明創生の名将:徐達⑫
◯鄱陽湖の後の光と影
1363年(至正23年)、広大な鄱陽湖に燃え盛った炎は、ついに宿敵陳友諒の野望を焼き尽くしました。主人公の徐達は、全身に染み付いた硝煙の匂いを嗅ぎながら、勝利の余韻に浸っていました。しかし、彼の瞳の奥には、激戦を物語る疲労と、失われた命への哀悼が宿っていました。
鄱陽湖の戦いは、朱元璋軍の決定的勝利に終わりましたが、その代償は決して小さくありませんでした。陳友諒軍の一部は、なんとか本拠地の武昌へと逃げ戻りました。しかし、大将である陳友諒を失った穴はあまりにも大きく、組織は内部から崩壊寸前でした。彼の息子、陳理が跡を継いだものの、父のようなカリスマも、軍を統率する力も持ち合わせていませんでした。
朱元璋の軍勢が武昌へ迫ると、陳理は抵抗を諦め、翌1364年にはついに朱元璋に降伏しました。長江流域を二分した巨大な勢力は、あっけなく朱元璋の手に落ちたのです。この瞬間、朱元璋の天下統一への道は、大きく開かれました。
しかし、朱元璋側も、この大勝利のために多大な犠牲を払っていました。鄱陽湖の戦いで失われた兵の数は、実に7千人余りにも上るといわれています。徐達は、勝利の報に沸く兵士たちの影で、静かに戦死した仲間たちのことを思いました。彼らの命は、この勝利の礎となったのです。
「これも、天下を平定するためには、避けられぬ道か……」
徐達は、自らの剣の柄を握り締めながら、心の中で呟きました。彼の温和な性格は、戦の残酷さ、人の命が失われる悲しみを誰よりも深く感じ取っていました。しかし、だからこそ、彼はこの戦いを終わらせ、平和な世を築くという朱元璋の大志を支え続けようと決意していました。
鄱陽湖での大勝利によって、朱元璋の主要な敵は、二つに絞られました。一つは、東の運河地帯を支配する張士誠。もう一つは、長きにわたり中国を支配してきたものの、今やその統治が揺らいでいる元朝政府でした。
徐達は、軍師の劉基と次の戦略について話し合うため、執務室へと向かいました。劉基は、すでに次の戦いを描いているかのように、机の上に広げられた地図をじっと見つめていました。
「劉先生、鄱陽湖での大勝利、まことに先生の作戦のおかげにございます」
徐達が頭を下げると、劉基は静かに首を振りました。
「いえ、徐殿と将兵たちの尽力があってこそです。しかし、これで終わりではありません。むしろ、ここからが正念場と言えましょう」
劉基の言葉に、徐達は改めて気を引き締めました。
「次なるは、張士誠か、それとも元朝か?」
徐達の問いに、劉基は地図の東を指差しました。
「張士誠を先に討つべきでしょう。彼は地の利と経済力に恵まれており、武力で押す陳友諒とは異なる手強さがあります。しかし、彼は天下への野心が陳友諒ほどではありません。孤立した今、彼の勢力を根絶やしにすれば、残るは北の元朝のみとなります」
劉基の言葉は、常に明確で、一切の迷いがありませんでした。鄱陽湖で勝利を収めた勢いをそのままに、張士誠を攻め、その後に元朝へと向かう。これは、彼が最初に朱元璋に提示した「天下経略の大綱」に沿ったものでした。
徐達は、劉基の言葉に深く納得しました。陳友諒という最大の難敵を打ち破った今、残る二つの勢力を着実に攻略していくことが、天下統一への最短の道でした。
「承知いたしました、劉先生。必ずや、張士誠を打ち破ってご覧に入れます」
徐達の瞳には、新たな決意が宿っていました。鄱陽湖の戦いで得た経験と、失った仲間たちの思いを胸に、彼は次なる戦場へと向かうことを誓いました。この勝利は、朱元璋の天下への道を開いただけでなく、徐達自身の武将としての器をさらに大きくするものでもありました。勝利の光と、犠牲の影。その両方を胸に刻み、徐達は天下統一という大業へと歩みを進めるのでした。
◯血の決断、統制の厳しさ
1363年(至正23年)の夏、広大な鄱陽湖は、まだ前哨戦の煙が立ち込める中、勝利の興奮と、同時に大きな緊張に包まれていました。主人公の徐達は、中書右丞として、鄱陽湖での激戦を指揮し、劉基の戦略のもと、宿敵陳友諒軍を打ち破るべく、力を尽くしていました。
