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「「どの面下げてここに」」
「いるんだ」という声と「来てるのよ」という小さな声が重なる。
「……妻なんだから、当然でしょう」
「俺だって一希の友人なんだから当たり前だ。大体気に食わないなら呼ぶな。お前が喪主だろうが」
「あんたを呼ばないとか、何かあったって白状するようなもんじゃない。それに一希から、あんたは絶対呼ぶように言われてるもの」
一希が家に戻ってからは、あっという間だった。
それまでの間は本当に、今までどおりだった。まるで悠真がしたことなど、何もなかったかのように。告白も何もなかったかのように。話をしたいと思いはしたが、どんどん命細くなっていく相手に、自分の欲や都合をぶつけられるわけもなく、そのまま一希は逝ってしまった。
通夜の日はしとしと惜しむように静かな雨が降っていたが、式の朝にはすっかり上がっていた。じっとりとした湿り気ある雨上がりではなく、浄い匂いのさっぱりとした雨上がりだった。誰かが遠くで「故人のお人柄のよう」やら何やらと適当なことを言い、涙をすする声が聴こえる。
若い夫婦の不幸というものは色々な感情を呼び起こすようで、場は悲しみよりも同情に満ちている。お悔みを一希の両親や亜子に言う人間のどれほどが、本当の意味で一希を悼んでいるのだろうと、悠真は捻くれた目でそれらを見ていた。
そんな亜子は葬式の場となった旧い家のあちこちを回っては、時折悠真の傍へやってくる。互いに馬鹿な裏切者同士だが、気持ちを共有できるのも、互いしかいない。
一希が誰にも言わなかったお陰で、悠真も亜子も一等席で見送ることができる。どちらにもそんな資格はないのに。もしかしたら一希は復讐のつもりで罪悪感を煽ろうとしたのかもしれないが、悠真も亜子もきちんとした立場で見送らせてもらえる感謝の方が勝っていた。
「お花を置きに行かなきゃ」
忙しないわね、と言いながら歩き始めた亜子の後をのろのろついていけば、一希はもう既にかなりの花に埋もれていた。
花なんか別に好きじゃないのにな。なのに色んな人間が入れ代わり立ち代わり別れ花を並べていくのはとても変な光景だった。「お顔周りには明るい花を」なんて指示で顔周りにピンクや黄色を並べられたせいで、色のなさが浮き彫りになっている。薄化粧で装っているだけで、「死んでいるなんて嘘のよう」なんてことは全くなく、正しく命を失くした姿だった。
ある程度花が入れ終わり、葬祭場の人間が隙間を埋めて仕上げていく。そのタイミングでまた亜子は悠真の隣に来て、その光景を眺めながら、ぽつりと零した。
「……私、本当に、一希のこと好きだったのよ」
「はぁ? じゃあ何であんなことしたんだ」
「それ、あんたが言うの?」
それはそうだ。流石に口を噤まざるを得ない。
「でも、一希は。別に、好きな人がいたのよ」
「それで当てつけたのか」
「そう。あんたと一緒よ。本当に馬鹿だったわ」
「誰だよ」
「さあね?」
亜子はそう言ってポケットからハンカチを取り出し、広げた。真ん中には亜子の薬指にはまる指輪と対の指輪、一希の指にはまっていたものだった。
「亜子は若いから、俺が結婚指輪持ったまま逝くのは悪いよって返されちゃった。本音はそうじゃないくせに」
「……いや、指輪は金属だから、棺に入れられないだろう、そもそも」
これを憎いと思っていたのが、遠い昔のような。こういう形で指から離れて欲しかったわけではないのに。
そんな気持ちを誤魔化すような言に、亜子がはっと鼻を鳴らした。
「骨壷にも入れるなって言われたのに?」
そう言われると再び閉口せざるを得ない。ただ、一希は昔から人に気を遣わせないように、重荷にならないように立ち回るのが上手い、優しい男だった。不貞を怒ってはいたが、亜子の今後の枷にならないようにが本心だと、悠真は思う。
それを言おうかどうしようか迷っているうちに整えが終わり、花の次は「個人の思い出のものを」と言われ、親しい身内だけが、棺周りに残っている。
さすがに悠真は身内ではない。だからその他大勢の元に下がろうとしたところ、ぐっと亜子が悠真の腕を掴んだ。この細い腕の一体どこにこんな力があるのだろうと思うほど、強い力だった。
「あんたも」
「……いや」
「私との指輪は置いて、これを持っていくの。嫌とは言わせない」
亜子との押し問答を見つかり、一希の両親にも「悠真くんなら一希もきっと喜ぶ」などと言われてしまえば、遠慮することもできず、悠真は紙袋を亜子から受け取った。
すると、さっきまでは立派に喪主を務めていた亜子が、ぽろりと涙を零した。決壊したかのようにぼろぼろ大粒の涙を零しながら、何にも言わず、手紙や悠真の知らない思い出の品を置いて、整えていく。悠真はその隣で何も言えず、一希が好きだった本の一部やノート、部活のユニフォームを一希の上にそろそろ並べていく。紙袋の中身は全て悠真との思い出だった。そして、本やノートの隙間には、一希と悠真が写った写真が何枚も挟まっていた。生者の写真は基本的に許可なく納棺しない。だからこっそり混ぜたのだろう。
それをどういうことかと聞くことも出来ないまま棺は閉じられ、流れ作業のように運ばれ霊柩車に乗せられていく。悠真は亜子や一希の両親を見送ったあと、追いかけるように車を走らせる。
到着した火葬場は、説明のあとは親戚の集まりや同窓会と化した。そこにいるのが耐えられず、悠真は外でぼんやり空を眺めていた。まだ煙は出ていない。あの中で自分の写真が一緒に燃えていると思えば、なんとも言えない気持ちになった。
「これはあんたへの形見分けよ」
一体もう何度目か分からないが、いつの間にかやってきた亜子に手渡されたのは、一希の愛用していた時計と、見覚えのある少し古い型の音楽プレーヤーだった。プレイリストを見れば、一番上に「悠真へ」というタイトルのものがある。悠真は逸る気持ちを抑えながら、くるくる巻かれたイヤホンの紐を解いて耳につけ、再生ボタンを押した。
流れてくるのは期待したものではなく、悲しい曲でもなく、ラブソングでもなく。子どもの頃や学生時代に流行った歌だったり、カラオケで歌った歌、一緒にライブに行った、バンドの曲。
期待したものではなかったが、懐かしい。そっと思い出に耳を傾けていると、突然もの悲しい「夕焼け小焼け」のメロディが流れてくる。
昔、17時を報せていた、それ。
重なるように、「いち抜けた」と一希の声が聴こえた気がした。
在りし日、一希がそう言って、宿題からも遊びからも、いとも簡単に抜けて、「またな」と言って帰っていく。
悠真はいつも、一希が抜けてつまらないなと思う反面、ぐずぐずと帰れずにいた。
抜けられないのはどこまでいっても自分の内側からくるものだ。それは、積年であり、執着であり、欲と呼ばれるものから生じたもの。情欲、愛憎。何一つ捨てられなくて、過ちを犯したまま。ぶつけたかった相手は、早々にいち抜け去ってしまった。抜けられる日なんて、くるのだろうか。
「またな」はもう二度と聴こえない。
火葬場から煙が立ち上ぼり、悠真の頬からも静かに涙が落ちた。
煙は笑うように揺れて、晴れた空に消えていった。