表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/20

明創生の名将:徐達⑱

辺境へんきょうの旅、明朝みんちょういしずえ


1374年(洪武7年)の秋、中華ちゅうかの統一はほぼ成し遂げられ、朱元璋しゅげんしょうが築いた明朝みんちょうは、新たな安定期を迎えようとしていました。しかし、北にはいまだ元朝げんちょう残党ざんとう、すなわち北元勢力ほくげんせいりょくの影がちらつき、南には蛮族ばんぞく襲撃しゅうげきも散発的に起こっていました。太傅たいふ太師たいしという最高の位にありながら、征虜大将軍せいりょだいしょうぐんとして、明朝の安寧あんねいにな徐達じょたつは、新たな任務を負うことになりました。


洪武帝こうぶていは、自身の右腕である徐達に、各地の辺境防御へんきょうぼうぎょ視察しさつし、防衛体制の整備に尽力じんりょくするよう命じました。辺境とは、国境のあたりにある、国のはしの地域のことです。これは、武将としての徐達の経験と、その冷静な判断力、そして何よりも彼が持つ人々からの信頼が買われてのことでした。戦乱の世を終え、これからは守りの時代。その重責を、洪武帝は徐達に託したのです。


徐達は、自ら数人の側近そっきんと護衛の兵を連れ、広大な明の領土を巡る旅に出ました。彼の旅は、北は万里ばんりの長城が連なる荒野から、南は鬱蒼うっそうとした山林が広がる地域まで、多岐にわたりました。道中、彼は、その地の風土や住民の生活、そして最も重要な、敵の侵入を防ぐための地形や防衛施設の状況を、自らの目で確認していきました。


北の辺境では、徐達は、元朝の騎馬隊が侵入してくる可能性のある隘路あいろや、物資の輸送に使われる街道を重点的に視察しました。彼は、風雪に耐えながら、廃墟はいきょとなった城壁や、かつての戦いの痕跡こんせき丹念たんねんに調べました。


「この地の守りは、以前のままでは甘い。元朝の残党は、いまだ虎視眈々(こしたんたん)とこの中華の地を狙っている」


彼は、側近に命じ、古い砦の再建計画や、新たな監視所の設置場所を詳細に記録させました。また、兵士たちの訓練状況や、装備の不備なども厳しくチェックし、改善を命じました。時には、現地に駐屯ちゅうとんする将軍と膝を突き合わせて議論を交わし、その地の特性に応じた防御策を共に考えました。彼が提案する戦術は、かつて常遇春じょうぐうしゅんと共に戦った経験や、劉基りゅうきから学んだ知識が凝縮ぎょうしゅくされたもので、実戦的でありながらも、長期的な視点に立ったものでした。


南の辺境では、状況はまた異なりました。そこは、山深く、密林みつりんが広がる地域であり、元朝の騎馬隊とは異なる、ゲリラ戦を得意とする蛮族が潜伏せんぷくしていました。徐達は、その地の地理に詳しい現地の人々から話を聞き、彼らの生活様式や、敵の侵入経路を細かく把握していきました。


「この地の守りは、城壁だけでは不十分だ。森の中に隠れた敵に対応できるよう、小規模な巡回じゅんかい部隊を増強し、奇襲に備える必要がある」


彼は、兵士たちに、山林での訓練を強化するよう指示を出し、わなの設置方法や、地の利を活かした防衛戦術を自ら指導しました。徐達の目は、どんな小さな不備も見逃しませんでした。彼の視察は、単なる形式的なものではなく、明朝の辺境を守るという強い責任感に裏打ちされた、真剣なものでした。


旅の途中、徐達は、多くの民衆と触れ合いました。戦乱の終結によって、彼らの生活は少しずつ落ち着きを取り戻し始めていましたが、依然として不安を抱えている者も少なくありませんでした。徐達は、彼らの話に耳を傾け、その苦境くきょうを理解しようと努めました。彼の温厚な人柄と、民を慈しむ心は、多くの人々の心を和ませ、明朝への信頼を深めることに繋がりました。


