人形
世界はこんなにも鮮やかな色に満ち溢れていたのか。
葉の落ちた枝の隙間から見える空の深い青、そばに建つ屋敷の緋色のレンガがオフィーリアの目を刺激する。
世界にはこんなにも、様々な感覚が存在していたのか。
抱えているバラの棘が手のひらに食い込む痛み、膝をついている土と枯れ葉の冷たさ。そして襟元のフリルが首筋をくすぐる感触。
体の中を血が駆け巡る。指先まで熱が行き届く。
しかしそんな初めての感覚に気付かないくらい、オフィーリアは突然目の前に現れた男に視線を奪われていた。
黒い髪も、真ん丸に見開かれた灰色の瞳も、その顔の作りも何もかもあの人に似ている。
「マンセル……」
もう懐かしいとすら感じる名前を呟くと、目の前の男ははっとしたように体を震わせ一歩後ろへ下がり、オフィーリアを睨み付けた。
「何者だ。ここで何をしている」
声まで似ているではないか。マンセルの若い頃に、彼はとてもよく似ていた。
オフィーリアは立ち上がろうとして、よろけて地面に倒れる。腕からこぼれて散らばったバラを見つめながら、ようやく気付いた。体がいつもと違うことに。
思わず手のひらを見る。柔らかな皮膚に覆われていて、裏には小さな爪までついている。
「……どうして……」
呟いたオフィーリアの鼻先に、長い剣の切っ先が突き付けられた。
「答えろ。お前は何者だ」
懐かしい声が、冷ややかに問いただす。
オフィーリアは息を大きく吸って、喉を冷やす空気の冷たさに驚きながらも、男を見上げた。
「……私はオフィーリア。魔術師マンセル・エリントンに心を込められた、人形です」
「人形?」
男の顔が疑わしげに歪む。
突き付けられていた剣が下ろされ、ほっと息をついたのも束の間。男が一歩近付いて、そして剣を振り上げた。その切っ先が、オフィーリアのスカートを縦に切り裂いた。
破れた生地の隙間から見える足を見て、男は鼻を鳴らす。
「どこからどう見ても人間のようだが。つくならもう少しまともな嘘をつけ」
馬鹿にしたような彼の言葉は耳に入らず通り過ぎていく。それほどまでに、オフィーリアは愕然としていた。どうしてここに人間の足があるのか理解できない。つい数分前、この男が目の前に現れるまでは、確かにこの体についていたのは動くたびにキシキシと音のする丸い関節の付いた人形の足だった。
マンセルの声が蘇る。何度も何度も謝りながら、「お前をひとり残して逝くのがつらい」と泣いたマンセルの声が。
「……マンセルは死を悟り、ひとり残される私を哀れに思って、私に魔術を施しました」
器である人形の体が形を保っている限り、心が死ぬことはない。この深い深い谷底にある小さな森には旅人どころか悪党すら寄り付かず、長い時間をかけて体が朽ち、一緒に心が朽ち果てるのを、ずっとひとりきりで待たなければならなかった。
なのでマンセルは、残り少ない力を振り絞りオフィーリアに魔術を施した。
「誰かから愛されると、心だけでなく身も人間になる術を」
男が目を見開く。地面を向いていた剣の切っ先が、またオフィーリアを指した。
「俺がお前を愛したとでも?」
「マンセルの魔術は完璧です」
「くだらん」
吐き捨てるように言って、男は剣を鞘へ仕舞った。着ている外套の内ポケットを探って、取り出した手紙をオフィーリアの眼前に突き付ける。
「俺はシリル・エリントン。マンセル・エリントンの孫であり、正式な後継者だ」
シリル。覚えのある名前だった。マンセルが鳥を使ってやり取りをしていた手紙で、一番よく見た名前だ。直接名前を聞いたこともある。マンセルは嬉しそうに、シリルがどれほど優秀な魔術師かを話していた。
ようやく合点がいった。顔も声も偶然似ていたわけではない。血縁者だったのだ。
「三ヶ月前、祖父から手紙が届いた。近いうちに死ぬだろうから、俺を後継者とし魔術の書物や研究資料全てを相続させると」
シリルの持つ手紙を斜め読みする。確かにそれはマンセルの字で、シリルが言った通りのことが書いてあった。こんな内容の手紙を出したことは聞かされていなかった。
「書物と資料を引き取りに来た。祖父に囲われていたのか知らんが、この屋敷は放棄する。住みたければ住めばいい」
言うだけ言って、シリルは踵を返す。
「待ってください……」
彼を止めようと足を踏み出したが、思っていたより人間の足の可動域が広かった。よろけて小さな悲鳴と共に地面に突っ伏す。
どこにどう力を入れればいいのか分からず、起き上がることができない。
「まだ人形ごっこを続けるのか?」
また馬鹿にするような声が降ってきて、オフィーリアはシリルを見上げた。
「マンセルの日記を読んでください。そこに私のことが書いてあります」
手を突っ張って上半身を起こそうとしたが、肘が震えてできなかった。
シリルは眉をひそめてそれを見下ろしてから、黙ったまま屋敷へ足を向ける。しかし少し歩いて立ち止まった。くるりと振り返った顔は忌々しげに歪められている。
彼はオフィーリアの元に歩み寄ると、その腕を掴んで引っ張り、湿った落ち葉の上に伏していた体をいささか乱暴に座らせた。
「……ありがとうございます」
礼を言うオフィーリアにちらりとも視線をやらず、シリルはさっさと屋敷の中へ消えた。
ぼんやりと、彼のいなくなった空間を見つめる。布越しだったというのに、掴まれた腕がまだ熱い。人間の体はこんなにも熱いものらしい。
散らばったバラを集めてそばの墓石に添えてから、オフィーリアはさらに長い時間をかけて立ち上がり、屋敷へと歩を進めた。