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第78話 夢のあとさき(1)


 ——夢を、見ていた。

 長い長い夢だ。




『父さんは、仕事でドイツに行くことになったんだ。しばらく日本には戻れないが、お前も一緒に来る気あるか?』


 それはまだランドセルすら買ってもらう前の頃だった。


 近所で買ったおやつのどら焼きを頬張っていたせいで、すぐには返事をできなかったのを覚えている。


 ジュースで無理やり流しこんでから聞き直すと、こういう返事が返ってきた。


『最低で四年間、向こうで暮らすことになる。母さんにも聞いたんだけど、今の仕事が大好きだから、どうしても日本に残りたいそうだ。選び方は父さんと母さんが教えてあげるから、どっちについてくるかは碧が自分で決めなさい』


 それが、人生で初めて与えられた重大な選択の場だったと、今になって思う。


 碧の両親は海外で出会った。大学一年の長い夏休みを持て余し、貯めたバイト代で友達と旅行中の母親と、当時バックパッカーで旅をしていた父がオーストラリアで出会い、意気投合。めでたくも二年後に学生結婚に至ったのだ。


 幼い頃から何度も聞かされた両親の海外でのお話はまるで冒険譚のように思えて、自分もいつかは外国に行くのだと当たり前に信じてきた。だから海外移住の話にも驚きはなく、二つ返事で頷いた。


 といっても、子供の知識なんか乏しい。まず最初に、父親はドイツがどこにあるどんな国なのかを、世界地図を指差して教えてくれた。けれど碧にとってそれは紙切れ一枚の上に書いてあるただの模様にしか思えなかった。


 次に父親は、ベルリンの壁だとか街並み、建物や駅や電車とかの写真を見せてくれた。


今から暮らすかもしれないその国にも、たくさん人が住んでいることを知った。


 そして最後にドイツが舞台の映画をみせてくれた。難しくてストーリーはよく分からなかったけれど、日本とはまるで違う暮らし方を目の当たりにして、感動した。まさに百聞は一見にしかずというやつだ。もっとこの街のことを知りたいと思った。


 けどその時はまだ高尚な理由なんかなくて、なんとなく楽しそうだったからという好奇心だけが、碧を突き動かす外国行きのパスポート代わりになっていたんだと思う。


 まだ幼いから分からないだろうと息子の人生を勝手に決めてしまわずに、あたまごなしに否定せずに、きちんと自分の生きたい道の選び方を教えた上で意志を確認してくれた両親の存在は、間違いなく碧の人生に誇れるものだ。


 移住が決まってからは、買ってもらった地球儀を毎日のように眺めた。勉強のためのドイツ語の絵本を何度もくりかえし読んだ。書いてあることは分からなかったけれど、それでも嬉しかった。


 いくつにも分かれて続いていく線路のその先を想像して、わくわくしながら自分の好きな道を選んで辿っていくような気持ちだった。


 ——そして出発の日、友達からのお別れの手紙と宝物だったサッカーボールをキャリーケースに詰め込んで、飛行機に乗り込んだ。




 次は学校に入りたての頃。


 移住して初めはよかった。日本にはない街並み、信号のかたち、改札のない駅。

 六年間暮らした東京とは何もかもが違う街。まるで長い長い旅行に来たみたいで、ずっとはしゃぎ倒していた。けれど……


『Du kommst aus Japan, oder? Wie viel Deutsch verstehen Sie?(きみ、日本から来たんでしょ? ドイツ語どれくらい分かる?)』


 学校で、壁はすぐに立ちはだかった。


 当たり前だが、碧は外国語なんか喋れない。日本でちょっとやった事前学習なんか、何の意味もなさないことを知った。誰ともろくに話が通じないことに焦りを覚え始めた。


 英語とドイツ語を同時に勉強しはじめたので、間違えることもよくあった。それでも英語はまだよくて、日本語とかなりかけ離れた言語体系のドイツ語は学校の放課後に本にかじりついてもなかなか覚えるのが難しかった。


 授業も聞くのだけで、せいいっぱい。友達もまともにできず、一人で過ごすことが多かった——公園で風に手紙をばらまかれ、困っているひとりの同級生の少年と知り合うまでは。


 拾った手紙は日本語で書かれていた。集めるのを手伝ってやると、日本人の母を持つのに日本語が話せないという彼に、こう申し出られた。


『Sie sind Japaner, nicht wahr? Bringen Sie mir Japanisch bei. Ich werde dir Deutsch beibringen.(君って日本人でしょ? 僕に日本語教えてよ。僕は君にドイツ語教えるから)』


 ジェスチャーを交えてゆっくり話してくれたから、言ってることは何となく分かった。どうやら互いに困っているらしい。


 これは千載一遇のチャンスだと思った。拙い言葉だが覚えたてのドイツ語で二つ返事をしたのを、今でもはっきり覚えている。


 その少年こそが、後の親友であるルカである。




 最後に八歳の頃。


 同じ欧州にある隣国、そのとある都市へ、地続きの列車で旅行することになった。偶然にも向かい合わせの席になった、ピアノが得意だという同い年の男の子と、友人になった。


 この出会いが、今後の碧の運命を別つことになる。


 そうして辿りついた、旅路の果てで碧は——


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