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あなたがいるから




 森が黄昏に包まれていく。

 オフィーリアはマンセルの墓の前に座り込み、ぼんやり紫とオレンジの混ざりあった空を見つめていた。

 ここに座るとよく餌をねだりにきていたリスや鳥がこない。彼らは敏感に、オフィーリアが人間になったことを感じ取ったようだった。

 シリルと別れてからマンセルの書斎に行くと、空になった部屋の机に本が一冊とメモが残っていた。

 一番新しい日記と、シリルが残した、『研究の記録のない日記は置いていく』というメモだった。

 一冊だけでも嬉しかった。マンセルの字を読むのはとても好きだった。

 それなのに、今オフィーリアが大事に握り締めているのはシリルの書いたメモだ。

 もう片方の手には、毒薬の小瓶を持っていた。あとはこれを飲み干して、マンセルの墓に寄り添って目をつぶればお終いだ。

 それなのに、それだけのことなのに、オフィーリアはもう何時間もここに座り込んだまま、ただぼんやりとマンセルの墓石を眺めていた。

 オフィーリアの頭に浮かぶのは、マンセルではなく最後に見たシリルの悲しそうな顔だ。オフィーリアと何度も名前を呼ぶ声も、与えられた優しさも痛みも覚えている。

 愛していると囁く声も。

 自分がこんなにも薄情者だとは思わなかった。どうして二十年一緒に暮らしたマンセルではなく、数日前に初めて会ったシリルのことばかり考えてしまうのか。

 墓の上に置いていた日記を手に取る。

 もう数え切れないほど読んだ日記の、最後の日付の掠れた文字を指でなぞっていると、ふと気付いた。


『私の愛する人形を』


 その文字の隣、何も書かれていないように見える場所に、細いくぼみがあるようだ。

 そばに置いていたロウソクにマッチで火をつける。日記を傾けると、くぼみに僅かな影ができた。

 インクが切れたのか、ペン先が潰れたのか。掠れた文字には続きがあることに、今、初めて気付いた。

 短い鉛筆を横に倒して、その部分を薄く塗り潰す。

 微かに浮かび上がった文字を、小さな声で読んだ。


「私の愛する人形を…………守ってやってくれ、シリル……」


 ぼとりぼとりと涙が落ちる。

 日記を地面に取り落として、シリルのメモを額に押し付けた。

 マンセルは、わざとオフィーリアとシリルを引き合わせた。

 そして、オフィーリアが生きることを望んでいた。

 ここで一緒に死ぬことなんて、彼は望んでいなかった。


「ごめんなさい、マンセル……」


 シリルは守ろうとしてくれた。それなのに、それを拒絶したのはオフィーリアだ。

 毒の小瓶を持つ手に力を込める。

 もう何もかも手遅れだ。彼と会うことは、もう、二度と――。

 近くの茂みが揺れる音に、オフィーリアはのそりと顔を上げる。

 シリルが戻ってきた、はずはない。マンセルが迎えにきたわけもない。

 狼だった。

 一頭二頭、三頭いる。

 唸る彼らが睨み付ける先にいるのは、オフィーリアだ。震える息を吐く。

 屋敷に駆け込めば逃げ切れるだろうか。そう考えたが、がたがたと震える脚に全く力が入らないことに気付いた。オフィーリアが僅かにでも動けば、彼らは飛び掛かってくるだろう。

