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複雑




 井戸の水を汲んで体を拭く。乾いたタオルで拭いきれなかった泥がまだ肌を汚していて、不快で仕方がなかったからだ。

 汲んできたばかりの井戸水は人間の体には冷たすぎて、火を起こしてお湯にして、混ぜて温くしなければならなかった。

 そのせいで、ただ体を拭くという行為に驚くほどの時間がかかった。

 シリルに頼めば水を汲むことも火をおこすこともものの数分で終わらせられたのだろうが、彼に頼るのだけは嫌だった。頼ったところで話を聞いてくれたかすら怪しい。

 知らずため息が漏れる。

 人間の体は不便だ。そして軟すぎる。

 石畳のキッチンは底冷えする寒さで、長い間裸でいると風邪を引きそうだった。

 くしゃみをして、身震いをひとつ。

 タオルを手に取った時、半開きになっていた扉が急に開いた。顔を出したのはシリルだった。


「おい、書斎の……」


 彼は言葉を切る。手に持っていた本数冊を慌てたように取り落として、そして顔を背けて叫んだ。


「何をやっているんだ……!」


 怒鳴られる理由が分からず眉をひそめる。


「体を拭いていました」

「部屋でやれ!」

「まだ体を思うように動かせなくて、桶を遠くに運ぶことができません」


 シリルは前髪をかき上げて大きなため息をついた。

 この髪をかき上げる癖はマンセルにもあった。本当に、性格以外瓜二つのふたりだ。


「とにかく、体を隠してくれ……」

「……どこを?」

「普段衣服で隠れている場所だ!」


 怒鳴られることに納得できなかったが、言われた通りに大きなタオルを体に巻きつける。


「隠しました」


 シリルはちらりとオフィーリアに視線をやり、そして取り落とした本を拾い上げてからオフィーリアを見ないまま取り繕うように言った。


「書斎の机……黒い机だ。その引き出しの鍵はどこにある」

「それでしたら、こちらです」


 キッチンから隣のリビングへ移動しようとすると、背後から呼び止められた。


「場所を教えてくれるだけでいい。お前はさっさと服を着ろ」

「たくさん同じような鍵を保管しているので、直接教えます」

「おい、待て」


 まだ呼び止めようとする声を、これ以上のやり取りは無駄だと無視してリビングへ移動する。大きな棚の引き出しを開けて、並んでいる小箱のひとつを取り出した。

 後ろを振り向くと、やはりオフィーリアから視線をそらしているシリルが、渋い顔で立っていた。


「これがその鍵です。他のものも渡しておきます」


 鍵には見分けがつくように、魔術で使うシンボルが描かれていた。ひとつひとつ説明しながら、シリルの手のひらの上に乗せていく。


「太陽のシンボルは書斎の木製の机の鍵です。月は入ってすぐ隣のキャビネットの一番上。……これは」


 何のシンボルだったか思い出せずに見つめる。


「それは水銀」

「……水銀は、屋敷の奥の倉庫の鍵。この鉛は」

「それは錫だ」

「……錫は倉庫の中の金庫の鍵です」


 呆れたような視線がオフィーリアをちらりと見て、すぐに逸らされる。肩を竦めた。


「動物の名前も外国の言葉も覚えられるのに、魔術関係だけは覚えるのが苦手でした」

「お前には魔術の才はないな」

「マンセルにもよく言われました」


 最後の鍵を彼の手のひらの上に置いた。オフィーリアとは違う大きな手だ。マンセルのようにささくれてはいないが、剣を握るゴツゴツとした温かい手だった。

 さっきの熱い手の感触を思い出す。この手に触れられれば、きっと気持ちがいいだろう。

 顔を見上げたが、やはり彼は視線を合わせない。一歩近付いてその顔を覗き込むように見ると、シリルはようやくオフィーリアの目を見て一歩後ろへ下がった。


「……何だよ」


 怒っているのかと思ったが、どうやら違うようだ。ただ複雑な感情がいくつか入り混じっていて、理解するには難しい。


「あなたは複雑な表情をしますね。マンセルは喜怒哀楽がはっきりしていたので、私でも表情が読みやすかったのに」

「そんなもの、読まなくてもいい」


 シリルはもう一歩後ろへ下がって、また瞳を揺らした。


「鍵はこれで全てか?」

「はい」

「そうか、助かった」

「いいえ、お困りのことがあればなんなりと」


 返事を聞いて、シリルは部屋の出口へ向かう。しかし扉をくぐる直前に足を止めて、少し逡巡した様子を見せてからオフィーリアを振り返った。


「……食べ物は余分に持ってきている。腹が減ってるなら食べたらいい」

「腹が減る……?」

「この辺りがきりきり痛む」


 そう言ってシリルは胸の少し下を撫でる。そう言えば、さっきからこの辺りに不快感があった。

 そうか、これが腹が減るという状態なのかと、なぜだか少し可笑しくなった。顔には出さずにシリルから視線をそらす。


「私は結構です。ありがとうございます」


 物を食べるのは、生きるための行為だ。死ぬつもりでいるオフィーリアには必要のないものだった。


「……そうか」


 彼はそれ以上何も言わずに、今度こそ部屋を出ていった。




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