陳友諒との戦いは、熾烈を極めました。朱元璋の軍は、劉基の緻密な作戦と、徐達や常遇春といった将軍たちの奮戦により、着実に戦果を上げていました。戦場では、多くの敵兵が捕らえられ、その数は日を追うごとに増えていきました。
ある日の夕刻、朱元璋の陣営では、捕虜の処遇を巡って、重臣たちの間で意見が分かれていました。朱元璋は、もともと温情深い一面を持つ人物でした。彼は、大量の捕虜を目の前にし、その処刑をためらっていました。戦乱で疲弊した民の心情を慮り、これ以上の血を流すことを避けたいという思いがあったのかもしれません。
しかし、その時、盟友の常遇春が、毅然とした態度で朱元璋に進み出ました。常遇春は、その豪胆さと、戦場での容赦ない行動で知られる将軍です。彼は、天下統一のためには、時に非情な決断も必要であると考えていました。
「殿下、この期に及んで情けをかけるべきではございません!」
常遇春の力強い声が、静まり返った陣幕の中に響き渡りました。徐達もまた、常遇春の言葉に、ハッとさせられました。
「捕らえた兵を放置すれば、いずれは我らが背後を脅かす種となります。彼らは陳友諒に忠誠を誓い、我らと命を懸けて戦った者たち。ここで手心を加えれば、必ずや後の禍根となるでしょう」
禍根とは、後になって災いの元となるような悪い影響のことです。
常遇春は、さらに言葉を続けました。 「戦とは、勝つか負けるか。そして、勝つためには、時に非情な決断も必要でございます。ここで決断をためらえば、将兵の士気は下がり、敵には、つけ入る隙を与えかねません。何よりも、殿下のお考えは、将兵たちには弱さと映るやもしれません」
彼の言葉は、厳しいものでしたが、戦の現実を突きつけるものでした。朱元璋は、常遇春の言葉に、深く考え込みました。彼の顔には、苦悩の色が浮かんでいました。徐達もまた、常遇春の言葉の重さを理解していました。温和な徐達にとっても、戦の厳しさは身をもって知っていました。兵士たちの命を守り、勝利を確実にするためには、非情な決断も時には必要となるのです。
しばらくの沈黙の後、朱元璋はゆっくりと顔を上げました。彼の眼光は鋭く、そこにはすでに迷いはありませんでした。
「……分かった。常遇春の言う通りにせよ」
朱元璋の言葉は、短く、しかし決断に満ちていました。その命令が下されると、捕らえられた陳友諒軍の捕虜たちは、粛々と処刑されることになりました。
この出来事は、朱元璋軍の内部に大きな影響を与えました。将兵たちは、主君である朱元璋が、天下統一のためにはどんな困難な決断も辞さないという強い覚悟を持っていることを、改めて認識しました。これにより、朱元璋軍の内部統制は、さらに厳しくなったと言われています。内部統制とは、組織の中で規律やルールを守らせ、指示がスムーズに伝わるようにする仕組みのことです。
徐達は、その日の出来事を忘れられない光景として心に刻みました。常遇春の進言は、まさに戦の現実を突きつけるものであり、朱元璋が天下の主となるために必要な「血の決断」でした。この処刑によって、朱元璋軍の規律は一層厳しくなり、将兵たちは、主君の命には絶対に従うという意識を強固にしていきました。
この決断が、後の朱元璋軍の統制をより強固にし、強大な組織へと変貌させていった一因となったことは間違いありません。それは、鄱陽湖での大勝利を確実なものにし、朱元璋が天下統一を成し遂げるための、避けられない過程でもあったのです。徐達は、この厳しさと、それによってもたらされる軍の強さを肌で感じながら、来るべき次なる戦いへと心を定めていました。
◯呉王の誕生と新たな戦い
1364年(至正24年)、鄱陽湖での大勝利から一年、長江のほとりにある応天府の街は、これまでにない高揚感に包まれていました。宿敵である陳友諒を打ち破り、その勢力を完全に吸収した朱元璋は、ついに天下にその力を示す時が来たと判断しました。
この年、朱元璋は、江南の地において、呉王を称えることになりました。呉王とは、かつてこの地にあった呉の国の王を意味し、朱元璋が江南の正統な支配者であることを内外に宣言するものでした。この儀式は、朱元璋が単なる反乱軍の首領ではなく、新たな国家を築く指導者であることを明確に示し、民の心を一つにするための大切な節目でした。
