされました。諡号とは、死後、その人物の生涯の功績や性格を表すために贈られる名前のことです。「武寧」は、「武勇に優れ、天下を「寧」んじた(安らかにした)」人物に贈られる称号であり、まさに徐達の生涯を完璧に表していました。
徐達の死は、洪武帝にとって、単なる一人の臣下の死ではありませんでした。それは、共に泥水をすすり、共に天下を駆け巡った、かけがえのない親友の喪失であり、彼の孤独な皇帝としての道を、さらに深いものにしました。しかし、徐達の遺志は、洪武帝の中に、そして彼の軍略を継承した永楽帝の中に、確かに生き続けることとなるのです。明朝の柱、徐達の生涯は、こうして静かに幕を閉じました。




