知りたい
その日は一日屋敷の掃除をした。
いつもどおりマンセルの部屋にはたきをかけて、キッチンの床掃除をして、書斎の本や物を抜き取って空になった棚などを拭いていく。
木製のバケツに水を張って持ち運び、浸した雑巾を固く絞るという複雑な動作にも随分慣れた。
ここまで人間の体を使いこなせるようになったのだから大丈夫だろうと、本棚の上部を掃除するために脚立を用意していると、シリルに見つかり危険だとこっぴどく叱られた。
「慎重に登りますから」
「一昨日、転んでから立ち上がることもできなかった奴がよく言う」
「……あの時は、あなたは私が人形だったと信じてくれませんでしたね。衣服を裂かれて、酷い目にあわされました」
「……話の論点をすり替えるな」
誤魔化せなかったか、と脚立を返してくれない彼を恨みがましく見つめる。
「そもそも、掃除をする意味はあるのか?」
訝しむ声に、オフィーリアは何度か瞬きをした。
確かにオフィーリアが死ねばここで暮らす人間はいなくなる。意味はないだろう。
しかし昨日のように体の調子が悪いわけではないし、ずっと座っているのもつまらない。
「暇なので……」
つけているエプロンを指先でいじりながら言うと、憐れみのような視線を向けられた。
「コーヒーを淹れられるか?」
「はい。豆さえあれば」
「キッチンに豆を置いてる。暇なら淹れてくれ」
「かしこまりました」
仕事をもらえて喜んでキッチンへ向かうオフィーリアの背中に、シリルが声をかける。
「お前の部屋の本棚を見てもいいか?」
「はい、構いません。あなたの望むような本はないと思いますが」
「念の為だ」
オフィーリアの部屋に入っていったシリルを見送って、今度こそキッチンへ向かう。
シリルが絶やさずつけてくれているストーブの上に水の入った鍋を置いて、手入れを欠かさなかったコーヒーミルを取り出した。ハンドルを回し、コーヒー豆を挽き終わる頃には息が切れていたが、味は大丈夫だろう。
盆にティーポットとカップを乗せて、オフィーリアの部屋へと向かう。
扉は開きっぱなしだったが、カチャカチャと音が聞こえていたからだろう。声をかけずとも彼はオフィーリアに気付いて顔を上げる。そして脚立に座って読んでいた本を、ため息と共に閉じた。
「経済学に政治学、哲学、天文学。お前の知識が偏っている理由が分かったよ」
本を本棚に戻して、背表紙を指でなぞっていく。
「小難しい本ばかりだ。女が好んで読むような恋愛小説などが一冊もない。若い娘にこんなものばかり読ませて、あのじいさんめ」
恋愛小説を読んだことはないが、どんなものかは知っている。男女の痴情のもつれを書いた大衆向けの小説らしい。痴情が何なのかはマンセルは教えてくれなかった。
「でも、マンセルがあなたに手紙で『恋愛小説を鳥に持たせてくれ』とお願いしていたら、あなたは驚いたのではないですか?」
シリルが声を上げて笑う。
「ははは、確かにな。ひとり暮らしでとうとう気でも狂ったのかと、慌てて様子を見に来ていたかもしれない」
オフィーリアは心臓に手を当てる。まただ。シリルの笑顔を見ると、笑う声を聞くと、この辺りが苦しくなる。
驚くと苦しくなるのだろうか、それとも嬉しいと苦しくなるのか。
シリルは脚立からひょいと飛び降りて、スラックスの埃を払った。それからテーブルの上のティーセットを見て小首を傾げる。
「お前は飲まないのか?」
「あ……」
そういえばコーヒーを飲める体があることをすっかり失念していた。
「一緒にいただいてもよろしいですか?」
「好きにしろ」
言われた通り好きにすることにして、コーヒーカップを持ってくる。椅子を持ってくる間にシリルがふたり分のコーヒーをカップに注いでくれいていて、「ありがとうございます」と彼の前に座ると、胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。
「コーヒーはこんなにいい香りの飲み物だったんですね」
「苦いから、気を付けて飲めよ」
その言葉にオフィーリアは首を傾げる。
「苦いものは美味しいのでは? マンセルがよく、苦くて美味いと言っていました」
「百聞は一見に如かずだ。飲んでみろよ」
机に肘をついて、シリルが片方の口角を持ち上げる。
その表情に嫌な予感がしたが、好奇心が勝った。火傷をしないように何度か息を吹きかけて冷まして、カップを傾けてひとくち口に含んで。
「んっ」
思わず呻くと、耐え切れなかったようにシリルが笑う。
舌がびりびりと痛むようだ。
喉が飲み込むのを嫌がっていたが、吐き出すわけにはいかないので無理やり飲み込んだ。
「どう?」
「……口の中から喉まで痛いです」
「人間にとって苦味は毒の象徴だからな。苦いものを美味いと感じるには、それなりの経験がいる。待ってろ」