 頭が回らない。体は冷え切っていて動かない。

 ――こんなことになってしまうなんて。

 手から毒の小瓶が零れ落ちる。

 狼に食い殺される痛みと、今感じている絶望と恐怖と孤独は、一体どちらがつらいのだろう。

 マンセルの墓や日記帳、シリルがくれたメモを血で汚してしまうのは嫌だなとぽつりと考えた、その時だった。


「オフィーリア!!」


 背後から聞こえた絶叫に、オフィーリアは弾かれたように顔を上げた。


「シリル……!」


 振り返る前に、目の前に大きな体が飛び出す。オフィーリアを守るように狼との間に立ったのは、シリルだ。

 彼の指先が狼を指す。


「消えろ!!」


 声と同時に、真ん中に立つ狼が吹き飛ばされて、背後の木の幹にぶつかる。地面に落ちた狼は、起き上がると同時に一目散に逃げていった。

 残りの二頭はじりじりと後退りをしながらもシリルを睨み付けていたが、彼が足を踏み出したのを見て、同時に踵を返して森の奥、闇の中へと消えていった。

 溢れていた涙を拭う。何が起きたのかまだ理解できない。彼は本物なのか、それとも迫る夜の闇が見せる幻影なのか。

 ゆっくり近付いてくる彼に、「シリル」と呼びかける。


「オフィーリア、怪我は?」


 目の前にしゃがんだ彼が、オフィーリアの頬に触れる。その温かさに、ようやく彼が幻影などではないと知った。体の力を抜いて彼の胸にもたれかる。


「痛むところはないか?」


 背中を抱き締めながら囁いた彼に、声が出せずに首を縦に振ることで無事を伝える。

 馬が小さくいななく声が聞こえた。顔を上げると、少し離れたところに馬が一頭立っていた。鞍がついていて、見覚えがある。シリルの馬車を引いていた馬だ。

 この馬に乗って、シリルは戻ってきたようだった。


「どうして、戻ってきたんですか……?」

「忘れものだ」

「馬車は……?」

「森の途中に停めてきた。安全な場所だ」


 シリルは返事をして、外套の内ポケットから紙を数枚取り出した。それをオフィーリアの眼前に突きつける。書いてあるのは魔術の設計図だ。


「馬車の中で確認をしていた。これは祖父がお前に施した魔術だ」


 複雑なその図には覚えがある。殆ど目の見えないマンセルの指示のもと、オフィーリアが描いたものだ。


「私がマンセルの代わりに描いたものです。マンセルはほとんど目が見えなくなっていたので」


 それに魔術を施したのはマンセルで。言われた通り、彼が亡くなった後に発動条件である記号を描き足したのは、オフィーリアだった。

 シリルは目を丸くして、それから深いため息をついた。


「お前が描いたのか……どうりで……」

「……どういうことですか?」

「ここ。月が逆さを向いてる。配置は完璧だから魔術は発動したようだが、発動条件が祖父が意図したものとは違っている」


 わけが分からずシリルを見上げる。


「発動条件が逆転している。これは愛されると発動する魔術ではない。誰かを愛することによって発動する魔術だ」


 声が出せなかった。

 つまり、一体、どういうことだ。

 シリルがオフィーリアを愛したのではなく、オフィーリアがあの瞬間、シリルを愛したと言うのだろうか。


「私が、あなたを?」

「そうだ」


 視線を落とし、胸に手を当て、あの時の感覚を思い出す。

 体の異変に気付かないくらい、シリルから目を離せなかったあの時のことを。


「……あなたを初めて見た時、突然世界に色が付いて、指先まで体が熱くなったんです」


 自分の手のひらを見つめて、また彼を見上げた。


「それは人間になったせいだと思っていましたが、あなたを愛したせいだったんですね」


 その事実を、オフィーリアは驚くほどすんなり受け入れた。彼は、マンセルにそっくりだからだ。


「……キスは、愛情の証だと聞きました。おやすみのキスをしてくれたあなたは私を愛しているのだと思っていましたが……そうか、キスをねだったのは、あなたからの愛を欲しがったのは、私でした」


 力なく笑う。彼にはたくさんひどいことを言ってしまった。


「強情だなんて言って、ごめんなさい」


 俯いたオフィーリアの前にシリルは片膝をつき、手を差し出す。


「俺のことを愛しているのなら、一緒に来い」


 彼の言葉に辛うじて顔だけ上げた。


「……私が愛しているのは、あなたの中にあるマンセルの面影です。まだ生きているマンセルによく似た人を愛した」

「初めはそうだった。でも今は?」


 シリルは地面に落ちている毒の小瓶に目をやった。


「なぜ飲まなかった」

「……自分でもよく分かりません」


 手に取ろうとした小瓶を、シリルが素早い動きで取り上げた。

 そしてあろうことか、彼は止める間もなくそれを飲み干してしまった。


「何てことを……!!」


 オフィーリアは悲鳴を上げて、シリルの腕にしがみ付く。

 どうすればいい。必死に頭を巡らせる。吐かせる? 毒はどれくらいで効き始める? 解毒剤、いいや、間に合わない。


「いや……お願い、死なないで……!」

「俺のことを愛していないなら、俺がどんな風に死のうが関係ないんじゃないのか?」

「違う!!」


 叫んで首を横に振る。どうすることもできずに震えながら縋り付くオフィーリアに、シリルは目を細めた。


「偽物」


 混乱した頭に、氷水をぶちまけたような言葉だった。


「……え?」

「ただの睡眠薬。俺は耐性があるから効かない」


 何度か彼の言葉を頭の中で反芻して、ようやく意味が分かってその場に尻餅をつく。

 彼は外套のポケットから別の瓶を取り出した。


「こっちが本物」


 その小瓶の栓を抜いて、彼は中身を地面にこぼした。液体に触れた色とりどりの落ち葉は、またたく間に茶色く変色する。オフィーリアは呆然とそれを見つめていた。


「その偽の薬を飲んでいたら、お前は死の恐怖よりも、俺よりも、祖父を選んだんだと諦めて、眠るお前に毒を飲ませて帰ろうと思っていた。……眠るように死ぬことのできる毒なんてこの世にはない」


 シリルはオフィーリアの頬に手を伸ばす。

 すっかり日の暮れた森の中で、小さなろうそくのみに照らされた彼の灰色の瞳は、闇のようにも夜空のようにも見えた。


「……最初から、帰ってくるつもりでいたんですか?」

「そうだ。……何時間か考える時間をやった。なのにどうして飲まなかった?」


 シリルの視線が下がる。その先には日記が落ちている。

 拾い上げて、シリルも続きの文字に気付いたようだ。彼はマンセルの最期の願いを読んだ。


「……お前は、何に未練があった?」

「わ、私は……」


 一体何を思っていた?

