第11話 魔獣対決①
魔獣が崖の上から俺たちを見下ろしていた。
その口元が微かに歪む。
——笑ってやがる。
そう見えた。
次の瞬間、巨体が弾かれたように跳び、轟音とともに着地する。
地面が揺れ、舞い上がる砂塵が視界を奪った。
その中から、魔獣の影が現れ、じっとこちらを見据える。
「逃がさない」——目がそう語っていた。
ヨハンが老婆を地面に降ろし、剣を抜く。
「ばあさんを頼む!」
ザキが老婆を背負い、子供たちの手を引いて丘の陰へ回り込む。
ヨハンは剣を構え、魔獣に向かって叫んだ。
「こっちだ!」
魔獣が低く唸り、巨体を揺らす。
視界の端で、ザキたちが丘を登り、距離を取るのが見えた。
「俺が相手だ! 来い!」
ヨハンは声を張り上げ、魔獣の注意を引く。
その目は魔獣を捉え、一瞬の隙も見逃すまいとしていた。
俺はじりじりと距離を取った。
だが、その動きが思わぬ事態を招く。
魔獣がヨハンから視線を外し、俺の動きに反応したのだ。
その隙に、ヨハンが声を張り上げ、剣を高く掲げる。
鋭い気勢とともに剣を振り下ろし、魔獣に一撃を放つ。
しかし——。
剣が魔獣に触れた瞬間、硬い岩を叩いたように弾き返された。
「ぐっ……!」
反動でヨハンは体勢を崩し、そのまま無様に地面へ倒れ込む。
魔獣は微動だにせず、ただ黙って彼を見下ろしていた。
まるで、その無力さを嘲笑うかのように……
ヨハンの顔に驚きと焦りが浮かぶ。
信じられないといった様子で、自分の手に握られた剣を見つめていた。
俺は、ミリアが洞窟で言っていた言葉を思い出していた。
『魔獣の毛は剣も通らない』
その時は誇張された話だと思っていたが、今、その現実を目の当たりにしている。
それでもヨハンは諦めなかった。
ふらつきながらも立ち上がり、剣を再び構え直す。
そして、今度は魔獣の胸元を狙い、剣を突き出した。
だが、魔獣は素早く動き、ヨハンの攻撃を軽々とかわすと、前足を振り上げ剣を弾き飛ばした。
剣はヨハンの手を離れ、無情にも後方へと吹き飛ばされる。
魔獣は、武器を失い体勢を崩したヨハンを、容赦なく前足で振り払った。
まるで虫を払いのけるかのように……。
ヨハンの体は宙を舞い、崖の壁に激しく叩きつけられる。
崖の下に落ちたヨハンが、苦しげに呟いた。
「早く……逃げろ……」
その言葉を最後に、ヨハンの体から力が抜け、頭ががっくりと垂れた。
▽▽▽
詰んだ。
全てが終わった。
ヨハンは崖の下に倒れ込んだまま、微動だにしない。
気を失ったのか、それとも……。
ザキたちは崖の上へと逃げ、姿を消した。
頼りの剣も、魔獣に弾かれてどこかへ飛んでいってしまった。
たとえ剣が手元にあったとしても、俺ひとりでこの化け物に立ち向かい、生き延びるなんて、到底できるはずがない。
——なんでこうなった。
俺が何をしたって言うんだ。
訳も分からないまま、この異世界に引きずり込まれ、真っ暗な夜を走らされ、そして今——化け物に食われて死のうとしている。
理不尽すぎる。
悔しさが胸にこみ上げてくる。
一方で、ひどく冷めている自分もいた。
——そうか、俺はここで死ぬのか。
不意に、思い出していた。
仕事のあてもなく、駅のホームで頭を抱えていた時のことを。
——これが走馬灯ってやつか……。
考えてみれば、この世界に来てからまだ一日も経っていない。
将来への不安に押しつぶされて、電車の前に飛び込もうと思ったあの瞬間。
今となっては、あのとき何に悩んでいたのかすら、思い出せない。
やりがいのある仕事、自分らしくいられる場所、これからの人生設計——そんなことを考えていたような気がする。
そして未来への不安……。
——結局、こんな結末なら、悩む必要なんかなかったな。
体の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
肩にかけていた麻袋が滑り落ち、地面を転がる。
——もういいや、ここで終わりでいい。
俺の人生、こんなもんだ。
抵抗する気力なんて、もうこれっぽっちもなかった。
魔獣は、ヨハンの方にはもう、目を向けようともしない。
動かなくなった彼には、すでに興味を失ったようだ。
きっと奴は、食うために襲うのではなく、ただ蹂躙することを楽しんでいるだけだ。
そういう奴だ、こいつは。
魔獣が、地面にへたり込む俺の方にゆっくりと歩いてくる。
「グルゥゥ……」と、喉の奥から響くような低い唸り声が聞こえる。
その目は、俺の斜め後ろをじっと見つめていた。
……俺の後ろ?
振り返ると、そこにはキキと呼ばれた少女がいた。
涙と鼻水で顔中をぐっしょり濡らし、震える体をガクガクと揺らしながら、地面にしゃがみこんでいる。
巨獣が口角を上げ、むき出しの牙を見せる。
口からは粘液があふれ、地面に糸を引き垂れていく。
そして、その目は——、俺ではなく、後ろで震えるキキを見ている。
狙いは俺じゃない。この少女だ!
——まだ、逃げられる。
どれだけ持つかはわからない。それでも、あの少女が喰われている間に、少しでも遠くへ逃げるしかない。
なんとしても生き延びる。こんなところで死にたくない!
魔獣の後ろ足がわずかに沈み込む。
——来る!
そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
「逃げるんだ……!」そう頭で考えながらも、俺の体はまるで別人のように動いていた。
気がつくと、肩から滑り落ちた麻袋を魔獣に向かって投げつけていた。
そして、キキを抱きかかえ、ただ必死に駆け出していた。
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