第8話 ヨハンの章‐3
【sideヨハン】
鐘の音にヨハンの心臓は跳ね上がった。
森を覆っていた黒い靄が生き物のように蠢き、巨大な塊となってズリズリと村に近づいてくる。
そこからは不気味な唸り声が聞こえる。
徐々に形を成し、巨大な塊になっていく。
ルチアの顔が青ざめ、ヨハンは無意識に彼女の手を強く握りしめた。
「馬鹿な、ウソだろ……奴が来るのは、3日後の満月の夜のはずだ……」
——災厄の魔獣。
黒い瘴気をまとったその巨体は、まさに伝説の魔獣だった。
ヨハンは咄嗟に叫んだ。
「すぐに避難だ!みんな、洞窟へ急げ!」
魔獣は、まるで刃物のように鋭く光る爪で、村を囲む柵を軽々と引き裂き中へと入ってくる。
奴が足を前に踏み出すたびに、微かに地面が震動するのを感じた。
——無理だ……あんな化け物を殺せるわけがない。
「走れ!、みんな洞窟の中に!」
ヨハンは声を張り上げながら、ルチアの手をしっかり握り走る。
背後から悲鳴が上がり、振り返ると、魔獣の足元には無惨に引き裂かれた遺体があった。
魔獣の口元は、真っ赤にヌメヌメと濡れていた。
膝が崩れそうになる恐怖を必死に抑え、走り続けた。
視界の端に映るのは、逃げ惑う人々や、子供を抱え洞窟へ走る親たちの姿。
「急げ、急げ!」
焦燥感に駆られ、ヨハンは村人たちに叫んだ。
ヨハンとルチアは泣き叫ぶ子供を抱えた母親や、足の遅い老人を支えながら、何とか洞窟前までたどり着いた。
▽▽▽
こちらに向かって泣き叫びながら走ってくる子供たち。
その後ろを、まるで追い立てるように魔獣が歩いていた。
魔獣の片足が、どす黒く濡れているのが見えた。
「こっちだ! 洞窟の中へ!」
子供たちが洞窟の穴へと飛び込むのを確認したとき、ふと横に立つ男の姿が目に入った。
見慣れない男が、虚ろな目でただ立ち尽くしている。
彼は見たこともない異国の服を着ていて、混乱する周囲とはまったく異なる異質な存在に見えた。
「早く中へ!」
ヨハンは男に手を差し出す。
その瞬間、魔獣が男に向かって巨大な足を振り上げ、男を押し潰そうとしていた。
ヨハンは反射的に男を引き倒し、そのまま自らも倒れ込んで魔獣の一撃をかわした。
魔獣の鋭い爪が空を裂く音が耳元をかすめる。
その隙を突き、ヨハンは男の肩を抱え込むようにして洞窟の入口へと転がり込んだ。
男はぐったりと力を失い、完全に意識を手放しているようだ。
ヨハンは、荒い息を整えながら洞窟の入口に目を向けた。
入り口の向こうからは魔獣の凶暴な息遣いを感じた。
それは息苦しいほどの威圧感を放っていた。
▽▽▽
しばらくしてミリアが、男が目を覚ましたと知らせてきた。
男は壁にもたれながらしゃがみ込み、怯えた目でこちらを見上げていた。
彼の服は見たこともない奇妙なデザインで、首から下げている帯の用途も見当がつかない。
しかし、その布地は滑らかで、貴族が着るような高級感が漂っていた。
ミリアは男の隣に腰を下ろし、そっと肩に手を置いていた。
その仕草はどこか親しげで、男に気を許してるのが分かる。
兄としては、こんな怪しげな男から今すぐ離れるよう言いたかった。しかし、なぜかミリアは穏やかな目で男を見つめている。
ミリアに促されるまま、男はぽつぽつと自分のことを語り始めた。
けれど、その内容はヨハンにはまるで理解できないものだった。
「……別の国? 少女に連れられ? 何を言ってるんだ?」
まるで夢物語のような話だ。だが、もしそれが本当なら、とんでもないことになる。
この村には滅多に外部の人間が訪れない。それが、よりにもよって厄災の最中に現れるなど、到底信じられない。
思わず声を荒げると、男は体を震わせ、潤んだ瞳でこちらを見返してきた。
その姿は、まるで親に叱られた子供のようだった。
——そんなことが本当にあり得るのか?
