熱をため込む
目を開くと、隣にシリルの姿はなかった。
外はもう明るい。体を起こすと、何も纏っていない肌を冷たい空気が突き刺した。
ベッドから足を下ろした時、扉が開いて部屋に入ってきたのはシリルだった。彼はオフィーリアを見て慌てたように視線を逸らした。
「少しは恥じらえ……!」
ほんのり赤い横顔をじっと見る。昨日は理解できなかった彼の複雑な表情が、明るい朝日の下でようやく分かった。
彼は照れているようだ。
「あなたが脱がせたのですよ」
「……それとこれとは話が違う」
「どう違うんですか?」
「ああ、もう、うるさい!」
シリルは持っていた洗面器とタオルをサイドテーブルに置いて、ベッドから剝ぎ取ったシーツをオフィーリアの体に巻きつける。そして絞ったタオルをオフィーリアの顔に押し付けた。シーツの隙間から片手だけを出してそれを受け取る。湯気が出るほど温かい。
「体を拭け。着替えは部屋か? 取ってきてやる」
「ありがとうございます。でも、自分でできます」
もう片方の腕も出して、タオルを広げて顔を覆う。温かくて気持ちがよかった。
ベッドが揺れて、顔を上げる。少し離れた隣に座ったシリルは、地面をじっと見つめたまま、何度か言葉を飲み込んだようだった。
「……悪かった」
それは、昨夜の行為に対する謝罪のようだった。
「構いません。近いうちに死ぬ体です。どうしてくださっても」
心配をかけないように言ったつもりだったが、彼は手で顔を覆って動かなくなってしまった。上半身を倒して少しの間その横顔を見つめたが、彼の後悔は思ったよりも深いらしい。
音を立てずに息を吐く。
「そんなことよりも、寝かしつけてくださってありがとうございました。安心して眠れました」
長い髪をかき上げて首筋を拭いて、冷めたタオルを洗面器に漬ける。人形の時にも何度もタオルや雑巾を絞っていた。確認するように指の関節を曲げていったが、シリルはそれをもどかしく思ったのかもしれない。
立ち上がった彼がオフィーリアの手からタオルを取り上げて、代わりに絞ってくれた。
差し出されたタオルを持つ手に触れる。驚いたようにタオルを取り落とした手を引いて頬に当てたが、すぐに勢いよく引っ込められた。
膝の上に落ちたタオルを拾う。
「あなたの体は温かくて、触れられると気持ちよくて、落ち着きます」
同じ人間だというのに、いつ触れても彼は熱いくらいだ。個人や男女で差があるのか、それとも飲み食いをろくにしていないこの体が熱すら生み出せないくらい弱っているだけかもしれない。
俯いたままのオフィーリアの頬に、シリルの手が触れた。見上げると、彼の手のひらは頬から首筋をするりと撫でて、すぐに離れていく。
触れられると落ち着くと言ったから触れてくれたと思っていたのに、体中の痛みがなくなっていることに気付いた。痛みを消す魔術をかけてくれたようだった。
「服を着たらダイニングに来い。飯を温めておくから。俺がいる間は死のうとするな」
言うだけ言って出ていった彼を見送って、体を拭き始める。熱いタオルで拭いた体が冷えないうちにと立ち上がったが、裸で出ていけばまた恥じらいを持てと叱られるかもしれない。シーツを体に巻き付ける。
胸の下の辺りがキリキリと痛むのは、きっと空腹のせいだ。頭もぼんやりとしていた。
枕元に置きっぱなしの水差しを見る。死に急ぐ必要はないと言い聞かせ、グラスに水を注ぐとそれを一気に飲み干した。
****
服を身に着けて部屋の外に出ると、オフィーリアは嗅いだことのない匂いに気付いた。何の匂いなのか知らないはずなのに、胃の辺りで何かが暴れだす。人間の体はこの匂いが食べ物の匂いだと知っていて、そして好ましく思っているらしい。
扉が大きく開け放たれたキッチンを覗く。
かまどの前に立つシリルの姿が一瞬マンセルと重なりそうだったが、明るい部屋ではふたりを見間違うのは難しい。
シリルは小柄だったマンセルよりも背が高いことに、今さら気付いた。体格も違う。ジャケットを脱いで、ウエストを絞ったベスト姿だったが、それがその布の下の体格の良さを強調しているようだった。
そっと背後に近付いて、鍋をかき混ぜている後姿を見上げる。
このキッチンで、また誰かが料理をするなんて思ってもみなかった。
「お手伝いしましょうか?」
「うわっ!」
聞こえたのは返事ではなく悲鳴だ。飛び上がって驚いたシリルが、振り返ってオフィーリアを睨む。
「声をかけてから近付いてこいよ……!」
「ごめんなさい」
驚かせるつもりはなかった。人形の時は歩くたびに関節が音を立てていたので、人間がこんなに静かに移動できるなんて知らなかった。
肩をひょいと持ち上げて下ろす。何か失敗を誤魔化すときのマンセルの癖を真似した。シリルは口を大きく曲げる。その表情は分かりやすい。拗ねて、オフィーリアの態度を面白くないと思っている表情だ。
「それで、お手伝いしましょうか?」
「もうすぐできるから、お前は座ってろ」
「はい」
皿もスプーンももう用意してあるようだ。素直に返事をしてダイニングテーブルを振り返った。
ふたりで使うには広いテーブルには、シリルが持ってきたのであろう大量の食材が並んでいる。ほとんど自給自足の質素な食事をしていたマンセルのそばにいた時には、見たことのない食材がほとんどだ。
それらを端に寄せて、ふたり分の食事スペースを確保する。
椅子に座ると、すぐにシリルが目の前に皿を置いた。
湯気があがる皿には、白くてどろりとしたものが入っている。これも見たことのない食べ物だった。
「なんですか……?」
「粥。美味いものではないが、半分でいいから食べろ」
「分かりました」
シリルが向かいに座ってスプーンを手に取ったのを見て、オフィーリアもスプーンを持ち上げる。何度か皿をかき混ぜてほんの少し掬い、口の中へと運んだ。想像していたよりも熱かったそれに驚いて、味わう暇もなく飲み込んで、さらに驚いて胸元に手を当てる。シリルが慌てたように腰を浮かせた。
「おい、喉に詰まったのか?」
「……今、熱いものが体の中を落ちていくのが分かりました」
喉をまっすぐ下へ、胸の辺りまで落ちていった。その辺りがまだじんわりと温かい。
初めての感覚に胸元を撫でながら顔を上げると、シリルは持ち上げていた口角を元に戻すところだった。苦笑いに近い何かだったのだろう。
すぐに「火傷するなよ」と自分の皿に顔を向けてしまった。
「味が薄ければ少し塩を足したらいい」
テーブルの上の小さな容器を指先でつついて、シリルはまた皿に向き合う。
彼を真似てスプーンの上で息を吹きかけて、少し冷ましてぱくりと食べた。
甘いも苦いも、酸っぱいも辛いも、どんな味なのか文字列での知識はあるのに、シリルが作ってくれたこの粥にはどんな表現が適切なのか、分からないことがもどかしい。
「ゆっくり食べろよ」
「はい」
食事をとるというのは、まるで体の中に熱をため込んでいくような行為だとオフィーリアは思った。まず胸元が温かくなって、次は顔、最後まで冷え切っていた指先にも熱がいきわたる頃には、腹部の不快感はほとんどなくなっていた。
今ならきっと、シリルに触れても同じくらいの温かさのはずだ。
黙々と口へ運ぶ。
シリルに「そろそろやめておけ」と言われたにもかかわらず、オフィーリアは皿の粥を平らげた。