この歴史的な瞬間に、主人公の徐達は、左相国という、まさに国家の宰相にあたる重職に任じられました。宰相とは、皇帝を補佐して政治を統括する最高の役職で、左相国はその中でも筆頭の位です。これは、徐達の武功はもちろんのこと、その温厚で忠誠心厚い人柄が、朱元璋に深く信頼されている証でした。彼は、軍事の指揮だけでなく、国の政治運営においても、朱元璋の片腕として重要な役割を担うことになったのです。
呉王の儀式と、それに伴う制度の整備には、軍師の劉基が深く関わりました。彼は、単なる戦の策士ではなく、国を治めるための知識と経験を持つ、まさしく王佐の才を持つ人物でした。劉基は、古来の礼法や制度を綿密に調べ上げ、朱元璋が呉王として正当な権威を持つための儀式や、それに続く統治体制の基礎を築き上げました。彼の尽力により、呉王としての朱元璋の地位は、盤石なものとなっていきました。
儀式が終わり、応天府の街が祝賀ムードに包まれる中、徐達の胸中には、新たな戦いへの覚悟が芽生えていました。劉基が定めた「先陳後張」の戦略の通り、陳友諒を倒した今、いよいよもう一つの強大な勢力、東の張士誠との本格的な戦いが始まることになります。
張士誠は、運河地帯を支配し、その豊かな経済力を背景に、強固な守りを誇る相手でした。陳友諒のような猛烈な攻撃性はないものの、その守備は堅牢で、彼の支配地域は「米の郷」(べいのごう)と呼ばれるほど豊かでした。兵糧の心配がなく、地の利にも恵まれた張士誠を打ち破ることは、決して容易ではありません。
ある日の夕刻、徐達は劉基の執務室を訪ねました。劉基は、相変わらず静かに書物を読んでいましたが、徐達の姿を見ると、すぐに彼を招き入れました。
「劉先生、いよいよ張士誠との戦いが本格化しますな。先生のお考えを伺わせていただきたい」
徐達は、左相国という重職に就きながらも、劉基への敬意を忘れませんでした。
劉基は、地図を広げながら、冷静に語り始めました。 「ええ、徐殿。張士誠は、その経済力と地の利を頼みに、城に籠もって持久戦に持ち込むでしょう。彼の兵は、士気こそ陳友諒軍ほどではないものの、補給の心配がない分、粘り強い戦いをするはずです」
持久戦とは、長期にわたって敵と戦い続ける戦法で、相手の物資が尽きるのを待ったり、相手の士気を下げたりする目的で行われます。
「しかし、彼は天下への大志を抱く朱元璋殿下とは異なり、あくまで現状維持を望む傾向が強い。彼の目標は、ただ自らの領地を守ること。そこがつけ入る隙となるでしょう」
徐達は、劉基の言葉に深く頷きました。陳友諒とは異なり、張士誠は積極的な攻撃に出てくる可能性が低い。ならば、どのように攻めるべきか。
「我々は、彼の補給路を断ち、経済力を奪い、徐々に彼の勢力を削ぎ落とす必要があります。同時に、彼の領地の民の心を掴み、内側から瓦解させることも重要です」
劉基の言葉は、武力だけでなく、政治、経済、そして人心掌握といった多角的な視点から戦いを捉えていました。瓦解とは、組織や物事が内側から崩れ落ちることです。
「経済力を奪い、人心を掌握する……」
徐達は、その言葉を反芻しました。これまでの武力中心の戦いとは異なる、新たな戦い方が求められることを痛感しました。左相国として、彼は軍事だけでなく、そうした戦略の実行にも深く関わっていくことになるでしょう。
「この戦いは、忍耐と智恵が求められるでしょう。しかし、殿下のもとには、徐殿をはじめ、多くの有能な将兵がおります。そして、士大夫たちが整えし制度が我々を支える。必ずや勝利を掴むことができるでしょう」
劉基の言葉には、確固たる自信が込められていました。徐達は、劉基の言葉に勇気づけられ、心に新たな決意を固めました。呉王を称し、天下統一への確かな一歩を踏み出した朱元璋。そして、その左右の腕として、武と智を司る徐達と劉基。三者の協力体制は、来るべき張士誠との本格的な戦いにおいて、大きな力となるでしょう。徐達は、新たな時代の幕開けを感じながら、張士誠との厳しい戦いの火ぶたが切られる日を待っていました。