何ヶ月にも及ぶ辺境視察を終え、応天府に戻った徐達は、洪武帝に詳細な報告書を提出しました。その報告書には、各地の現状、改善すべき点、そして新たな防御策の提案が、緻密ちみつに記されていました。洪武帝は、徐達の報告を聞き、深く満足しました。


「徐達よ、そなたのおかげで、朕は安心して国を治めることができる。そなたの忠義ちゅうぎと尽力には、ただ感謝の念しかない」


洪武帝の言葉に、徐達は静かに頭を下げました。彼の顔には、疲労の色が見え隠れしていましたが、その瞳には、明朝の安定と繁栄はんえいのために尽くせることへの、静かな喜びが宿っていました。


この辺境視察と防衛体制の整備は、徐達にとって、戦乱の世を駆け抜けた武将としての集大成しゅうたいせいとも言える任務でした。彼は、戦場での武功だけでなく、国家の安定と民の平和のために尽くす、文武両道ぶんぶりょうどう傑物けつぶつであることを証明しました。徐達は、これからも明朝の柱として、その安定と発展のために、静かに、しかし力強く尽力していくのでした。



◯偉大なる軍師ぐんし、星となる


1375年(洪武8年)の春、応天府おうてんふ(現在の南京ナンキン)の宮廷きゅうていには、ひそやかな緊張感が漂っていました。太平の世が訪れたとはいえ、権力を巡る争いは絶えず、その嵐の中心にいたのは、明朝みんちょうの制度設計に尽力じんりょくした天才軍師、劉基りゅうきでした。徐達じょたつは、太傅たいふ太師たいしという最高の位にありながら、尊敬する友の苦境くきょうを、ただ見守ることしかできませんでした。


劉基は、清廉潔白せいれんけっぱくで、私利私欲しりしよくを嫌う人物でした。彼は、御史中丞ぎょしちゅうじょうとして、重臣じゅうしんたちの不正や綱紀こうきの乱れを厳しく監視かんしし、弾劾だんがいすることをいといませんでした。しかし、その厳しさが、多くの功臣こうしんたちの反発を買うことになります。特に、宰相さいしょう李善長りぜんちょうや、後の宰相となる胡惟庸こいようらは、劉基の存在が、自らの権益けんえき影響力えいきょうりょくおびやかすものだと感じていました。


彼らは、劉基に対する讒言ざんげんを繰り返しました。讒言とは、人をおとしいれるために、事実を曲げて悪口を言うことです。洪武帝こうぶてい朱元璋しゅげんしょう)は、劉基の忠誠心と才能を深く理解していましたが、重臣たちの間で深まる対立を憂慮ゆうりょしていました。結局、劉基は、彼らからの讒言を受けて弾劾され、再び上京じょうきょうするよう命じられました。それは、事実上の左遷させんであり、劉基の宮廷での立場が危ういことを示していました。


「劉先生……」


徐達は、上京する劉基の背中を見送りながら、胸中でつぶやきました。彼の心には、尊敬する友の身を案じる深い憂慮がありました。戦場では、共に戦い、敵を打ち破ることができました。しかし、宮廷での権力闘争けんりょくとうそうは、武力で解決できるものではありませんでした。


帰郷ききょう後の死、そして毒殺説


劉基は、宮廷での職務を終え、故郷へと帰っていきました。しかし、彼の病状は、帰郷後悪化の一途を辿たどり、ついにその命は尽きました。享年65歳。戦乱の世を駆け抜け、明朝のいしずえを築き上げた稀代きたいの軍師は、静かにその生涯を閉じました。


しかし、劉基の死には、ただならぬうわさささやかれました。それは、胡惟庸こいようによる毒殺説です。胡惟庸は、劉基が「宰相の器ではない」と評したことを恨みに思っており、劉基を排除しようと画策かくさくしていたと言われています。実際に、劉基が病で床に伏していた際、胡惟庸が見舞いに訪れ、彼に薬を差し入れたという記録が残されています。その薬を飲んだ後、劉基の病状が悪化したという話もあり、毒殺の疑念ぎねんは、後世まで語り継がれることになります。


