第76話 十七歳の海辺(2)
ほんの束の間の浅瀬の散歩を楽しんだあと、横抱きのまま海を出て、上の遊歩道と海岸とをつなぐコンクリートの階段にくるみをそっと下ろして座らせた。
碧はバッグからタオルを引っぱり出して跪き、数段上に座るくるみの小さな足をそっと包み込む。
まだ冷たい三月終わりの海に入ったからか、時々直にふれあうつま先はひんやりと冷えている。丁寧に水気を拭ってから見上げると、ぽーっとしているくるみと目があった。
じっと見ていると、くるみは我に返ったようにはっとして「……なんだか、至れり尽くせり」と呟きながらもじもじと両指を組み合わせる。
「いいよこのくらい。けど、ふくらはぎとその上は自分で拭ける?」
やや気まずいながら碧が言うと、くるみはぴたりと動きを綺麗に止め、口許をもにょりとさせてからタオルを受け取った。碧もけふん、と咳払いをしてから、羽織物を脱いでくるみの膝にかけてやる。
「僕は……あっち向いてるから」
幸いにも海水浴の季節じゃない事と平日なのもあり、浜辺には二人以外に人影はなかった。つばめ達もずっと向こうの方で今頃よろしくやってるんだろう。
衣擦れの音が収まった頃に振り向くと、身支度を済ませたくるみがファインダー越しに水平線を眺めていた。
「海って久々に来るとやっぱり楽しいな。くるみさんはどう?」
「ふふ……波が結構大きくて、きゃーってなっちゃった。けど、可愛い貝殻拾えたのはすごく嬉しい。明日の自分へのお土産にするの」
へにゃりと瞳を細め、まるで子供のように身振り手振りをする。その微笑ましい動きから目が離せない。
同級生が目撃したら妖精姫だと信じないか、三度見するくらいにはいつもの大人びた様相からかけ離れているが、碧は今の彼女が何より尊かった。
「それ、可愛い。学校でもやればいいのに」
「は、恥ずかしいからしません。子供っぽいし」
上擦った声で言い返された。
こんな可愛い仕草を見れるのも後二年間だけか、と思うと、苦い愛惜が喉に迫り上がる。
嫌な疼きに動きを止めていると、くるみは一転して心配そうな、何かを推し量るような表情でこちらをじっと見詰めてきた。
「……碧くん、何かあった?」
「え?」
「何だか様子が、いつもと違うと思って」
さっきの一件はせめて卒業まで気取られまいと心の引き出しに鍵をかけて押し込んだつもりだったが、感情の揺らぎは表層に出てしまっていたらしい。洞察力の高いくるみには気づかれていたようだ。
「私でよければ、話くらい聞くからね」
「いや。別にただ僕は——」
怒るでも哀しむ訳でもなく、くるみはどこか憐れむような慈しむような、複雑なものを仕舞いながらじっと見下ろしてくる。吸い込まれそうなほど美しい水鏡のようなヘーゼルの瞳には、どこか泣きそうにも見える自分が映っている。
多分、きっかけなんかないのだろう。
急な夏の通り雨のように、気づけば口火を切っていた。
「あの、さ。もし……もし僕が、嘘を吐いていたり隠し事をしていたら」
言いかけた言葉を呑み込もうとするものの、もう遅かった。こんなことを訊いてどうするんだ、と碧の中の誰かが警鐘を鳴らす。
しかし一度口を衝いて出た狡さや、身勝手や、弱音は……それだけじゃ止まってくれそうもないみたいだ。
「……それを知った時くるみさんは、どうしますか」
言ってしまった。
今目を合わせるのは、残酷なことに思えた。
息を潜めたなけなしの果敢さを寄せ集めて、主君への謀反を企てる騎士のように、傅いたまま数段上にいる少女の面差しをおそるおそる見上げる。
彼女は碧の問いかけの意図を推し測っているのか、少し驚いた様相で瞬きをしつつ、黙ってこちらを見ている。
返事など分かりきっていることだ。いっそ「おかしな碧くん」と笑ってくれればいい。そうしたらきっと全部をなかったことにして、いつもの自分に戻れるはずだから。
なのに敢えて答えを求めるのは、碧が、ただ勝手に縋りたいだけだから。
……いや、違う。
ただ、覚悟しておきたいだけなのだ。
どんなに遅くても二年後、このことは必ず白日の下に晒される。
それはどうあがいても動かせない決まりきった事実であり、予定調和だ。
だからこれはいつか辿り着く終点を覗き見するための予行練習のようなもの。読みかけの小説のページを後ろからめくって、僅かだけ先を見て安堵したいのに似た気持ち。
