第6話 ヨハンの章‐1
【sideヨハン】
ヨハンにとって、コリオリ村がすべてだった。
愛するもの、大切なもの——その全てが、そこにあった。
村長であり、狩りの師でもある父・カズンは、ヨハンの誇りであり、誰よりも尊敬する存在だった。
十歳のときに母を亡くしてからは、厳しさも優しさも、すべて父から学んだ。
その背中を追いかけるうちに、ヨハンは自分なりの「守るべきもの」を見つけていった。
泣き虫だった妹のミリアは、今ではルーシャ様の加護を受け、村で唯一の巫女となっている。
ヨハンにとって、家族は何よりも大切で、守るべき存在だった。
幼馴染のザキは生まれ月が同じで、大切な親友だ。
ザキは最近、すっかり女らしくなったミリアを意識しているようだが、肝心のミリアはまるで気づいていない。
何とか力になりたいが、こればかりは本人たちの問題だ。
今は静かに見守ることにしている。
そしてルチア。
副村長アンゼルさんの一人娘で、ミリアと同い年。ヨハンより三つ下だ。
ザキと同じく幼馴染ではあるが、いつしかお互いを意識するようになった。
特別美しいわけでも、何か抜きん出た才能があるわけでもない。
ただそばにいてくれるだけで、心が安らぐ。
彼女となら、どんな苦しみも悲しみも乗り越えられる。
ルチアも、きっと同じ気持ちでいてくれるはずだ。
ヨハンにとって、ルチアはかけがえのない存在だった。
▽▽▽
ヨハンが二十歳になったとき、父と共に領都で開かれる代表者会議へ向かうことになった。
旅の同行者は、村の腕自慢であるジンガとドルン、そして同じく成人を迎えた幼馴染のザキ。
領都までは馬車で五日間の道のり。簡素な幌付きの荷馬車にヨハンと父が乗り、他の三人は馬にまたがり、周囲を警戒しながら進んだ。
ヨハンにとって、生まれて初めて目にする景色はどれも新鮮だった。川に架かる大きな橋、遠くにそびえる山の稜線、立ち並ぶ木々――どれもコリオリ村にはない風景だった。
一日目は森の中で野宿し、二日目の昼前には隣町のカオリナに到着した。
カオリナは、コリオリ村よりもはるかに大きな町だった。
行き交う人々の装いは華やかで、男たちは襟付きの服を整え、女たちは色鮮やかなスカートをなびかせていた。
道沿いには服や食器、農具を扱う店が軒を連ね、行商人たちの威勢のいい声が響いている。
カオリナでは、町長の紹介で宿をとって、一泊することになった。
宿で荷を下ろした後、大人たちは町長の家で開かれた酒宴へ。ヨハンとザキは、宿の一階にある食堂で夕食を取ることにした。
▽▽▽
食堂に足を踏み入れると、暖かな灯りと賑やかな笑い声が二人を迎えた。
天井から吊るされたランプが、柔らかな光を落とし、テーブルを囲む客たちは楽しげに杯を交わしている。
焼きたての肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、グラスのぶつかる音や笑い声が心地よい喧騒となって響いていた。
「これが食堂か……」
ヨハンは思わず足を止め、目を見張った。
テーブルに座ると、カズンが酒宴に出かける前に注文した料理が運ばれてきた。
皿に盛られた料理は、ヨハンがこれまで見たこともないほど豪勢だった。
焼きたての肉には香草が添えられ、鮮やかなソースがかかっている。付け合わせのパンはふっくらと焼き上がり、野菜もみずみずしい。
「……これが飯か?」
「見てるだけじゃ腹は膨れねえぞ! さっさと食おうぜ」
ザキの一言に背中を押され、ヨハンは恐る恐るフォークを手に取り、肉を一口頬張った。
柔らかな肉が口の中でほろりと崩れ、香ばしい味わいとソースの酸味が広がる。
「うまい……!」
初めての味に驚き、二人は言葉も忘れて夢中で食べ続けた。
隣のテーブルでは、酒を酌み交わす四人の老人たちが、二人の食いっぷりに目を細め、楽しげに笑っていた。
そのうちの一人が、グラスを揺らしながら、ふと声をかけてきた。
「若いの、どこから来たんだい?」
ヨハンは口いっぱいに頬張っていた肉を慌てて飲み込み、胸を軽く叩きながら答えた。
「コリオリ村から来ました。領都に向かう途中なんです」
田舎者と思われないよう、精一杯の笑顔を作る。
だが——
老人の顔が曇り、厳しい表情に変わった。
「コリオリ村って、‥‥‥いけにえの村か?」
——いけにえの村?
