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第75話 十七歳の海辺(1)

 江ノ島電鉄で海の見える駅まで戻ったあと、買い物したショップバッグや貴重品をコインロッカーに預け、碧たちは近くの小さな浜辺に来ていた。


 夏になれば海水浴客でごった返すのだろうが、今はまだ春先なのもあって人はさっぱりいない。


 春空の下に広がる遠浅(とおあさ)の海は、夏のそれよりもずっと優しく穏やかだ。太陽もぎらぎら照らしてくることはなく、ここにいる四人の春を見守ってくれているようにすら思えた。


 木陰にスマホや鞄を置いて、靴下もぺいぺいっと脱ぎ捨てると、つばめが掛け声と共に海に走って行った。


「ひゃー!! 海だよ海!!」


「そりゃ海は海だろ。相変わらず騒がしいやつだな」


 そう大人ぶりつつ湊斗も柄になくうきうきしたようで、波打ち際に切り取り線みたいな足跡をつけて走り回るつばめを、心持ち跳ねた足取りで追いかけにいく。


 くるみはというと、普段なかなか見ないであろう海にヘーゼルの瞳をきらきらさせていたが、それだけだった。ぽつんと佇み、けれど自由に駆けるつばめを羨ましそうに見ている。きっとどうはしゃぐのが正解か分からないのだろう。


 碧も荷物を置いてから、くるみの肩をとんとん叩き、すぐそこの砂山の横を指差した。


「くるみさん見て見て。やどかりがいる」


「わぁあ……本当。可愛い」


 砂浜をとことこ歩くやどかりに表情をぱぁっと輝かせ、物珍しそうに目を丸くしてからそっと近づき、ぱちりとファインダーに収める。碧はそんなくるみの姿を焼きつけるように、そっと心の中の写真に収めた。


 一陣の風が吹き、ひらひらと紗のように透きとおるシアーカーディガンが木洩れ日のように陽光を落とし、砂浜の上に淡い影を華やかに重ねあわせる。方向転換したやどかりがくるみの方に向かっていったようで、びっくりしたのか彼女は小さな可愛い悲鳴を上げて尻もちをついた。


「多分やどかりの方がびっくりしてると思うよ」


 茶化しながら手を差し伸べるとくるみはむくれたように頬を膨らませてから、すぐ可笑しそうに笑って碧の手にしがみついて立ち上がる。


 コロコロと移ろう豊かな表情にまたしても見惚れてしまったが、芽生えたむず痒い気持ちを今だけは見ないふりしてから、ぱしゃぱしゃとスマホで海の写真をスマホで撮りまくるつばめに近づいてそっと耳打ちする。


「つばめさん、湊斗とふたりで向こうの海岸線でも散歩してきたら?」


「え! なっなっ何で!? ……あ、くるみんと二人きりになりたいのね!」


「あはは、分かってるじゃん」


 屈託なく笑って見せると、つばめも可笑しそうに笑った。


「意外と虎視眈々としてない? もっと鈍めな草食系かと思ってた」


「別に狙ってるとかじゃなくてただ二人で話したかったからだよ」


「ふーん。碧はご主人を喜ばそうとする犬みたいだけどなあ」


「あのね」


「……あっ湊斗、あっちにいいものあるって!」


 不思議そうにする湊斗の手を、言うだけ言ったつばめが早速引っぱって散歩に連れ出していったのを見届けてから、碧は砂の上の貝殻を拾い始める。


 騒がしさが遠のいたからか。フィルムカメラに夢中になっていたくるみが、つばめたちがいなくなっていることに気づいてきょろきょろと辺りを見渡す。


「あれ、ふたりは?」


「向こうのほうに散歩に行ったよ。くるみさんほら、貝殻」


 両手いっぱいに拾い集めた色とりどりの貝殻をからんころんと見せると、くるみの表情が雲の切れ目から差した光みたいに明るくなった。


「これは桜貝でこっちは巻貝。骨貝も探せばあるかな」


「可愛い……! いいな、私も拾いたい」


「こっち、海の中にもけっこうあるよ」


 裸足になって寄せては返す波の戯れに一歩踏み出すと、りんと冷たい三月の海が火照った(かかと)から熱を奪っていく。ぼー、と遠くからかすかに聞こえる汽笛と海鳥の鳴き声が、不思議と心を落ち着かせた。


 透きとおる浅瀬を覗けば、名も知らぬ魚が気まぐれに泳いでは、碧の生み出す波紋からふいと逃げていく。


 後ろからぱしゃぱしゃと控えめに波をかき分ける音が聞こえたので振り向くと、碧に倣って靴を脱いだくるみがロングスカートのたっぷりのドレープを両手で抱えて、よいしょよいしょと海の中を進んできた。