碧が嘘を吐いたと分かった時の彼女を事前に見て、受け身を取りたいだけなのだ。
もちろん、そんなことをくるみが知るはずもない。
文字どおりきょとんとしていた彼女は、何もかも知らないまま、しかしすぐに春風のように柔らかく頬を綻ばせた。
「そうね。碧くんは嘘が下手だからすぐ、表情に出ちゃうんでしょうね」
遠くから海を渡ってきた臆病風が、うずくまったままの碧を撫でていく。
丁寧に言葉を選んでいる気配が伝わってきた。
「けれどね。……もしそれが誰かのための優しい嘘なら、きっと私は気づいていない振りをするわ。碧くんがそうするのが一番だと思うなら、私はそれを暴こうとはしない」
想定と全く異なる回答に、導かれるように伏せた視線を上げる。
それからくるみは沫雪みたいに微笑んで、ふわりと瞳を細める。
「——だって私は、碧くんの嘘もひっくるめて、碧くんをまるごと信じているから」
初め、彼女が何を言っているのか分からなかった。
次に理解が及んでからは、どうして、と嗄れた声が喉につかえる。
どうしてそれほどまでに健気なことを言えるのだろう。そこまでの信頼と優しさを自分に注いでくれるのはどうしてなのだろう。それを享受する権利なんか、僕は持たないのに。
何故と尋ねると、くるみはうーんと考えてから言葉を選ぶ。
「どうしてって、積み重ねた結果だから。かな」
「積み重ねた……僕が、信頼を?」
「それもあるけれど。私ね、優しい人になりたいの」
何の脈絡もない言葉に碧は首を傾げるが、くるみは遠くの水平線を見つめながら、口遊むような調子で話す。
「人の行動には……誰かが何かをするのには意味がある。碧くんは今までも私に、たくさんの優しさを積み重ねてくれた。そんな碧くんが嘘を吐くなら、きっと譲れない大切な想いがあるからだって、勝手だけど私は信じているわ」
「それは……」
「もしそうなら私は、それを支えたい。碧くんに今まで貰ったのと同じくらいの優しさで、見守れる人になりたい」
どこまでも深い思い遣りを湛えた瞳が、まっすぐに碧を見据える。
「……」
返す言葉は、見つからなかった。
——だって、そう言えるくるみの方が僕なんかより、よっぽど心優しい人間じゃないか。
正直、真意は読めなかった。だが同時に、この少女だけはこれから先何があっても、冗談でも傷つけてはいけないと身に染みて認識を改める。
大切にしたいとか愛おしいとかいう思いは何度も味わったけれど。自分をここまで信じてくれる彼女を、自分が裏切ることは決してあってはならない。
嘘を暴く日が必ず来ようとも、この人だけは泣かせないように。
「……急になんだって思ったよね。こんな話して」
沈んだ空気を押し返すように、彼女がくすっと笑みを浮かべた。
「長く生きてればそういうこともあるんじゃない?」
「ねえそれ僕の真似だよね?」
「半年も一緒にいればよく言う台詞の一つくらい覚えちゃうわ。ね、碧くん、さっき拾った貝殻は?」
「それならここに仕舞ったけど」
手提げ袋を指差すと、優しく目を細める。
「私も空き瓶に貝殻入れたいな。せっかくだし写真以外にも思い出を残したい。いつか遠い将来に見返した時に、すぐ今日を思い出せるように」
「じゃあ帰りに瓶詰めのご当地プリンでも買って帰る? 駅前に専門店があったはず」
「……うん!」
碧の提案に、くるみは淑やかで甘くて瑞々しい花咲くような笑みを浮かべた。
〈優しい人になりたい〉
——この時の僕はまだ、彼女の落とした願いを、本当の意味で理解することは出来なかったのだと思う。
当たり前だった。互いに引き合った境界線の上を慎重に手探りしあって、伸ばしたゆびさきでなぞりあうような曖昧で焦ったい距離の縮め方をした僕たちには、まだ見せたことのない感情も、伝えたことのない言葉も、山ほどあるのだから。
きっとどちらかが目一杯の勇気を抱えて相手の世界に飛び込もうとしない限り、こんなにふわふわした泣きたくなるほどに愛しい関係は、不確かで覚束ないまま二年後まで終わりなく続いていくんだと思う。
もちろんそこに、互いを思い遣る〈優しさ〉が一番に備わるようにと、祈りながら。
お読みいただきありがとうございます。
そろそろ第二章も佳境にはいります!




