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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
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第99話 ドイツ語学習の成果(2)


 午後の五、六時間目はまるごと美術の授業だった。


 進学校だけあり、英数理の授業は二年からこれまで以上にしっかり確保されるぶん、こういう受験本番に関わりのない芸術系の科目はめっきり少なくなる。


 教師もその辺は理解しているからか、成績のために作品を提出さえすれば何も言ってはこない。つまり、柏ヶ丘高生にとっては珍しい憩いの時間なのだ。


 風景画の制作のために、クラスメイトたちは広大なキャンパスに散り散りになって、思い思いの場所で自由に筆を握っている。


 というのに碧は、こっそり数学の問題集と古典の単語帳を持ち出していた。


 言わずもがな、ただの物好きじゃなく次の試験への布石だ。成果のためには一秒だって無駄にはしたくない。


 いいスポットはないか、と画材片手にキャンパスをそぞろ歩きしていたところで、ひときわ目立つ人影が視界に入った。


 ——あれ、くるみさん今日は一人なんだ。


 見知った亜麻色の髪の少女は、独りで校庭へとつながる階段にちょこんと座り、黙々と鉛筆を動かしていた。


 引く手数多の妖精姫(スノーホワイト)は今回も女子から「一緒に描こう」と誘われていたが、何故か断っていたのを教室で見かけていた。つばめと組む予定だったからかと思っていたけど、思えば今日彼女は撮影の仕事で学校を休んでいる。人気ゆえにいつも多くの生徒が集まっているので、学校で一人でいるのは珍しい。


 ——まあ偶には気分が乗らないこともあるか。


 もう四月も終わりだというのに寒さが冴え返ったらしく、今日は気温が低い。陽が当たるところに行くかとなんて考えているとスマホが震えた。


〈碧くんは今日もひとり?〉


 目線を持ち上げると、離れたところにいるくるみが、妖精姫(スノーホワイト)の静謐な笑みで目配せしている。肝心のメッセージは、ただの他愛ない戯れあいなんだけど。


〈『も』ってなに。くるみさんこそ誰かと一緒にいないの珍しいよね〉


〈私だって一人になりたい気分はあるもの〉


〈分からなくもない。僕もテレビでカップル特集を見た時は独りで旅に出たくなる〉


 本当はこっそり勉強するためだけど。怒られるから言わないだけで。


〈それと一緒にしないで。私が可哀想な人みたいじゃない〉


〈その理論で言うと僕が可哀想な人になるけど。一人なの、もしかして体調悪いから?〉


〈別にそういう訳じゃなくて〉


〈じゃあ何〉


〈碧くんには関係ない〉


 つーんと澄ました返事に苦笑する。


〈そっちから連絡してきたくせになあ〉


 風に連れていかれる雲をたっぷり眺めた後、トーク画面が更新される。


〈……だってお絵描き苦手なんだもん〉


 思いがけない答えに、二度見した。


 遠巻きにくるみを見れば、羞恥で頬を赤く染めている。しゅぽぽぽ、とスマホが鳴いたと思いきや、ゆるいスタンプの爆撃でログを流されたのと同時に弁明が返ってくる。


〈人間は絵を描けるように出来てません〉


〈それ泳げない人が展開する金槌論法じゃん〉


 どうやら一人でいたのは、周りに見られないようにするためらしい。


〈……僕くるみさん何でもできると思ってた〉


〈言っておくけど紙にイラスト描くのが出来ないだけだから! 一年生の時は座学とか彫刻とかがメインだったから何とかなったの! 二年の授業も回数少ないし、来月からデザインと絵画の選択式になるから私はずっとそっちを選ぶつもりだし〉


〈……にしても意外だなあ〉


〈人間なんだから苦手なことの一つや二つありますもの〉


〈僕のこと画伯大先生とか言ってたくせに自分は下手なんだ?〉


〈はいはい不敬不敬〉


〈なんか雑じゃない?〉


 送ったきり、スマホは震えず沈黙した。画面を押しても、うんともすんとも言わない。どうやら充電が切れてしまったようだ。昨日も勉強に集中して寝落ちしたせいで、スマホをリュックの中にいれっぱなしにしていたことを思い出す。


 まあ本来は授業中だしな、とスマホの天国への旅立ちをジェスチャーで伝えようとくるみの方を向いたところで、彼女がクラスメイトの男子に話しかけられているのが見えた。木のボードを伏せているあたり本当に見られたくないらしい。


「楪さん、寒いならこれ使ってよ」


「……ありがとうございます」


 かすかに会話が聞こえる。寒がる女の子に上着を貸す、というよくある場面だ。


 だが彼女はブレザーを受け取りはしたものの、男子生徒が去った後も戸惑ったように手に持ったまま。勢いのまま渡されたので受け取ったが、美術の授業なので人の物を絵の具で汚さないか心配……という風情だ。