この毒殺説は、後に起こる胡惟庸のごく(胡惟庸が謀反むほんくわだてたとして、彼とその一族、関係者が次々と処刑された大事件)とも深く関連付けられることが多いです。胡惟庸の獄は、洪武帝による功臣粛清こうしんしゅくせいの始まりとも言われ、多くの功臣がその犠牲となりました。劉基の死は、この血なまぐさい政治闘争の序章じょしょうであったのかもしれません。


徐達の慟哭どうこく


劉基の死の報せが徐達のもとへ届けられたとき、彼は自室で静かに座っていました。その報を聞いた瞬間、徐達は、言葉を失いました。彼の胸には、深い悲しみと、そして言い知れぬ怒りがこみ上げてきました。


「なぜだ……!なぜ、劉先生のような御仁ごじんが……!」


徐達は、震える手で茶碗ちゃわんを握りしめ、その場に慟哭どうこくしました。慟哭とは、声を上げて激しく泣き叫ぶことです。戦場でどんな苦難に直面しても、決して弱音を吐かなかった徐達が、まるで子供のように声を上げて泣きました。彼の涙は、単なる悲しみだけではありませんでした。そこには、乱れた宮廷の現状に対する憤り、そして、劉基のような清い心が、なぜこのような形で失われなければならなかったのかという、深い絶望が込められていました。


彼は、劉基の生前の言葉を思い出していました。天下統一後も、真の平和を築くためには、清廉な政治と公正な法が必要だと、劉基は常に説いていました。そして、胡惟庸を「宰相の器ではない」と評した、その先見のせんけんのめいが、今、現実のものとなっていました。


徐達は、涙をぬぐい、深く息をつきました。彼の心には、劉基の遺志いしを継ぎ、明朝を清く正しい方向へと導いていくという、新たな決意が宿りました。


後世に遺る(のこる)栄光


劉基の死後、その輝かしい功績を永遠に称えるため、洪武帝は彼に「文成ぶんせい」の諡号しごうを贈りました。諡号とは、死後、その人物の生涯の功績や性格を表すために贈られる名前のことです。「文成」は、「文学ぶんがくに優れ、功績を「成」し遂げた」人物に贈られる称号であり、まさに劉基の生涯を完璧に表していました。


劉基は、その肉体は朽ちても、その知恵と精神は、明朝の歴史に永遠に生き続けることとなりました。彼の名は、武将たちの間だけでなく、学者や民衆の間でも、稀代の軍師として語り継がれていくことでしょう。徐達は、劉基の死によって、さらなる重責を背負うことになりました。それは、洪武帝を支え、明朝の安定を確かなものにするだけでなく、劉基が望んだ「清い国」を守り抜くという、彼自身の使命でもありました。



◯娘の旅立ち、新たなきずな


1376年(洪武9年)の春、応天府おうてんふ(現在の南京ナンキン)の宮廷きゅうていは、かつてないほどの喜びに包まれていました。それは、太傅たいふ太師たいしという明朝みんちょう最高の位にある徐達じょたつの娘、後の徐皇后じょこうごうが、明の第3代皇帝となる永楽帝えいらくていこと、朱棣しゅていの皇后となることが決まったからです。


徐達は、自身の邸宅ていたくで、とつぐ前の娘と向かい合っていました。娘の顔には、新たな生活への期待と、少しばかりの不安が入り混じった複雑な表情が浮かんでいました。徐達は、戦場では決して見せることのない、父親としての優しい眼差しで娘を見つめていました。


