マンセルの魔術
裂かれ泥だらけになってしまった衣服を着替え、シリルがいるであろう書斎へ向かう。
体を動かすことにはだいぶ慣れた。歩くたびに足の裏がビリビリと痺れる感覚も、ほとんどなくなった。
ほんの少し開いた扉からそっと中を覗くと、シリルは立ったまま机の上に置かれた一冊の本を捲っていた。マンセルの日記だ。
マンセルはここで暮らし始めてすぐにオフィーリアに心を込めた。ふたりで暮らして今年でちょうど二十年。日記は亡くなる少し前まで、毎日欠かさず書き込まれている。
マンセルと同じ声で、シリルがぼそりぼそりと日記を読み上げた。
「……銀の髪に真白い肌。光を灯さない瞳はエメラルドでできている。その美しい人形は、国内随一と謳われた人形師による最高傑作だ。様々な人の手を渡り歩き、私が最後の所有者となった。この森は深く静かで寂しい。私は直に老い、この世を去るだろう。それなのに私は、心に迫る孤独の闇に怯え……人形に心を吹き込むという罪を犯してしまった。この人形は永遠にも思える時を、私が死した後もひとりで生きなければならないというのに」
マンセルは実の娘のように孫のように、オフィーリアを愛した。オフィーリアは人間のような複雑な感情は持ち合わせていなかったが、それでも彼を愛する気持ちだけは本物だった。
シリルはオフィーリアに気付かずに、一番古い日記を閉じて一番新しいものを開く。ぱらぱらとページを捲って一番最後の日付で手を止め、そして目を伏せた。
マンセルの流麗で美しかった字は歪み、枠をはみ出て見る影もない。その頃には彼は、ほとんど目が見えていなかった。
『私の愛する人形を』
掠れて読みにくい文字はそこで途切れていて、その続きを知る術は永遠に失われた。
扉を開いて、部屋には入らずに声をかける。
「信じていただけましたか?」
シリルが顔を上げる。
彼はオフィーリアを上から下まで何度も眺め、最後に無遠慮に顔を見つめた。長い前髪をかき上げて、彼は日記を閉じる。
「お前が人形だったことは信じよう。だが、祖父の魔術は正常に発動していない」
「マンセルの魔術は完璧です」
同じ台詞を繰り返すと、シリルの顔が歪んだ。
「耄碌じじいが死に体で施した魔術なんぞ、信用ならん」
オフィーリアは眉を寄せ、シリルを睨み付ける。
「マンセルは最期まで偉大な魔術師でした。彼の魔術はいつでも正確でした」
「俺はお前など愛していない」
「あなたは強情です」
シリルが拳を日記に叩きつける。
「強情なのはどちらだ。そんなに俺に愛されたいのか?」
「マンセルの魔術を認めろと言っているだけです」
「どうだか。俺の顔は爺さんに瓜二つらしいな。人形風情が一丁前に、持ち主に恋い焦がれでもしていたんじゃないのか?」
違うと、なぜか咄嗟に言葉が出なかった。マンセルを愛していた。ただそれは、持ち主に対する愛情、のはずだ。
言葉に詰まったオフィーリアに、シリルは不愉快そうに言い捨てた。
「似ているのは顔だけだ。残念だったな」
彼が窓の外に目をやる。古いガラスの向こうの森は薄闇に包まれ始めていた。
小さな舌打ちが聞こえた。
「お前の相手をしている暇はない。何泊かするつもりだ。先ほども言ったように、この屋敷はお前にくれてやるから好きにしろ」
「……分かりました」
俯いて、スカートをぎゅっと握り締める。
無機物に命を宿す。人形を生きた人間に作り変える。そんな奇跡のような魔術を扱えるのは、きっとこの世界に数人といないだろう。そんな実力を持ったマンセルがわざわざこんな回りくどい魔術を施したのは、オフィーリアのためだった。
彼はオフィーリアに選択肢を与えた。人形として生きたいのなら、このままここにいればいい。そうすれば誰に会うことも、誰に愛されることもない。
人間として生きたければ、街に出ればいい。人間に愛されるために作り出されたこの外見なら、すぐに誰かが見初めてくれるだろうとマンセルは言っていた。街に出るための用意はしてくれていた。
そしてオフィーリアが選んだのは、ここで人形のまま、マンセルの墓石と共に朽ち果てることだった。
それなのにどうして、マンセルはシリルが来ることを教えてくれなかったのか。これでは選択肢の意味がない。
人間になってしまった。もう人形には戻れない。
かたかたと音が聞こえて顔を上げる。シリルが日記を本棚から全て取り出しているところだった。それも持っていってしまうのだろうか。
心臓の辺りが痛むような気分になる。恐らく、寂しいという感情だ。
「お願いがあります」
まだいたのかとでも言いたげに、シリルは細めた目をオフィーリアに向けた。
「……何だ」
「日記だけは置いていっていただけませんか?」
「駄目だ」
彼はオフィーリアから視線を外して、そばの机の上を整理し始める。
「見たところ、日記にも研究の記録がつけてある。全て持ち帰る」
「……分かりました」
なぜか声が震えて、鼻の奥が痛くなって、目の前が滲んでぼやけた。
目から水滴が落ちて、ようやく自分が泣いていることに気付く。
手のひらで涙を受け止めて見つめる。マンセルは涙もろい男だった。感動し、喜び、悲しみ、怒るたびに涙を流していた。彼のものと同じだ。温かな体から流れ出るくせに、とても冷たい水滴だった。
大丈夫だ。悲しむことなんてない。マンセルの痕跡なんてまだまだある。
おまけに人形ならあと数十年、もしくはそれ以上かかったであろう生からの解放が、人間になったおかげであと数日で済む。悲しみも寂しさもそれまでだ。
もうじきマンセルの元へ行ける。シリルに愛されていようがなかろうが、どうでもいいことだ。
シリルがこちらを見ていることに気付いて、くるりと踵を返す。彼に涙を見られたくなかった。
その理由は、オフィーリアにはまだ理解できなかった。