ヨハンは無意識に息を呑んだ。
それでも男の様子を見る限り、嘘をついているようには思えなかった。
では、彼を連れてきたという少女はどこに行ったのか。
男の話では、その少女はルーシャ様に似ているという。
魔獣の出現と同時に現れたこの男。そのタイミングが偶然だとは到底思えない。
ヨハンの胸に得体の知れない焦燥と不安が押し寄せる。
気づけば、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。
▽▽▽
「ジルばあさんと子供たちがいないみたいなの」
ルチアがヨハンに知らせに来たのは夜遅くだった。
備蓄食料を配っているときに気付いたようだ。
「そういえば逃げる時もばあさん達は見かけなかったな」
ザキが周囲を見回す。
「ばあさんの家は洞窟の丘を挟んで森の反対側だから、家の中に避難したんじゃないか?」
「いないのはジルばあさんと孫二人、それにキキ……か。そのメンバーなら、家の中に隠れている可能性が高いな」
ヨハンが腕を組んでうなずいた。
「今は森側から風が吹いているが、朝になれば向きが変わる。魔獣の嗅覚なら、いずればあさんたちの匂いを嗅ぎつけるはずだ。家の中に隠れていても、そう長くはもたない」
ヨハンの言葉に、ルチアも深刻そうにうなずく。
「日が昇る前に、洞窟に移動した方がいいわ」
「でも、洞窟の前には魔獣が陣取ってる。どうやってばあさんたちをここまで連れてくる?」
ザキが難しそうな顔をして反論する。
「洞窟の奥にある細い穴から出て、今夜のうちに連れて来れないかしら」
ルチアが提案すると、ヨハンはしばし考え込み、小さくつぶやいた。
「……それしかないか」
ヨハンは洞窟の奥に続く薄暗い道をじっと見据える。
「わかった。俺とザキで行こう。あまり大勢で動くのも危険だ」
「でも、怪我をして動けないかもしれないわ。二人で大丈夫?」
ルチアが心配そうに尋ねる。
「サーシャ様の加護があっても、ミリアを連れて行くわけにはいかない。 奴の図体では洞窟の入口を通れなくても、結界が弱まればどうなるかわからんからな。ここを危険にさらすわけにはいかない」
「なら、私が弓を持って行くわ。少しは役に立てるはずよ」
ルチアが言うが、ヨハンは首を振った。
「いや、それは危険すぎる……代わりに、あの男を連れて行こう」
「あの男って……トオルとか言う奴か?」
ザキが洞窟の隅に蹲っているトオルを一瞥する。
「あの男……本当に人間か? まさか魔獣の手先ってことは……?」
「だとしたら、なぜ魔獣から逃げてここにいるのよ?」
ルチアも男の方を見て言う。
男は、膝を抱え込み洞窟の隅に身を寄せミリアと話していた。
その姿は不安におびえる子供のようにも見えた。
さっき話した時も、今にも泣きだしそうな目をしていた。
禍々しさなど、微塵も感じられない。
「……だとしてら、なおさらだ」
ヨハンは自分に言い聞かせるように言葉を吐き出した。
「最悪、奴が現れたらあの男を囮にする。必要なら、手足を潰してでも……災厄の前に差し出す」
「お前にできるのか?」
ザキがヨハンをじっと見つめる。
ヨハンは、一年前、領都へ向かう途中の食堂で出会った老人たちを思い出していた。
あのとき、自分を憐れむように向けられた視線……きっと今の自分も、同じ目をしているのだろう。
だとしても、選ばなくてはいけない。
「俺の役目は村のみんなを守ることだ。そのためなら、どんなことでもやる」
ルチアがそっとヨハンの手を握った。
それに応えるようにヨハンは頷き、もう一度自分に言い聞かせた。
「できるさ。この村を守るためなら」
「……わかった。そのときは、俺もお前と一緒に罪を背負う」
ザキがヨハンの肩に手を置いた。その手には、彼の決断を信じる重みがあった。
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