「お父様おとうさま……わたくし、本当につとめを果たせるでしょうか」


娘の声には、わずかな震えがありました。


徐達は、静かに娘の手を取りました。その手は、戦場で幾多のけんやりを握りしめてきた武骨ぶこつな手でしたが、今は温かい父親の手でした。


「心配することはない。お前は、聡明そうめいで、心優しい娘だ。それに、朱棣殿下しゅていでんかは、殿下でんか洪武帝こうぶていを指す)の御子おんこの中でも、ひときわ優れておられる。きっと、お互いに支え合い、良き夫婦となれるであろう」


徐達は、娘の頭を優しくでました。彼の心には、娘への深い愛情と、彼女の幸せを願う親としての温かい思いが溢れていました。同時に、これで朱元璋しゅげんしょうの皇子と自分の娘が結ばれることで、明朝の未来が、より一層確かなものになるという、国家への安堵あんどの気持ちも感じていました。


永楽帝えいらくていとの出会い


朱棣は、洪武帝の第四皇子であり、その才知さいちと武勇は、幼い頃から周囲の目を引いていました。徐達もまた、彼の人柄を高く評価していました。二人は、以前から親交があり、武術の稽古けいこを通じて、お互いを深く理解し合っていました。


ある日、徐達は、武術の稽古場で朱棣しゅていと汗を流していました。朱棣しゅていは、年齢こそ若いが、その剣捌つるぎさばきは鋭く、その瞳には強い意志が宿っていました。


「さすがは徐殿じょどのです。軍の指揮統率だけではなく、剣術も一流であらせられる。」


稽古の合間に、朱棣しゅていは徐達にそう言いました。徐達は、朱棣しゅていの言葉に、嬉しさと共に、少し照れくさそうな笑みを浮かべました。


恐縮きょうしゅくでございます。しかし、殿下もまた、いずれは国家を背負う御方おんかた。娘が殿下の支えとなれるのであれば、これに勝る喜びはございません」


二人の間には、武将としての信頼だけでなく、親としての心情も通じ合う、深い絆が芽生えていました。


婚礼こんれい


数日後、応天府の宮廷では、盛大な婚礼こんれいが執り行われました。婚礼とは、結婚の儀式のことで、この時代、皇室の婚礼は、国家の一大事とされていました。多くの文官ぶんかん武官ぶかん、そして各国の使節しせつが列席し、二人の門出を祝いました。


徐達は、晴れ着に身を包んだ娘を、その腕に抱き、紅い絨毯じゅうたんの上をゆっくりと進みました。娘の顔には、わずかな緊張の色が見て取れましたが、その瞳は、朱棣を見つめる時、柔らかな光を帯びていました。


徐達の脳裏には、劉基りゅうき常遇春じょうぐうしゅんといった、共に戦い抜いた盟友たちの顔が次々と浮かび上がりました。彼らは、徐達が娘を嫁がせるこの晴れの舞台を見届けることはできませんでしたが、彼らの築いた平和な世があるからこそ、今日のこの日があるのだと、徐達は深く感謝しました。


朱棣しゅていは、徐達の娘を優しく迎え入れました。二人の姿は、明朝の新たな未来を象徴しているかのようでした。彼らの結婚は、単なる個人的な結びつきではありませんでした。それは、明朝の皇室と、建国の功臣こうしんである徐達の家系が強く結びつくことで、新王朝の安定と繁栄はんえいを確固たるものにする、重要な政治的意味合いも持っていました。


儀式が終わり、娘を見送った徐達は、静かに感慨にひたっていました。彼の心には、娘への愛情、そして明朝への忠誠心が混じり合っていました。


「これで、娘も、新たな道を歩むのだな……」


徐達は、武将としての役割だけでなく、父親として、また国家の重臣として、多岐にわたる重責を担っていました。しかし、彼の心は常に、国家の安寧と、民の平和を願う気持ちで満たされていました。娘の結婚は、徐達にとって、新たな家族の絆が生まれると共に、明朝の未来への希望をより一層強く感じさせる出来事となりました。彼は、これからも明朝の柱として、その安定と発展のために、静かに、しかし力強く尽力していくのでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