第12話 魔獣対決②
振り返ると、魔獣の爪がキキのいた場所に振り下ろされていた。
地面がえぐれ、土埃が舞い上がる。
その音だけで体が強張る。
獲物を見失った魔獣は、ゆっくりと首を巡らせ、周囲を見渡す。
そして、俺たちを見つけると、新しいオモチャを手に入れたかのように目を細め、嬉しそうにその口を吊り上げ牙を向けてきた。
「しがみつけ!」
俺は叫び、全身の力を振り絞り地面を蹴る。
キキは震える手で俺の背中にしがみつき、必死にその体重を預けてきた。
走る。
呼吸が荒れ、足は鉛のように重い。
日頃の運動不足を痛感する。
たった十歩も走らないうちに、心臓が悲鳴を上げる。
喉は焼けるように痛み、膝は今にも折れそうだ。
それでも止まれない。
振り返ると、魔獣はまだその場に立っていた。
俺たちが逃げる姿を目で追うだけで、動こうとしない。
まるで、こちらの必死な様子を嘲笑うかのように。
「楽しんでやがる……」
そう感じた瞬間、胸の奥に冷たい怒りと絶望が押し寄せた。
それでも足を止めるわけにはいかない。
キキを抱え、俺はただ前だけを見て走り続けた。
▽▽▽
崖にそって走り続ける。
どれくらい走っただろうか。
10分? いや、1分も経っていないのかもしれない。
息が上がり、まともに呼吸すらできなくなってくる。
酸素が足りない。頭がジンジンと痛む。
「もう無理だ……」
絶望に足が止まりかけた、そのとき。
視界の先に、崖が緩やかにカーブしているのが見えた。
カーブを曲がれば、魔獣の視界から逃れられるかもしれない。
そう思った瞬間、膝は限界を超え、盛大に前に転んでしまった。
再び立ち上がろうと力を込めるが、限界を迎えた足は感覚を無くしたかのように動いてくれない。
——ここまでか。
ぎゅっと目を閉じ、しがみついていたキキを引き剥がす。
彼女の小さな体を無理やり地面に降ろし、叫んだ。
「走れ!」
キキは驚いたように目を見開き、もう一度しがみつこうとしてくる。
俺はそれを押し戻し、声を張り上げる。
「いいから! 早く逃げろ!!」
キキはじっと俺を見つめる。
何かを言いたげに瞳が揺れた。
しかし、すぐに目を伏せ、決心したように駆け出して行った。
……小さな足音が遠ざかっていく。
その背中が闇の中に消えていくのを見届けた俺は、ゆっくりと振り返った。
魔獣はそこにいた。
一部始終を観察していたかのように、じっと俺を見つめている。
まるで、『——覚悟は決まったか?』そう問い掛けているみたいだ。
魔獣の巨大な体が動き出す。
一歩、一歩。
たっぷりと時間をかけ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
まるで、獲物が絶望に飲まれる瞬間を楽しんでるみたいだ。
——俺はここで死ぬんだな。
この異世界の、見たこともない化け物に食われて、命を終える。
やり場のない怒りが胸を締めつける。
その一方で、「キキは逃げられたかな……」と、呑気に考えてる自分もいた。
たった数分前に会ったばかりの子供。
あの子が何歳で、どんな人生を送ってきたのかも知らない。
言葉を交わしたことさえない。
それでも、ほんの束の間、必死にしがみつくあの子の体温は、確かにこの手に残っていた。
「さっきまでは、あの子が襲われてる隙に逃げようと思ったのにな……。なんで俺が食われそうになってんだ?」
つい、思いが言葉になって漏れてくる。
そんな自分がおかしくて、思わず苦笑が漏れた。
——また、選択を間違えたか?
そう思った。
でも、不思議と後悔は感じなかった。
「まあ俺の人生、こんなもんでしょう」
言葉が口をついて出る。
魔獣は、無様に倒れこんだ俺を見下ろし、絶対的な強者であることを誇示するかのように唸り声を上げた。
そして、その真っ赤に血濡れた醜い口を俺に向けて開けた。
食われる——。
その瞬間、小石が魔獣の目元に当たった。
振り返ると、そこには小石を持ったキキが立っていた。
キキは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、「ダメー!」と声を振り絞り、必死で石を魔獣に投げつけていた。
子供の小さな手から放たれる石など、魔獣にはまるで通用しない。
それでもキキは、肩を震わせながら石を投げ続ける。
その姿は無謀で、そして……ひどく眩しかった。
——キキ……。
死を受け入れ、諦めていた自分が恥ずかしくなった。
命を繋ごうと抗い、必死にもがく彼女の姿に、胸の奥が熱くなった。
「くそっ……!」
俺は奥歯を噛みしめ、もう一度、魔獣に向き合う。
魔獣がキキを見下ろし、爪を振り下ろそうとしているのが見えた。
「逃げろ!」
俺はキキを引き寄せようと手を伸ばす。
が、思ったように体が動かない。
手は虚しく宙を切り、キキに届かない。
その代わり、地面を叩いたその手が、何か硬いものに触れた。
——瞬間。
頭の中でバチン! と衝撃が走る。
視界が白く閃き、世界の音が一瞬で消えた。
白黒の世界の中で、魔獣の動きがスローモーションのように見える。
ふと手元を見ると、そこには鈍く光る……剣? が転がっていた。
——これは……ヨハンの剣。
柄の部分が淡い青い光を帯び、まるで「掴め」と語りかけているかのようだ。
その時、不意に頭の中で途切れ途切れの声が聞こえてくる。
まるで壊れたラジオの音のように断片的な声。
『…と…つながった…う…よ』
その声には聞き覚えがある。
次の瞬間、声ははっきりと頭の中に響く。
『 剣を取って!』
反射的に、俺は剣を握った。
『そのまま! 剣を横に振って!』
言われるがまま、魔獣の振り下ろす足に向けて、力任せに剣を横に振る。
『もう1回! さあ、剣を振り上げて!』
立て続けに叫ぶ声が、頭の中に響く。
——この声、間違いない。
俺をこの世界に引きずり込んだ張本人——ルーシャの声だ。
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