聞きなれない言葉にヨハンは眉をひそめた。一瞬、自分の聞き間違いかと思い、もう一度ゆっくりと言い直した。
「コリオリ村です。北の山を越えて、深欲の森の手前にある小さな村ですが……」
その瞬間、食堂の空気が変わった。
さっきまで響いていた笑い声やグラスの音が消え、まるで時間が止まったかのように静まり返った。
ヨハンは不意に感じた違和感に、背筋がぞくりとするのを覚えた。
周りを見渡すと、いつの間にか客たちが自分たちの方をじっと見つめていた。
「そうか……コリオリ村な。こんな若者もいるんだな」
老人は気の毒そうに二人を見つめ、言葉を探すように口を開きかける。
だが、同席していた他の老人が小声で「やめておけ」と諫めた。
老人は「なんか悪いことを聞いちまったな……。気にしないでくれ」。そう呟くと、老人は視線を落とし、それ以上何も言わなかった。
ヨハンは何が悪いことだったのか分からず、曖昧に「はい」とだけ答えた。
その後すぐに、隣の老人たちは気まずそうに席を立ち、「じゃ気を付けてな」と張り付いた笑顔で食堂を出て行った。
「いけにえの村だってよ……」「かわいそうにな。まだ若いのに……」。
そんな囁き声が、あちこちから漏れ聞こえてきた。
ザキが小声でヨハンに話しかけた。
「なあ、『いけにえの村』ってなんだ? 俺たちの村のことか?」
ヨハンは答えられなかった。村人たちも誰一人として、そんな不穏な言葉を口にしたことはなかったはずだ。
「俺にもわからない。聞いたことないし……なんだろうな」
二人で顔を見合わせたが、答えは出ない。ただ、その言葉の響きだけが耳に残り、胸に重くのしかかった。
ヨハンが目を落とすと、目の前の料理が急に色あせて見えた。
ついさっきまで輝いていた肉も、ふっくらとしていたパンも、今ではただの冷え切った塊にしか見えない。
二人の食欲はすっかり失せてしまった。
ヨハンとザキは、この時まで自分たちの村が「いけにえの村」と呼ばれていることを知らなかった。
▽▽▽
その夜、ヨハンとザキは食堂での一件を引きずりながら、なかなか眠りにつけずにいた。
やがて、酔っ払った父親たちが宿に戻ってきた音が聞こえた。
ヨハンはすぐに起き上がり、部屋に入ってきた父親を問い詰めた。
「父さん、コリオリ村が“いけにえの村”って呼ばれてるのを知ってたのか?」
父親は酔いで赤らんだ顔を向けると、しばらく黙ったままヨハンを見つめていた。
沈黙の後、大きなため息をつき、肩を落としながら重い声で答えた。
「ああ……そうだ。昔から、そう呼ぶ者がいた」
その言葉に、ヨハンは困惑した。
「どういうことだよ。村じゃそんな話、一度も聞いたことがない」
父親は苦々しい表情を浮かべながら、自分の額をこすった。
酒の匂いが部屋に漂う。
「……“深欲の森”の魔物が現れるたびに、犠牲になるのは決まってコリオリ村の人間だ。それを生贄と呼ぶ人がいる」
ヨハンは息を飲んだ。これまで聞かされたことのない話に、頭の中が真っ白になりそうだった。
「まるで、俺たちが最初から差し出される運命だったみたいにな……」
父の声が低く沈む。
「犠牲になるたびに、外の連中は勝手に噂を広めた。あの村の人間は、そういう役目だってな」
いつもは厳しくも温かい目が、今は真っ赤に充血していた。
酔いのせいだけではない、抑えきれない感情を無理やり押し込めてるみたいだった。
「俺たちは、魔物のエサじゃないんだ!」
父親の拳がぎゅっと握りしめられるのが見えた。
その手の甲には、長年の農作業でできた固い筋が浮き上がっている。
「俺たちの村が“いけにえ”だなんて、もう言わせはしない。領都に行くのも、そのためなんだ。……これ以上、村を好き勝手に言わせないためにな」
父の言葉には強い決意と、抑えきれない憤りが込められていた。
ヨハンは言葉を失った。
父親がこんなにも恐ろしい顔をするのを、彼は初めて見た。
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