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熱を共有する




 あれだけ物が多かったマンセルの書斎は、もう僅かに本が残るだけだ。

 その代わりに玄関前の廊下には、シリルが持ち帰る物と、ここで燃やして処分する物が溢れている。

 オフィーリアはそれを横目に見てから、リビングを見て回っていたシリルに声をかけた。


「お湯の準備ができました」

「ああ、ありがとう」


 顔を上げたシリルは、オフィーリアを見てなぜか顔をしかめる。

 オフィーリアが使っていない暖炉の掃除をして、煤だらけになった体を洗う用意をしているのを見て、彼も湯を使いたいと言うので用意をした。

 オフィーリアは先に体を隅々まで洗い、もう顔をしかめられるような姿はしていないはずだ。

 シリルに渡そうと手に持っていたタオルを取り上げると、彼はオフィーリアの頭にかぶせた。


「しっかり髪を拭け。あとそんな薄着でいるな、何か羽織れ。風邪をひくぞ」


 一気に浴びせられたお小言に、彼がそばを通り過ぎてから肩を竦めリビングへ向かう。

 彼の実家には大きな浴槽があり、たっぷりのお湯に全身浸かることができるらしい。ここには浴槽はないが、熱いお湯の入った大きなたらいをふたつ用意した。これで頭を洗うこともできるし、足を浸けることもできる。

 リビングのテーブルの上に並べられているのは、マンセルが愛用していた道具たちだった。シリルは持って帰るつもりなのかもしれない。

 ソファに座り、メレンゲ菓子をふたつ摘まんでからそれらを手に取る。

 シリルがこれからも使ってくれるのなら、手入れをしてきたかいがあったというものだ。

 思い出に浸っていた時だ。そういえば、彼にタオルを渡していないことを思い出して立ち上がる。

 洗ったばかりのタオルを手に取り、閉じられていた寝室の扉を開いて声をかけた。


「タオルを用意するのを忘れて」

「うわっ!」


 驚いて叫んだ彼はテーブルの上のたらいに腕をぶつけたらしい。水が撥ねて彼の裸の上半身と、下着だけの下半身を濡らした。

 やってしまったなと立ち止まる。


「すみません。ノックをしてから部屋に入るべきでした」

「……それよりも気にすることがあるだろう?」


 ぶつけた肘を撫でながら恨めしそうにシリルが言う。


「…………背中を流しましょうか?」


 窺うように聞いてみたが、その大きなため息から違ったようだ。しかし彼は「頼むよ」と絞ったタオルを差し出した。


「はい」


 いそいそと近付いて、小さなスツールに腰を掛けたシリルの背中を、受け取ったタオルで拭いていく。

 薪ストーブの目の前だ。辺りは温かく、たらいに足を浸けている彼の体は火照って熱い。


「……明日の朝、燃やすものを燃やしたら、ここを発つ」

「はい」


 そうなるだろうと予想していた。オフィーリアの返事に、彼は何度か言い淀んでから口を開く。


「十日ほど滞在する予定だったが、早く済んだ。ここについたらまずは墓穴(はかあな)を掘って、祖父を埋めるところから始めるつもりだったから」

「マンセルは三年前から墓穴を掘って、その中に棺も用意していました」

「お前が棺まで運んだのか?」

「はい」


 マンセルに言われた通り、死後硬直が解けたあと、落としてしまわないように慎重に運んだことを覚えている。


「重かっただろう、よく運べたな」

「そこまで重労働ではありませんでした。人形の体は丈夫でしたし、マンセルは晩年、動けなくなったあたりから……小さく、細く……なって、しまって」


 声が詰まって喋れなくなる。なぜ涙が溢れてきたのか、すぐには理解できなかった。タオルを取り落とし、次々涙の流れる頬に触れる。

 人形の時は、人間が病気や死ぬ間際に小さく弱くなることを、そういうものだと思っていた。あれほど元気だった人が、毎日目に見えて弱っていくのを見ても、それが当たり前のことだと思っていたのだ。

 思い出してしまった。痩せて小さくなっていくマンセルの姿と、苦しそうな呼吸が徐々に細くなって、聞こえなくなったあの瞬間を。


「どうして、今さら……」

「もうすっかり人間だな。人が死ぬのは……悲しいことだ」


 シリルが振り返って手を伸ばしたが、その指先が濡れていることに気付いたからか下ろされる。


「祖父は……お前がここにいてくれて、本当によかったと思っていただろう」


 嗚咽が漏れて、もう耐えられなかった。

 敷物の上に足をついて、シリルの膝に顔をうずめて声を上げて泣く。

 寂しがり屋で泣き虫だった最愛の主人を、ひとりにせずに済んでよかった。

 苦しんで苦しんでようやく楽になれた彼を、またひとりにするわけにはいかないのだ。

 たくさん食べてたくさん寝ているはずなのに、泣くという行為は意外に体力を使うらしい。声を出すのも疲れて、鼻をすすりながら顔を上げる。

 じっとオフィーリアが泣き止むまで待っていたらしいシリルの髪からは、ぽたぽたと雫が落ちている。


「ごめんなさい……」


 いくら暖かいといっても、もうすぐ冬だ。

 そばに置いていたタオルで彼の髪を包み込み、拭いてやる。


「風邪を引いてしまいますね。あなたは、明日からも……生きていくのですから、風邪をひいてしまったら大変……」


 オフィーリアの前髪から滴った水滴が、頬を流れ落ちる。明日、マンセルに寄り添って終わる命だ。風邪を引いたってどうでもよくて、彼に言われたあとも拭かなかった。

 オフィーリアが死ねば、シリルは悲しむのだろうか。それとも彼が言うとおりオフィーリアを愛していないのなら、それほど悲しくはないのだろうか。

 彼の腕が伸びてくる。


「触れていいか?」

「はい」


 顔を傾けて、その手に擦り寄る。


「触れてください」


 これで最後だ。

 引き寄せられ、彼に近付く。その胸の中に閉じ込められ、安堵でゆっくりと息を吐く。


「冷たい……ちゃんと、拭かないからだ」


 タオルが頭を包む。長い銀髪を丁寧に拭いてくれたが、焦れてその手を止めた。


「もういいです」

「しっかり拭かないと」


 その腕に手を這わせる。びくりと震えて離れようとした彼の肩に、それから胸に、手のひらを当てた。


「あなたが温めて」


 抱き締めてくれたら、すぐに温まるだろう。強く抱き締めて、ひとつになるくらい肌をぴたりと重ね合わせたら、熱を共有できる。

 シリルの目が見開かれる。その顔に浮かんだのは、まだ見たことのない感情だ。いいや、もしかしたら見たかもしれない。記憶はぼんやりとしているが、一昨日、ベッドの上で。

 その喉が揺れて、一瞬葛藤のようなものが見えて、すぐに細められた目に隠された。

 背中に回されたタオルで引き寄せられる。

 近付いて、彼の鼻がオフィーリアの鼻に触れた。驚く間もなく今度は唇が触れて、彼は下唇を何度か噛んですぐに離れた。


「何ですか……?」

「キス」

「唇に?」

「キスはどこにしてもいい」


 知らなかった。頬や額にするキスしか教えられていない。

 キスは愛情の証だとマンセルが言っていた。それならシリルがオフィーリアを愛していないというのは、やはり嘘なのではないだろうか。

 聞いてみようとしたが、彼はまたしても唇を押し付ける。そのまま「目を閉じろ」と囁くので、大人しく従って目を閉じた。




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