 ——困ってるのか。


 思わず立ち上がりかけたものの、学校であんまり干渉してもな、と話を終わらせて自分のキャンバスに向かい合う。が、くるみが他人の制服を着ている様子を想像すると、やっぱりどうも面白くない。


 上着を貸してきた奴相手に覚えた()()()っとした感情を押さえつけ、これは人助けだと自分に言い訳して近寄った。


「くるみさん」


「秋矢……くん」


 クラス替えを契機に最近学校でも少しずつ話すようになったおかげで、感覚が掴めてきた。この間のようにお昼を一緒するなら別だが、ちょっと会話する程度なら羨ましいという視線はぶつけられど、妬み嫉みといった感情を突きつけられることはそこまでない。


 碧が誰を相手にしても下の名前で呼ぶことも周知の事実なので、その点でも怪しまれることはなかった。


 それでも念の為に間隙(かんげき)は縫う。周りに見ている人がいないことを確認してから、碧はくるみの手で持て余されていた男子生徒のブレザーを受け取ると、代わりに自分のを脱いで渡した。


「これは僕から返しておくから、くるみさんは僕のを羽織って」


「え……でも」


「いいよ汚しても。しばらくパーカーで登校するから」


 戸惑いを見せたくるみだが、うながされるまま羽織る。ぶかぶかのブレザーに包まりながら、へにゃっと目を細め小さく呟いた。


「……温かい」


 文字通り熱の込められた言葉にどきっとしたが、あまり一緒にいすぎてもなので、ここは戦略的撤退だ。


「じゃあ僕は戻ります」


「あ、待って」


 階段を降りかけたところで呼び止められる。


「Vielleicht Eifersucht?(もしかしてやきもち?)」


 碧にだけ聞こえるくらいのボリュームで、こそっと伝えてくる。


 その表情は、学校での完璧少女の面影を残しつつも、どこか肯首を期待しているように見えて、否定も肯定もできない今の状況がもどかしい。


 ——まったくこのいたずら妖精さんは……。


 そっぽを向くことでしか意思を表現できない碧を見て、くるみはちょっとだけ口許を綻ばせつつ、また独り言のように小声で話しかけてくる。


「Nächste …… Woche, Ausflug, Ich sich freuen.(来週のお出かけ、楽しみだね)」


 口語だけならかろうじて伝わるような、単語をつなげ合わせた拙い言葉。


「Beste der Welt, Vergnügen(私は世界一、楽しみ)」


 それでも意味を理解するには十分で、たっぷりの甘さと熱を秘めたささやきに、碧の鼓動はどくどくと強く脈打ち始めた。


 ——この子、周りに伝わらないなら何言ってもいいって思ってないか?


 碧は学校じゃ帰国子女なのは内緒なので、下手に返事はできない。スマホも充電切れでポケットのしかばねだ。心のこもったドイツ語での甘い呼びかけに、意味を分かりつつも立場上うんともすんとも言えなかったのだが。


 ——あ。そうだ、筆談なら。


 他にも手段が残されていることを思い出し、数学のノートを一枚破くとメッセージを書き殴る。


〈自分が世界一だってどうして分かるの?〉


 そう書いた秘密の手紙を読み上げたくるみは、しばらく虚を衝かれたようにきょとんとしていたが、やがて目を丸くしたまま手を口許にあてがった。


 彼女が意味を推し量れば、少なからず何かが表情に出てしまうだろう。そうなる前に今度こそ撤退することにして……もう一度だけ振り向く。


 手に持った誰かのブレザーを契機に、湊斗のカフェバーでの一件——夏貴の明確な嫉妬と嫌悪を思い出してしまったから。


「くるみさん」


「え? あ……はいっ」


「あのさ。これだけは言っておこうと思うんだけど」


「?」


「この間みたいなことが、もし僕のいないところで今後あったら困るし。何かあったら電話でもメッセージでも、いつでも連絡くれていいから」


 絶世の美女なだけあり、くるみは学校の大半の男から矢印を向けられている。自分のせいで彼女に牙が及ぶようなことはあってはならない……とまで考えたところで、はっとする。


 心配だったので、周りを気にせずつい日本語が口を衝いて出てしまったことに。


「……ってつばめさんが言ってたのでね」


 ちょっと苦しい言い訳一つ残して踵を返したところで、


「……Dummばか


 後ろがわでドイツ語バージョンになったくるみの可愛い罵倒が聞こえた気がして、碧はふぬけた笑いを押し殺した。


99話まできました。

次は100話です!

読んでくださる皆様のおかげです。

ありがとうございます!

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