第1話 会社を辞めた
会社を辞めた。
入社して10年。肩書きも責任も増え、それなりに結果も出してきた。
けれど、毎日の生活が変わるわけではなく、息苦しい毎日が続いていた。
表面だけの人間関係。数字に追われる日々。
"やりがい"なんてものは、とうの昔に消えていた。
それでも、「頑張っていれば、いつか良いことがある」と、自分に言い聞かせていた。
──繰り返される生活。
目覚まし時計の音で目を覚まし、満員電車に揺られ、会社へ向かう。
仕事に追われ、パソコンに張り付き、取引先で頭を下げる。
上司からは「努力が足りない」と叱責され、部下には「仕事がつらい」と愚痴を聞かされる。
そしてまた、満員電車に揺られ、コンビニ弁当をつまみに缶ビールを飲み、眠る。
そんな毎日。
──これが、ずっと続くはずだった。
でも、日常は案外あっけなく崩れる。
事業部長との来期業績打ち合わせの時だ。
「あなたのチーム、今季の予算未達ですね。どういうことか説明できますか?」
淡々とした口調。しかし、その奥にある冷ややかな圧力は、嫌というほど伝わってくる。
いつものことだ。
唇を噛みしめ、頭を下げる。
「皆、頑張ってはいるんですが......すいません」
「頑張ってるだけでは困りますね」
事業部長は薄く笑った。その目には、情けなど一欠片もない。
「具体的な改善策は? KPIの見直しは? 施策は?」
言葉だけは立派だが、中身は空っぽだ。
まるで、こちらの努力が最初から無意味であるかのように、平然と言ってくる。
「ヒントをあげましょう。簡単なことです。結果が出ないなら、コストを下げればいい」
彼は手元の予算計画書に目を落としながら、淡々と続ける。
「コストの大半は人件費。つまり、削減すべきはそこですね。もちろん、そうしろとは言いません。ただ、一つの選択肢として提示しているだけです」
まるで機械だ。
その瞬間、胸の奥に溜まり続けていた何かが弾けた。
「じゃあ、俺が辞めます」
気づけば、そう口にしていた。
我ながら驚くほど冷静な声で。
俺はゆっくりと席を立ち、もう一度だけ事業部長を見た。
彼の目には驚きの色すらない。
当たり前のように、冷めた視線を向けてくる。
俺はと言えば、辞めると口にした瞬間、それまでの憂鬱が嘘のように消え、頭の中にさわやかな風が吹き抜けた。
まるで、晴れ渡った空に羽ばたくような、そんな感覚。
白い鳥たちが青空へと羽ばたいていく。
一陣の風が吹き抜け、花びらが舞った──そんな幻すら見えた気がした。
これで、俺は自由だ!
もう、好きなように生きていいんだ!
口元が自然と緩む。
入社以来、こんなに晴れやかな気分になったのは初めてだった。
会社を辞めると知って、心配する同僚。不安そうな部下たち。
中には涙を浮かべて引き止めようとする者までいた。
それでも俺は、胸を張って言った。
「仕事ばかりじゃ生きてる意味がないだろ? 一度きりの人生、本当にやりたいことを見つけなきゃダメだ!」
だが、その瞬間、ふと気づく。
──やりたいことって、何だっけ?
自由を手に入れたはずなのに、急に手のひらからこぼれ落ちていくような感覚。
高鳴っていた鼓動が、急に冷えていく。
俺は、何をしたかったんだ?
何のために、この会社を辞めたんだ?
