知っていたのに
ぼんやりと、夢心地でシリルの顔を見つめていた。
オフィーリアの隣に寝転んで、目を伏せていた彼の呼吸はもう元通りだ。ゆっくりまぶたが持ち上がって、灰色の瞳がオフィーリアを捕らえる。
腕が伸びてきて、オフィーリアの顔に張り付いた髪を摘まんで払うと、彼は何度か髪を撫でてまた力なく手を下ろした。眠たいのだろう、そのまぶたは重たそうだ。
オフィーリアも疲れきって、眠気もあった。
しかし、眠れば明日になってしまう。
彼は少しの間目を閉じて、もう寝てしまったのだと思っていたがまたまぶたを持ち上げる。
「眠れないのか?」
心配をかけないように首を横に振る。
「目を閉じていればすぐに眠れる」
「はい」
返事はしたが、やはり目を閉じるのはもったいないと感じてしまう。
彼の指が銀の髪に触れる。弄ぶように指に巻きつけたり梳いたりして、それが気持ちがよくて目が細くなる。
髪に触覚があるなんて知らなかった。いや、もし本当に触覚があるのなら、髪を切る時に痛みがあるのではないだろうか。でも、そんなことはどうでもいいと思えるくらい気持ちがいい。
「オフィーリア、そのまま目を閉じろ。そばにいるから」
こんなふうに優しく触れて、名前を呼んでくれるなんて、やはり彼はオフィーリアを愛しているのではないか。
「キス……おやすみのキスをください」
キスは愛情の証だ。シリルがオフィーリアを愛しているのなら、またキスをしてくれるはずだ。
彼は体を起こしてシーツに肘を立てる。そのまま近付いて、汗がようやく引いてきたオフィーリアの額に、小さな音を立ててキスをした。
「違う、唇に」
思わず声を上げると、シリルがふっと噴き出して笑う。
「もうすっかり人間になって、わがままも覚えたか?」
今わがままを言ってしまっただろうかと考えているうちに、彼の唇が触れる。目を閉じて、もっと深くとその肩に触れたが、すぐに彼は離れてしまった。
「これ以上は駄目だ」
「どうして……?」
「また、恥ずかしいことをしたくなるから」
さっきまでの行為を思い出してしまって、彼から少し離れて布団に顔を半分隠した。笑いながらそれを追いかけてきたシリルが胸の中へオフィーリアを囲い、今度は髪にキスをする。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
返事をして彼の胸に額を寄せると、背中に回されていた手に力がこもったのが分かった。
まだ眠ってしまいたくなんてないのに、彼は魔法でも使ったのだろうか。目を閉じて、少しして、また開くともう朝になっていた。
****
手入れをしていた万年筆は、シリルが形見として持っていくらしい。
マンセルが大事にしていた壁掛時計も、価値のある宝飾品も、こんなところで朽ちてしまうよりはと全てシリルの馬車に押し込んだ。
屋敷に残ったものは形見と言うにはささやかなものだったが、オフィーリアにはそれで充分だった。
もう字を書くには短すぎる鉛筆を見ると、マンセルが机に向かっていた姿を思い出すことができる。
彼が好んでいたキャンドルも、今ならどんな香りなのか分かる。火をつけて、その匂いとマンセルがずっと使っていたひざ掛けに包まれながら、最期を迎えたい。
ようやく全てが終わる。
シリルから毒薬を受け取り、彼を見送ってからそれを飲み、マンセルとの思い出を抱いて眠るだけだ。そうすれば彼の元へ行ける。幸せだ。それがオフィーリアの唯一の幸せで、マンセルのためにできる唯一のことだ。
屋敷の裏にある小さな焼却炉の前に立ち、小さくなってしまった赤い炎を見つめる。マンセルの本はもうほとんど灰になってしまって、直に火は消えるだろう。
悲しいという気持ちはない。必要ないということは、この本の内容はシリルの頭の中にもう入っているということだ。消えてなくなってしまうわけではない。
全く風がないせいで真っ直ぐに上る煙を見ていると、ふいに腕を引かれた。
「危ないからもう少し離れろ」
眉をこれでもかと寄せているシリルを見上げて、目を細める。
「心配性ですね」
「お前が危なっかしいだけだ。……来い」
手を取られ、玄関まで連れていかれる。なにか用事があるのかと思ったが、あれだけ大量に積み上げられていた廊下の本はもう見当たらないし、近くに止めてある彼の馬車の扉は閉じられている。シリルを見ると、彼はここに来た時と同じように、外套を羽織っていた。
もう準備が終わってしまったようだ。
「全て乗せ終わった」
「はい。お見送りを――」
思わず言葉を切る。シリルがオフィーリアをきつく睨み付けたからだ。彼が一歩近付く。
何をされるのかと首をすくめたオフィーリアの手を取って、シリルは痛いほど握り締めた。
「俺と一緒に来い」
予想していなかった言葉に、ただ目を丸くする。
「祖父が作り出した命だ。後継者である俺が責任をとる。俺が面倒を見る。……体に触れた責任もとる」
もう片方の手も取り、彼は両手でオフィーリアの手を握り締め、さらに一歩近付いた。
「甘いものも美味いものも、たくさん食わせてやる。太陽の当たる家で、新しい寝具で、流行りのきれいなドレスだっていくらでも買ってやる。もう、暗闇なんかに怯えなくてもいい」
オフィーリアの手を額に押し付け、彼はまるで懇願しているようだった。
「俺が、そばにいるから。お前から離れたりしない、お前をひとりにしたりしないから……俺と一緒に、来てほしい……」
「あなたは、とてもお優しい人ですね」
「……優しくなんかない」
優しい彼にとって、これから言う言葉はどれだけ残酷なのだろうか。
そっと、シリルの手を解いた。
「私は、街へは行けません」
「……なぜ」
「私の、寂しがり屋で泣き虫の主人を……愛する主人を、こんなに寒くて暗い場所にひとりきりにするわけにはいきませんから」
シリルと過ごして理解した。人間は、ひとりきりでは怖くて寂しくて、誰かと一緒にいると温かくて幸せになれる。
マンセルのそばにいたい。シリルと一緒には行けない。頭を下げる。
「私はここで、マンセルと共に。少しの間でしたがお世話になりました。ありがとうございます。……さようなら」
ずっとこうすると決めていた。
両手を握り締めて頭を上げると、彼は引き結んでいた唇をゆっくりと解き、「分かった」と小さく言った。
外套のポケットを探って小瓶を取り出す。
「毒薬だ。一気に飲め。全てだ。……眠るように死ねる」
両手を差し出して、彼からそれを受け取った。胸元で握り締めて、オフィーリアは微笑んだ。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、安らかな最期を迎えることができます」
空腹で苦しむこともない。痛みに悶えることもない。死に恐怖することもない。
それなのにシリルは顔を歪める。目を伏せて唇を噛んで。
考えなくても分かる。その顔に浮かんでいるのは悲しみだ。
彼がオフィーリアに顔を寄せる。耳元で、消え入りそうな声で呟く。
「お前を愛してる」
目を見開いたオフィーリアを、シリルは見なかった。
そんなこと、知っている。
彼に愛されたから人間になった。キスをしてくれたのだって、愛されているからだと思っていた。
そんなこと知っていたのに。
オフィーリアは動けなくなった。
シリルが馬車に乗り込んでも、馬車が動き出しても、森の向こうに見えなくなっても。
ずっと長い間、そこから動くことができなかった。