そう言って部屋を出ていった彼は、紙袋を持ってすぐに帰ってきた。見覚えがある。彼が持ってきていた食材の中に、その紙袋を見た気がする。
「メレンゲの砂糖菓子だ。溶かしてから飲めば少しは苦味もましになる」
受け取って、中身を覗く。白くて丸い物がたくさん詰まっていて、いい香りがした。
「どれくらい入れたらいいですか?」
「五個くらい入れてみたらどうだ」
言われた通りに五個摘まんでコーヒーの中に落として、ティースプーンでかき混ぜて溶かす。そしておそるおそるひとくち飲んでみた。
苦味は残っているが、口の中が痛くなるほどではない。苦味のあとに僅かに、おそらく砂糖菓子の味だろう、好ましい後味が残っていた。
「無理なら俺が飲んでやる」
余裕の表情で苦いコーヒーをすする彼に、「自分で飲みます」と首を振る。
彼は苦いコーヒーを美味しく飲めるほどの経験を、二十歳で積んでいるらしい。それは少しうらやましく思う。
「ミルクを入れたらまろやかになってもっと美味くなる」
オフィーリアが顔を上げたのを見て、シリルは「……持ってきてないけどな」と付け足した。がっかりとカップを口につけた。
「俺が甘党だったらよかったのにな。そうすれば別の菓子ももっと持ってきていたのに」
シリルの指がメレンゲの菓子をひとつ持ち上げ、ぱくりと食べる。
「そのまま食べてみろ。甘いぞ」
「いただきます」
一粒持ち上げる。ふわりといい匂いがした。口の中に唾液が溢れてくる。シリルに倣って、ひとくちでそれを口の中におさめた。
手に持った時は硬いのかと思ったが、それは歯で噛むとサクサクと小気味よい音を立てながらすぐに崩れていく。
この舌に絡みつくように溶ける味が、甘味らしい。頬がとろけて落ちそうという表現はこういう時に使うのだろう。
「甘くて、美味しい」
思わず頬を押さえて、目を細める。
あっという間に口の中から消えてしまって、もうひとつ食べてもいいだろうかとちらりとシリルを見る。
彼はテーブルに肘をついてじっとオフィーリアを見つめていて、真正面から目が合った。
「あの……」
もっと食べたいなんて言えば、意地汚いと思われるだろうか。元々は彼の食料だ。
迷うオフィーリアをまだ見つめていたシリルは、ふいに手を持ち上げる。
その指がオフィーリアの目尻に触れた。
「この瞳……人形の時は、本物のエメラルドでできていたのか?」
「マンセルはそう言っていました」
何度か鏡で見たが、今は正真正銘の人間の瞳だ。取り出しても何の価値もない。それなのに彼は、下まぶたをゆっくりと指先でなぞる。
「初めて会った日は、無機物のようだと思った。全く感情が見えなくて」
瞳に感情があるのか尋ねようとして、ふと思い出す。
シリルはそれほど表情が豊かではないが、その瞳はふるると震えたり、左右に泳いでいったり、少しずつオフィーリアに心の内を教えてくれる。それが瞳の感情なのだろう。
彼の手に触れる。頬に押し当てるようにすると、その瞳がほんの少し見開かれる。驚きのあとに、これは気まずいという感情だろうか。それとも照れくさいのか。
「今、私の瞳にはどのような感情が宿っていますか?」
無機物だった物は、今は人間らしい感情を持つことができているのだろうか。
シリルはオフィーリアの手から抜け出す。そしてメレンゲ菓子をひとつ摘まむと、それをオフィーリアの唇に押し付けた。
「美味いものをもっと食べたい、と言ってる」
唇を開いて、菓子を咥える。
正解だ。食い意地が張っているとばれてしまった。
彼の指は遠ざかっていく前に、砂糖菓子の入った袋をつついた。
「全部やるよ」
「……いいのですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
今、全て食べてしまうのはもったいない。迷ってふたつだけ取り出してソーサーの上に置き、残りは大事に封をする。
その様子を見ていたシリルが、小さな声で言う。
「街に行けばもっと美味いものがたくさんある。……だから」
言葉の続きを待ったのに、シリルは目を伏せてしまった。
「何でもない」
俯いてしまった顔からは、もう感情を読み取ることはできない。
「聞きたいです」
「……言ったって、どうせ聞かないだろ」
シリルはカップを持ち上げて一気にコーヒーを飲み干すと、椅子から立ち上がった。
「片付けを頼んでもいいか?」
「はい」
「ありがとう。書斎に戻る」
止める間もなく彼は部屋を出ていってしまった。
扉からカップに視線を落とし、苦いコーヒーを飲む。
人形のときは言葉をそのまま受け止めていた。言葉の裏や言葉にしなかった気持ちなど、存在することすら知らなかった。
彼の表情にはどんな意味があるのか。
言葉を切って、続きを言わなかったのはなぜなのか。
分からないのだ。経験がない。
どうしてなのか知りたい。
彼のことを、もっと知りたいと思ってしまった。