第18話 魔狼(ワーグ)
昼になっても瘴気は晴れず、黒い粒子が霧のように村を覆っていた。
俺たち六人は魔獣の亡骸へ向かっていた。
ヨハンを先頭に、ザキとルチアが続く。その後ろにはミリアと俺。そして、俺にしがみついて離れないキキ。
キキには洞窟に残るよう何度も説得したが、頑なに拒否し、俺にしがみついたまま離れようとしなかった。
ミリアとルチアも粘り強く説得したが、結局ヨハンが「確認するだけだから」と折れ、俺が手を引いて連れて行くことになった。
俺の後ろでは、昨晩の言い合い以来、一言も発さないルーシャが俯きながらふよふよと浮いている。
靄の中を慎重に進む。
魔獣の亡骸は洞窟のすぐ近くにあった。
あの時は気づかなかったが、逃げる途中で崖を回り込み、結果的に洞窟の近くまで来ていたようだ。
『何かいる……』
魔獣の亡骸が見えてきたところで、ルーシャが呟く。
同時に、先頭を行くヨハンが足を止め、身を低くする。そして、小さく『魔狼だ』と後ろに合図を送った。
俺たちは、崩れた家の影に身を寄せる。
視線の先、黒い霧の中に魔獣の亡骸が横たわっている。
その周囲には二つの影が蠢いていた。
目を凝らすと、中型犬ほどの黒い獣が死骸の周りを徘徊しているのが見える。
「魔狼だな」ヨハンが低く呟く。
「死体を食ってやがる」
ザキが吐き捨てるように言い、ヨハンが頷いた。
「二匹だけなら俺たちで何とかなるんじゃないか?」
ザキが腰の錆びた剣を握る。
「あの大きさなら、いずれ洞窟の中にも入ってくるだろう。やるなら今だな」
ヨハンが言い、ルチアを振り返る。
「ルチア、狙えるか?」
「任せて。一匹は仕留めてみせる」
ルチアは矢を番え、魔狼を睨む。
「ミリア、キキとトオルを頼む」
ヨハンの号令で、それぞれが動き出した。
ルチアが弓を引き絞る。
ヨハンとザキは腰をかがめながら魔狼へ近づく。
「やれるのか? 魔獣だろ?」
不安を覚え、俺はミリアに問いかけた。
「あの程度なら森でもよく見かけます。兄さんたちは前にも仕留めたことがありますから、大丈夫です」
そう言い切るものの、ミリアの目には不安が浮かんでいた。
俺は念のため折れた剣を抜き、前に構えた。
俺の腕をつかむキキの手に、ぎゅっと力が入る。
「いくぞ」
ヨハンが小声で合図を出す。
二人が家の影から飛び出すと、同時にルチアが矢を放った。
矢が風を切る音。
次の瞬間、魔狼の悲鳴が響く。
放たれた矢は、手前の魔狼の目を正確に貫いていた。
ザキとヨハンが駆け出す。
矢を受けた魔狼は苦しそうにうなりを上げる。
もう一匹が、こちらに気付き駆けだす。
ヨハンが正面から鉈を振り下ろす。
だが魔狼は横に跳んで躱し、そのまま飛びかかろうとする。
その瞬間、ザキが横から魔狼の腹を掬い上げるように剣を振る。
抉られた腹から鮮血が噴き出す。
その血を浴びながら、ヨハンが鉈を振り下ろした。
鈍い音とともに、魔狼の頭蓋が割れる。
一瞬の攻防でヨハンの鉈が空を切った瞬間はヒヤリとしたが、二人は淀みのない動きで、見事な連携だった。
「すごい……」
思わず呟く俺に、ミリアが誇らしげに言う。
「二人は本当に強いんです! 森の主が相手じゃなきゃ、負けません。魔狼なんてイチコロです!」
「だな」
俺が軽く頷いた、その瞬間——ルチアが小さく呟いた。
「一匹、いない……」
魔獣の亡骸に目を向けると、さっきルチアが目を貫いたはずの魔獣の姿が消えていた。
ヨハンとザキは、仕留めた魔獣の死体の前で息を切らしている。
まだ異変には気づいていない。
その時——
『後ろ!』
ルーシャの緊迫した叫びが響いた。
振り返ると、魔狼がいつの間にか後方に回り込み、俺たちに向かって跳び上がるのが見えた。
片目にはルチアが放った矢が突き刺さったまま、口からは粘ついたよだれがだらりと垂らし、低く唸り声を上げている。
ルチアがすかさず矢を構えるが——間に合わない。
魔狼は勢いを止めず、俺たちの輪の中へ跳び込んできた。
反射的に、しがみ付いていたキキを押しのけ、俺は剣を突き出す。
しかし、焦りから動きが乱れた。
立ち上がる勢いでバランスを崩し、剣は魔狼の横をかすめ、空を切る。
次の瞬間——俺は無様に前のめりに倒れていた。
振り返ると、魔狼が牙をむき出しにし、ミリアに覆いかぶさろうとしている。
ルチアは弓を叩きつけるが、魔狼は微動だにしない。
弓はあっけなく二つに折れた。
魔狼はルチアの攻撃を無視し、赤く濡れた口を開ける。
ミリアの首元に牙が突き立てられようとしていた。
——間に合わない!
ミリアが食われる!
「ルーシャ!」
俺は叫んでいた。
都合がいいとわかっている。
それでも、ミリアを助けたい——!
「お願いだ! 力を貸してくれ!」
刹那、視界が歪んだ。
目の前の色が抜け落ち、意識が飛びそうになる。
気を失うわけにはいかない。俺は強く意識を手繰り寄せる。
視界が戻ると、周囲の動きがコマ送りのようにスローモーションになっていた。
キキが泣き叫ぶ顔。
ルチアが魔狼を引き剥がそうとする姿。
魔狼の牙が、ミリアの首へと迫る——。
身体から力が抜け、ふわりと浮遊感が広がった。
——これが同調……!
イメージ通りに体が動く。
肉体の重さを感じない。
驚きながらも、剣の柄を逆手に持ち替え、そのまま魔狼の背中に突き立てた。
剣が魔狼の毛皮を裂き、骨に当たる感触が伝わってくる。
同時に、俺は魔狼の顔面へ膝を叩き込んだ。
魔狼の巨体が吹き飛ぶ。
その瞬間、時間の流れが急速に戻った。
目を見開くミリアと目が合う。
その場にへたり込むルチア。
キキが泣きながら俺に飛びついてきた。
ヨハンとザキが駆け寄る。
ヨハンは呆然とするミリアを「怪我はないか」と抱き起こした。
「大丈夫」ミリアが短く答える。
ザキは横たわる魔狼に、とどめの剣を突き刺した。
俺はその様子を呆然と見つめていた。
ザキが満面の笑みを浮かべ、拳を突き出してくる。
俺も「ハハ」と笑いながら拳を合わせた。
自然と笑みがこぼれる。
そんな俺たちを見て、ヨハンも笑った。
俺は心の中でつぶやく。
「ありがとう、ルーシャ」
一拍、間をおいてルーシャの声が返る。
『こちらこそ。ありがとう』
視線を上げると、見たこともない優しいまなざしで俺を見るルーシャがいた。
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