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「俺の勝ち! いーちぬーけた!」
「あっ! ずっる!」
「ねえ、一希待ってよ!」
「今日はもう帰る! また明日な」
幼い頃、一希はいつもそうやって軽やかに宿題や遊びを終えて帰っていく。
ただそれは厳しい家でたくさん習い事をしていた一希が、途中で遊びを抜ける時にみんなに気を使わせないためのものだった。
怒られるからとか、習い事があるからとかと言うと、どうしてもそれまでの楽しいだけではなくなり、抜けたあと変な空気になる。そうさせないための子どもなりの気遣い。
兄弟の一番上で我慢をしたり、空気を読んだり気を使ったりというのが一希の習い性になっていたのだが、さすがに限度というものがある。
「どの面下げてここに来てんだよ」
そう罵れば、大きな声を出したわけでもないのに視界が眩み、それを大きな手が支える。
「あんまり大きな声を出すな」
「誰のせいだ、誰の」
一希は細いが、特別痩せているわけではなかった。それをあっさり支えられ、面白くなかった気持ちが余計に面白くなくなる。自分の妻を寝取った男に助け支えられるなんて、こんな屈辱もそうそうないだろう。
一希は二年前、幼馴染の亜子と結婚した。盛り上がるような恋は経ていない、穏やかな時の積み重ねの先のものだった。そう思っていたのに。まさか、同じように時を重ねてきた幼馴染であり、一番の親友であったこの男と一緒に裏切られるとは、思ってもいなかった。
あまりのことに誰にも言えず、それを知ってどうすべきかと考えていた矢先、一希は倒れた。最初は妻と親友の不貞による心労が原因かと思ったのだが、そうではなかった。もう助からない病だった。
支えてくれた手をやんわり拒絶しながらベッドに戻り、腰掛ける。体勢が変わったからか、ベッドが軋んだと同時に潰れたような咳が出た。喘鳴が酷い。耳も首筋もあばらも痛くて苦しい。段々曲がっていく一希の背を、戸惑いながら悠真がそろりそろりと撫でる。言葉少なだが、絵に描いたかのように狼狽していた。
「だ、大丈夫か……誰か……」
重病人と知ってここへ来ただろうに、こんなにもオロオロするものなのか。日頃あまり動じることのない悠真が、ひっそり混乱して焦っている。そんな間抜けな様子を見ていると、ほんの少しだけ溜飲が下がり、心のささくれが取れた気がした。
「……これ、くらいで。ナースコール、すんな。日常……水……」
掠れた声でなんとか指示すれば、悠真はすぐに水を取って寄越した。
何だ、その苦し気な顔は。苦しいのはこっちの方だ。呆れながらも水を飲めば、苦しさは治まってきたので、細かい咳で喉を整えていく。その様子を悠馬はただただ不安そうに眺め、恐る恐るといった様子で一希の背を撫でる。それを振り払う気力は、さすがになかった。
「こんな状態で、ひとりとか……」
「自分で希望したんだ。ここなら何かあってもすぐに対応してもらえる。家には希望すればいつでも帰れるし、ひとりで心の整理をつける時間が俺にあってもいいだろう」
原因たるお前に、何かを言う資格はない。
言外にそう結んで、一希は窓の外に意識を移した。郊外の大きな病院だからか、緑豊かな敷地内で外来の子どもが遊んだり、流行りのコーヒーショップがあったりと、存外雰囲気は明るい。けれど広大な駐車場に所狭しと車が停まり、ひっきりなしに出入りしているということは、この車の数よりもっと多くの人間が病でここにいるということだ。
何とも言えない気持ちになって、明るい外から視線を戻せば、白い病室の中で痩せて青白くなった自分の腕が目に入る。壁や床の白とあまり差のない、無機質な色だった。まるで自分がこの病室という場所に組み込まれているような気がしてぞわりとする。
恐ろしくなって逃げるように目を逸らせば、一巡りして悠真と視線がかち合う。どちらも何も言わない、言えない。恐ろしさは軽減されたが、微妙な空気が流れ始めた。
「……亜子からしか話を聞いてないから、言い訳あるんなら、聞くけど」
今度は気まずさから逃げるようにそう促せば、悠真は何かを恐れるかのようにぐずぐずとしていた。
ないなら別に無理して言わなくていいと言おうとしたが、悠真は逡巡したのち、迷いを振り切るように口を開いた。
「……俺はお前が好きなんだ」
口を開いた勢いの割に、消え入りそうな声だ。懺悔や告解のはじまりのようだった。
「……何言ってんだ」
「言って、お前が受け入れてくれたのか」
悠真の声は穏やかだ。けれど明らかに一希を責めている。確かに、自分は田舎の大きな旧家の長男。悠真に正面から気持ちを伝えられたところで応えることはできないだろう。
だからといって、一希を責めるのはお門違いも甚だしいし、責めたいのはこちらの方である。
「それで、亜子と寝たのか」
沈黙は恐らく肯定だ。人妻、しかも亜子は悠真にとっても幼馴染。それを一希と結婚したからという理由だけで寝取って捨てるだなんて、歪みすぎだと一希は呆れた。
しかしそういう理由であるなら、一希の相手が亜子ではなかったとしても、悠真は同じことをしたのだろう。そういう意味では、一希の予後がもうないのは幸いかもしれない。不幸な女性が増えなくて済む。
そして亜子も馬鹿だとはいえ、被害者なのかもしれないなと、すとんと落ちた。
「そういうことなら。確かにお前の気持ちに応えることはできなかっただろうな。それで俺にどうしろと? 亜子と別れたところで、こんなこと仕出かしたお前とどうこうなんて、あるわけないだろう」
「誰のものにもならないで欲しかった」
「お前な……」
大人になるとたくさんのしがらみや関係が作用して、いち抜けなんてできなくなる。抜けられないなら、折り合いをつけて年老いていくのが営みというものだ。そうして歳を重ねていくのだ。それが分かっていたからこそ、悠真だって自分の気持ちを言わなかったんだろうに、その我慢を最悪の形で発散……も出来ていない。
ただ、これ以上一希が歳を取ることは、ないのだが。まさか人生を一抜けすることになるなんて、それこそ思ってもみなかった。けれど、どうしたものかと悩んでいたことに、ここで終わりならと、決心はついた。
「離婚はしない。大したものはないが、死にゆく旦那を捨てて男に走った女より、未亡人の方がまだマシだろう」
そう言えば、悠真の顔が刺されたように歪んだ。
ざまぁみろ。亜子に対する愛情はもうないが、情はある。それが仕返しになるなら利用しない手はない。
「お前と亜子のことは誰にも言っていない。諸々全部、俺が墓まで持っていく」
「一希」
「このことはそれで終いだ。だからそれまでは、今までどおりでいてくれ」
悠真は一希の願いを拒むことはできないはず。ちょうど面会ができる時間も終わりだ。
「またな」と笑えば、悠真の顔はさらに歪んだ。
悠真が泣くのを見たことはないが、今にも泣きだしそうだ、なんて思った。