気付かなくてもいいこと
このまま目をつむると、この体は死ぬのだろうか。
冷たい水の入った桶のそば、石畳の上に座り込んで、オフィーリアは両手で顔を覆った。
体に力が入らない。まぶたが勝手に下りてくる。
きっとこれは眠気というものだ。死の前兆ではない。
マンセルはいつも日付が変わる頃に眠って、次の日太陽が昇ってから起きてきた。きっとこの眠気に抗わずに目をつむれば、明日明るくなる頃に目覚めることができるのだろう。
それは理解していたが、どうしてもこの意識を手放す感覚が、死を連想させ恐ろしくてたまらなかった。
冷たい水で顔を洗う。髪や襟元が濡れてしまって、寒くて体の震えが止まらない。
時計を見上げる。いつの間にか日付は変わっていた。
「マンセル……」
縋るように呟いてキッチンを出る。玄関の隣にある書斎の扉からは光が漏れていて、かたことと小さな物音もする。シリルはまだ起きているようだった。
書斎の扉に手をかけて、長い間迷って離した。玄関から外へ出ると、無情な秋の夜風に巻きつかれる。
マンセルの墓の前に来て、オフィーリアは昼間供えたバラの隣に見慣れないものを見つけた。黒いリボンの花束だ。シリルが手向けたものだろう。
その前に座り込んで、氷のように冷たい墓石に触れた。
「マンセル」
呼びかけても返事はない。当たり前だ。彼はもう死んでいるのだから。
涙は勝手に溢れ出すのに、声は絞り出さないと音にならなかった。
「マンセル……私は、人形の体が朽ち果てるまでひとりでいることなんて、辛くも何ともありませんでした……あなたがここにいるのだから」
何度も墓石を撫でる。せっかく熱を感じることができる手なのに、彼の温かかったであろう体はもうどこにもない。
「……どうして私にこんな魔術をかけたのですか? 人間になるつもりなんてありませんでした。私にはあなたが全てだった。あなたはそれを知っていたはずなのに、どうして……」
人間の頭の中は複雑で、考えなくてもいいことまで考えてしまう。気付かなくてもいいことまで気付いてしまう。
彼を愛している。この体の所有者として。そう思っていたのに。
「マンセル、私は、あなたを」
「オフィーリア」
背後から聞こえた懐かしい声に、オフィーリアは顔を跳ね上げた。
「マンセル……!」
彼が死者の国から帰ってきてくれたのだと思った。
しかしそこに立っていたのは、シリルだ。
体中の力が抜けるほど落胆する。
彼の表情は夜の闇に紛れて読み取りにくい。
「部屋に戻れ。狼が出るぞ」
「……構いません」
「食い殺されたいのか」
「それも、構いません」
シリルの顔が歪められたのがぼんやりと分かった。彼から顔を背ける。
「もっと楽な死に方を選べ。戻るぞ」
「放っておいてください」
舌打ちが聞こえて、彼が足を踏み出す。
無理やり腕を引かれ、オフィーリアはバランスを崩した。思わず悲鳴を上げた体がふわりと宙に浮いて、シリルの肩に担ぎ上げられる。視界が逆さまになった。
「何を、するんですか……!」
シリルを睨み付けたいが、見えるのは彼の背中だけだ。返事もしてくれなかった。
成すすべもなく運ばれて、辿りついたのはマンセルの寝室だ。
薪ストーブにはすでに火が入れてあり、部屋は温かい。掃除くらいしかすることがなかったオフィーリアのおかげで、主を亡くした部屋だったが人が寝泊まりすることに支障はない。
オフィーリアはベッドの上に放り投げられるように下ろされた。
乱暴な扱いに唇を曲げて俯くと、シリルは大きく息をついたようだ。彼はベッドの前で腰に手を当てた。
「眠れないのか?」
「……眠るのが怖い」
「お前、さっきから声が嗄れてるぞ。人間になってから一度でも水を飲んだか?」
「いいえ」
シリルは少しの間黙って、そばに置いていた水差しからグラスに水を注いでオフィーリアにつき出す。
「飲め」
「いりません」
「なぜ」
「死にたいんです」
「……だから、なぜそんなつらい死に方を選ぶんだ」
呆れたような声に、突然怒りが湧き上がった。顔を上げ、シリルを睨み付ける。
頭が真っ白になってしまって、感情を制御することができない。
「どうやって死のうが私の勝手です! 私を愛していないと言うのなら、私がどれだけつらい思いをしようがあなたには関係ないでしょう!」
目の前のグラスを手で払いのける。フローリングに叩きつけられたグラスは、激しい音をたてて見るも無残に砕け散った。その音にはっと我に返る。
静まり返った部屋に、オフィーリアの荒い呼吸だけが響いている。
震える手で口を覆った。
「ごめんなさ……」
今の金切り声は自分の声なのか。
こんなことをしてしまったのは初めてだった。
「ごめんなさい……」
破片を拾おうと手を伸ばす。
「おい、触るな!」
シリルが叫ぶのと同時に、尖ったガラスがオフィーリアの指先の皮膚を突き破った。一瞬遅れてきた痛みに、手を引いて喉の奥で声をつまらせる。
痛い、よりも、未知の感覚に恐怖のほうが強かった。人形の時は、ナイフを握りしめても大丈夫だったというのに。
「馬鹿か、見せろ!」
シリルに手を掴まれる。指先から血がこぼれ落ちている。
「痛い」
「当たり前だ。お前は今人間だ」
「……怖い」
「すぐに治してやる」
シリルの指先が血に触れる。その指が血を拭い取ると、もう傷も痛みも消えていた。治癒の魔術だ。