 ずっとずっと頭に思い浮かんでいたのは。


「シリル……あなたのことばかり、考えていました……」


 その言葉を確認してから、彼の腕が背中を引き寄せる。強く抱き締められ、もうその腕に全てを委ねてしまいたくなった。


「私は、あなたを……マンセルに似ている人ではなく、あなたを愛しているのでしょうか」

「一緒に暮らして、確かめていけばいいだろう」

「……一緒に?」


 心臓が大きく跳ねた。体から飛び出してしまうのではないかと思った。

 明日からも生きていくのか。シリルについて行って、明るい陽の下で、彼と同じ家で、一緒に暮らすのか。

 未来なんて想像もしていなかった。それはオフィーリアにとってあまりにも大きくて遠いものだった。

 シリルが立ち上がる。

 手を差し出されたが、どうすればいいのか分からずにマンセルの墓を振り返り、もう一度シリルを見上げた。


「なぜ祖父がお前にそんな魔術を施したと思う? 人形のままでいいと言うお前に人間になる可能性のある魔術を施して、そして俺をここに連れてきた。なぜだと思う?」


 その答えはひとつしかない。


「……私に、人間になってほしかったから」

「そうだ。こんなところでひとりきりで死なせたくなんてなかったんだ。街に降りて人に愛されながら暮らしてほしいと願った。お前を愛しているからこそ」

「そんな……自分勝手な……」


 勝手に心を植え付けて、勝手に人間になる魔術をかけて、そんなこと、勝手すぎる。


「愛なんてそんなものだ。自分勝手で押し付けがましい」


 ずいっと目の前に差し出された手に、おそるおそる手を伸ばす。待ちきれなかったようにシリルが屈んで捕まえて、引かれるがままに立ち上がった。

 彼は両手でオフィーリアの首筋と頬を撫で、視線を合わせる。


「祖父の遺したものは全て俺が引き継ぐ。お前もだ。意地でも、どうやってでも、絶対に連れて帰る。絶対に死なせたりなんてしない」


 触れるだけのキスをして、シリルは額を押し当てる。


「祖父に言われたからじゃない、俺がお前を守りたいと思ったんだ」


 彼が脱いだ外套に包まれる。さらに拾い上げたひざ掛けを頭から被せられ、日記帳を手渡された。

 それを見下ろして胸に抱き締めたオフィーリアを、シリルは抵抗する暇も与えずに抱き上げた。


「爺さん、もらっていくぞ」


 墓に向かってそう言って、彼は踵を返す。その肩越しに墓石を見た。


「マンセル……私は」


 明日を生きてもいいのだろうか。未来を歩いてもいいのだろうか。彼の、そばで。


「俺の名を呼んでくれ、オフィーリア」


 懇願するようにシリルが言う。

 彼の胸の中から、その灰色の瞳を見上げる。

 キスは愛情の証だ。マンセルとは違う人。彼にキスをしたいと思うだろうか。

 じっと見つめて、改めて思った。手を伸ばして頬に触れると、彼は屈むようにオフィーリアに顔を近付ける。目を閉じて、その唇に触れる。柔らかくて温かくて、愛しい気持ちが奥底から際限なく湧き上がる。


「シリル」


 その時、墓のそばに置いていたロウソクが揺れて、そして消えた。

 今日は煙を揺らす風すら吹いていないのに、まるで役目は終わったとでも言いたげに。

 薄暗くなった森の中に光と色が溢れる。涙が夜空の星々を滲ませ、七色に煌めかせている。

 シリルの合図で寄ってきた馬の上に押し上げられ、後ろに彼が飛び乗って、オフィーリアの腹に手を回した。


「行くぞ。俺にもたれかかってろ」

「……忘れものは?」

「お前のことだ」


 腹を軽く蹴られた馬がゆったりと走り出す。マンセルの墓を振り返ろうとしたが、シリルに体を引き寄せられ叶わなかった。


「墓参りなら、またいつでも連れてきてやる」


 頷いて、前を見る。

 まだ未練は体に絡まっている。少しでも気を抜くと、馬から引きずり降ろされそうだ。

 二十年過ごした屋敷が遠ざかる。ろうそくの匂いが、焼却炉の臭いが遠ざかり、森の匂いが深くなる。

 あっという間に見たことのない景色の中を走っていた。

 シリルの魔法だろう、周辺は明るいが、進行方向は暗闇に覆われていて何も見えない。

 あんなにも恐れていた暗闇を進んでいるというのに。


「馬車はすぐそこだ。怖くないか?」

「大丈夫です……あなたがいるから」


 体を支えるシリルの手に手を重ねる。

 すぐに握り返された手は火傷しそうなほど熱く、凍えていた体をゆっくりと溶かしていってくれた。




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