表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/13

弱い心と体




 シリルはしゃがんで、涙を滲ませるオフィーリアの顔を覗き込んだ。


「狼に食い殺されるなんて、今の痛みの比じゃない。水も食べ物も取らずに餓死するのだって、今の何倍もつらく苦しい」


 血のついた指を布で拭いてから、シリルは割れたグラスを指でさす。ガラスのこすれる不快な音と共に、グラスが元の姿に戻った。

 拾い上げて、彼はそれを机の上に置く。もうひとつ置いてあった新しいグラスを手にとって、また水を注いだ。


「飲め」


 手が伸びてきて、うなじを掴まれる。何をされるのか強張らせた体を引き寄せて、彼はグラスを無理やり唇に押し付けた。

 グラスの中の水が跳ねて唇が濡れた。驚いて顔を背けると、グラスの端から水が零れてオフィーリアのスカートに染みを作る。

 彼の唇が動く。音は聞こえなかったが、また舌打ちをしたようだ。


「飲まないのなら酷い目にあうぞ。いいのか?」


 これ以上どんな酷いことがあるのかと、怯えたまま彼を見上げる。返事ができないオフィーリアに、彼は痺れを切らしたようだった。手に持っていた水を数口飲むと、またオフィーリアを見下ろす。

 肩を掴まれる。強く押され思わず目をつむって、背中への衝撃のあとにまぶたを上げると、すぐそこにシリルの顔があった。

 唇が触れる。いや、噛みつかれたようだった。

 驚く間もなく舌とぬるい水が口内に侵入して、オフィーリアは成すすべもなく水を飲み込んだ。

 乾いていたことも知らなかった体が、少しの水を得た途端にもっともっとと欲を出す。離れたシリルがまた水を口に含んだのを見て、体は疼くように喜んだ。

 五回、六回とその行為を繰り返して、シリルが空になったグラスをサイドテーブルに置いた頃には、オフィーリアはすっかり息が上がっていた。

 彼の手が襟に触れる。


「お前、いつまでも体が冷えていると思ったら……なぜこんなに服が濡れているんだ」

「……顔を洗っていたら、濡れました」


 ため息混じりにシリルが言う。


「風邪を引きたいのか」


 さっきから、おかしなことを言う人だ。確かに体の震えは止まらないが、死にたいと言っている人間に風邪の心配をするなんて馬鹿馬鹿しい。


「人間の体は弱くて、本当に嫌になる……」


 吐き捨てて、上半身を起こした。

 離れようとしたシリルの胸元にしがみついて、額を押し付ける。


「人間になんてなりたくなかった……ここで、マンセルのそばで、ひとり朽ち果てるつもりだったのに」


 人間になってしまったのなら、早くマンセルの元へ行けると思ったのに。


「痛みが怖い……死ぬのが怖い……人形なら、そんなこと恐れなかったのに……」


 大声を上げて泣いた。人形の時は、こんな風に感情が乱れる事なんてなかったのに。

 マンセルを所有者として愛していると思っていて、そばにいることが当たり前で、彼のそばで朽ち果てることが唯一の幸せだと疑いもしなかった頃に戻りたい。

 泣いて泣いて、涙で溺れるくらい泣き喚いた。そして泣く体力すらなくなって泣き止んだ。

 せっかく飲んだ水が、全て流れ出てしまったかもしれない。


「……お願いがあります」


 掠れた声で言ってシリルを見上げる。まだ何も言っていないのに、彼は眉を寄せた。


「毒薬を作れますか? できるだけ苦しまないで済むものを」


 魔術の材料は一通り残っている。毒薬くらいなら作れるはずだ。


「……俺の作った毒で誰かが死ねば、罪に問われる」

「私がここにいることを知っている人間はいません。あなたがここで見たのは、哀れな人形の残骸だけ。それだけです」


 誰に言う必要もない。罪の意識に苦しむ必要も。昨日まで人形だったものが、自らの意思でただ土へと還るだけだ。

 長い間黙っていたシリルが、無表情のまま呟いた。


「ここを出ていくまでに作っておこう」


 彼のその言葉に驚くほど心が軽くなった。苦痛も恐怖もなく、マンセルの元へ行くことができる。

 シリルの指が濡れた首元を引いた。


「脱げ」


 衣服を見下ろす。言われた通りボタンに手をかけたが、寒さで指が震えて上手くいかない。

 その手を払われ、シリルが全てボタンを外して服を肩から滑り落とした。

 彼の手がオフィーリアの頬に触れる。燃えるように熱い手に手を重ねると、すぐに離れてしまった。


「……着替えを取ってくる。全て脱いで布団に包まってろ」


 そう言って扉へ向かおうとした彼の手を掴んだ。顔を見ることができない。でも、少しの間でもひとりになるのが怖かった。

 強張った手のひらを胸元に引き寄せる。


「もう少しだけ、触っていてもらえませんか?」

「……誘ってるのか?」


 言葉の意味が分からず彼を見上げる。その顔を見て、シリルは小さくため息をついた。


「そんなわけないか」


 ジャケットを脱いでベストを脱いで、シャツのボタンを外しながらシリルはもう一度オフィーリアの肌に触れた。


「触ってやるよ」


 抱き締められ、その熱が気持ちいい。


「オフィーリア」


 懐かしい、愛しい声が耳元で名前を囁いて、オフィーリアはうつつのようなひとときに酔いしれた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