 時折わざと飛沫を上げるように、大げさに。そんな幼さを伴うはしゃぎ方が愛おしい。


「思ってたより冷たい」


「まだ春だからね。さっきこの辺に魚いたよ」


「本当? この辺?」


 ぱあっと表情が輝く。前屈みになって夢中で海の中を見つめるくるみを見守っていると、波が先ほどより大きく引いた。一瞬訪れる静けさに嫌な予感を覚える暇もなく、すぐさま反動のようにざぶんと打ち寄せてくる。


「くるみさん、大きい波——」


「え……きゃっ」


 忠告も遅く、可愛らしい悲鳴が聞こえるや否やくるみの足下が波にすくわれる。ふら、とよろけたのを碧は後ろから咄嗟に両手を伸ばし、抱きかかえた。


 ——ばしゃり。


 きらきらと水の珠を宙に浮かせながら、くるみの雪のように真っ白なつま先が、じゃぶんと海面を破って空へと踊り出た。


 急拵えな横抱きになったくるみは一瞬何が起きたのか分からなかったようで、ただでさえ大きな瞳をそれ以上に見開いてはぱちぱちと何度も瞬きをし、


「……!!」


 やがては状況を理解したらしく、落とされるのが怖くなったからか、堅く目を瞑って自ら碧の体にぎゅっとしがみつく。


 混乱の末に抵抗されたらどうしようかと思ったが、本人にそんな余裕はないらしい。必死に抱きつく彼女からぷるぷるとまるで小動物のような震えが伝わってきたので、若干申し訳なくなった。


「ごめん。危なく転びそうだったから、つい……」


「あ、ありがとう。……びっくりした」


 か細い声が波の上のフロートのように揺らいでいるのは、怖さからか恥じらいからか。


「心配しなくても、落とさないから大丈夫だよ」


 碧の声も、ほんの少し揺らいでいた。


 碧が優しく声をかけると、くるみはおそるおそる大粒の瞳を開き、ふたりの視線が十センチの距離で交錯する。


 互いの前髪どころか吐息すら絡まりそうな近さで、宝石のように美しい榛色の瞳はどこを見ればいいかが分からないのだろう、行き場を求めるようにきょろきょろと忙しなく彷徨っている。


 碧の方も目を逸らそうと何の気なしに彼女の足許に視線を向けて、それからちょっと後悔した。


 普段人目に晒されることのない真っ白なつま先が、波の上につんと伸びている。女の子らしく柔らかそうなのに引き締まったふくらはぎを、したたる海水がなぞっていた。


 波の押し寄せる潮騒(しおさい)の合間でかすかに耳に届くのは、ぽたぽた、ぴちゃりと雫の落ちる音。


 たくし上げられたスカートの裾が、はらりと太ももの始まりをすべる。たゆたう波の模様が太陽の光を跳ね返し、柔肌の上で、てらてらと揺らめいた。


 いつもは堅牢に隠されている場所だからこそ、ひとりの少女の秘密を知ってしまったかのような後ろめたさと、それでも目を惹きつけて離さない美しさが綯い交ぜとなる。


 抱き上げたまま突っ立っていると、くるみが片手でささっと乱れた裾を正し、遅れて訪れた羞恥と混乱をあらわにしながら忠告してきた。


「あ、あんまり見ないで」


「……ごめん。まだ波がけっこう荒いから、一回出る?」


 降ろそうとした碧を、くるみが「待って」と慌てて止めた。


「あのね……もし重かったら大丈夫なんだけど……少しだけ楽しくなってきたから、やっぱりあとほんのちょっとだけ、このままがいい」


 機嫌をうかがうように控えめに落とされたそれは、普段は言わないような小さくて可愛らしいわがまま。


 碧は可笑しくなって、つい笑った。


「お嬢様のお申しつけならいくらでも」


「……そういうの、ずるい」


 潤んだ上目遣いに、君のほうがずるいよ、と碧は心の中で呟く。


「くるみさんは綿菓子みたいに軽いからぜんぜん大丈夫だよ」


 もっと言えば重さがない上に柔らかく、ふとした瞬間に折れてしまいそうなくらい華奢だ。運動はこなせるので、どちらかというと引き締まってる、という表現が正しいだろう。


 自分にはない少女らしい細さは、丁重に扱わねばと思うし守らなきゃとも思うし、同時に何かの弾みで怪我をさせてしまわないかが心配だった。


「風が吹いたらたんぽぽの綿毛みたいに飛んでいっちゃいそう」


「ちゃんと掴んでれば飛んでいきません。……だから、絶対に落とさないでね」


「はいはい、仰せのままに。あっちの方とか行ってみる?」


 碧の言葉に、瞳を輝かせてこくりと頷く。彼女を抱えたままざぶざぶと歩き出すと、くるみは再び一瞬だけ碧にぎゅっとしがみつくが、今度は何かが吹っ切れて楽しくなってきたのか、くすくすと無邪気に笑いだした。


お読みくださりありがとうございます。

本日、11月7日は碧くんの誕生日でした!

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