──空っぽだった。
そんな俺を見て、事業部長は薄ら笑いを浮かべながら言う。
「で、いつ辞めるんだ?」
自由とは残酷だ。
その言葉は、キラキラと輝き、希望に満ちている。
だが、進むべき道を持たない者にとっては、ゴールのない迷宮にすぎない。
▽▽▽
もともと要領がいいタイプではなかった。
学歴は中の中の下、職歴もありがちな営業職。
スキルと言われる技術なんて何もなかったし、特段、誇るべき伝手もない。
そんな自分が、勢いだけで会社を辞めた──。
その決断を、今では心底後悔している。
会社を辞めてから、30以上の求人に応募した。
だが、面接まで進めたのはたったの2社だけ。
そのうち1社は、面接翌日に「不採用」の通知が届いた。
そして今日は、残りの1社の面接。
「どうして前の会社を辞めたのですか?」
面接官の質問に、ネットで調べた模範解答を返す。
面接官はじっとこちらを見て、目を細めながら呟いた。
「なるほど、よくわかりました。」
そして、手元の履歴書を入れたファイルを、パタンと閉じた。
面接の帰り道。
最後の面接を終えた今、今日はもうやることが何もない。
街は年末の華やかな雰囲気に包まれていた。
赤や金のイルミネーションが輝き、軽快なクリスマスソングが流れる。
冷たい空気の中、駅前の巨大なツリーが鮮やかに光を放ち、ホームで電車を待つ人々の影を淡く照らしていた。
年内に就職先を見つけたいと思っていたが、それは叶いそうにない。
駅のホームで電車を待っていると、たったいま面接した会社から『お断り』のメールが届いた。
画面に映る事務的な文面を見た瞬間、拳を強く握りしめる。
「もう一度会社に乗り込んでやろうか」──そんな考えが頭をよぎる。
だが、そんなことをしても意味はない。
何より、それをしたところで自分がさらにみじめになるだけだ。
スマホを鞄にしまい、ぼんやりとホームに立ち尽くす。
残った貯金もあと数日で底をつきそうだった。
せめてもの救いは、養うべき家族がいないこと。
けれど、それは同時に、俺の孤独をいっそう感じさせた。
頼れる人もいない。
相談できる友人もいない。
そして、自分を必要としてくれる場所もない。
視線を上げれば、行き交う人々の波。
その中で、俺がどれほどちっぽけで、無力な存在か、痛いほど感じた。
会社を辞めたあの決断を、今さらながら後悔していた。
──いつもそうだ。俺は間違った選択ばかりしている。
自分に甘く、身の丈をわきまえない選択を続けてきた。
押し寄せる後悔と不安、そして絶望。
自然とため息が零れる。
その時、ホームに列車が近づくアナウンスが流れる。
ここで、あと数歩前に進めば──。
後悔も、苦しみも、全部終わる。
「……このまま死んでもいいかもな」
そんな誘惑に駆られた自分が、余計に惨めで、たまらなく情けなかった。
目を閉じ、頭を振る。
その瞬間、到着した電車から吐き出された人々の波に押され、ふと気がついたら、ホームのベンチに腰を下ろしていた。
「どこかに、俺でも働ける場所ないかな……」
ふと、呟いた言葉。
その時、不意に周囲の喧騒が遠のいた気がした。
雑踏の音が消え、静寂が降りる。
そんな中、耳に届いたのは、やけに明るく、澄んだ声だった。
「それならうちに来るといいよ!」
驚いて声の方を振り向くと、いつの間にか隣に少女が座っていた。
年の頃は中学生くらいだろうか。
青い大きな瞳に、腰まで伸びた銀色の髪。
ゆるやかに波打つそれは、淡い光に包まれているようにさえ見えた。
──ちょっと、これ本当に光ってないか?
純白のワンピースに、神々しく輝く銀髪。
目鼻立ちは西洋人のようにくっきりとしていて、まるでファンタジーの世界から飛び出してきたような美少女。
少女はにっこりと微笑みながら、もう一度言った。
「いくあてがないなら、うちに来なよ!」
朗らかに笑う彼女の顔は、まるで太陽のように明るい。
のに、俺の背筋には、ひやりとした感覚が走っていた。
──何だ、この子は?
警戒しつつも、俺は思わず口を開く。
「えっと……、誰?」
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