第74話 カラフル(2)
店を出たあと、四人は小町通りを散策することにした。
小町通りは鎌倉でも一等目をひく有名な商店街で、真っ赤な鳥居をくぐれば、旅行客の多くがここで食べ歩きやら買い物を楽しんでいる。群衆のなかには、着物をきておめかしした女子も思いのほか多くいた。
「……ごめん。僕そういうのに疎くて気づかなかったんだけど、もしかして二人は着物きたかったりした?」
「へ? なんで?」
前もって分かっていれば提案の一つもできただろうに、と後悔しながら言うと、前を歩くつばめがきょとんとして振り向いた。
「いやつばめさんとかそういうの好きそうだし。映える〜とか言ってそう」
「うーんまあ映えるは映えるんだけど、動きづらいし。しかもこのあと海見に行くでしょ。それにほら、くるみんが和装なんかしたらただでさえ衆目を集めているのがさらに目立っちゃうじゃん? 悪い虫が寄ってきちゃうよ」
確かに彼女の言うとおりだった。普段はあまり意識せずとも、やはり彼女と外を歩くと思い知らされるのがその飛び抜けた麗しさだ。
前世は妖精界のお姫様だった、とおおほら吹いてもそれが冗談にならないくらい繊細な美貌を持っているゆえ、さっきからすれ違う十人中十人の視線がもれなくくるみに惹き寄せられている。
それだけじゃない、時折洩らされる羨望のため息やら感嘆の声まで聞こえてくるので、まるで自分まで見られていると錯覚しそうになる。
いや、正しくは見られた上で値踏みされて笑われているのかもしれないが、いちいちそんなことを気にしていては彼女の隣には立てまい。
「……まあ虫は、ここにいる誰かさんが払ってやればいいだけの話なんだけどね?」
わざと碧にだけ聞こえるようにささやかれたつばめの言葉は、知らんぷりしておいた。
隣のくるみが穏やかに首を振る。
「人の視線を浴びるのは、慣れているから平気。けれど今日は、みんな私のことだけを見てるんじゃないと思うけれど。つばめちゃんすごく可愛いし、それに……」
ちら、とこっちを見上げようとするところで湊斗がへらっと笑う。
「まあつばめもある意味では有名ってか人気者だし、黙ってれば美人だしな」
「湊斗それふつーに失礼だからね!?」
つばめはくるみに謎の目配せを残し、談笑しながら二人は先に進む。
道が狭いから仕方ないと思いつつ、何故かかちりと時が止まったように動かずにいる隣の彼女に手を差し伸べた。
はぐれないためだとか、虫が寄らないようにだとか、そういう口実も込み込みで。
「ほら、お手をどうぞ。お嬢様」
「どこでそんな台詞覚えてきたの?」
「僕の妹が好きな弥生花伝サクラって漫画に出てくる従者が言ってた」
「なにそれ。……ふふ、碧くんって妹さんと仲いいのね」
喉を鳴らし、くるみはおそるおそる碧の掌に小さなゆびさきを重ねてきた。大切な宝物を扱うように白くて華奢な手をそっと握れば、くるみも辿々しく指を絡めてくる。
ひんやりして、頼りない。そんな彼女の指とつないだ自らの左手を思いながら、しかし先刻の一幕については思い出さないようにしていた。
——いつかこの手を握るのは、きっと僕じゃない。
慎ましやかで心優しくてあらゆる才能に恵まれた、気高い少女。凛々しく咲き誇る高嶺の花。そんな彼女の隣にいるべきは本来、碧じゃない。今はいなくても、くるみにはくるみに相応しい相手がいつかきっと出来るのだろう。
今はただ隣に座る仮の権利を授かっているだけで、いつか返さなければならない。日本と外国で……文字通り住む世界が違うから。今はただ、二年間限定の幸せという名の回数券を、毎日一枚ずつちぎって捧げているだけ。
日に日に自覚しつつあるくるみへの気持ちにもういまさら聞かぬ振りも見ない振りも出来そうにないけれど、かといって自分に状況を打開できる力はないことは分かっている。
今出来るのは、ただ白々しい嘘をついて隠し通すことだけだ。
「えっ二人とも手つないでる!?」
待っててくれた幼なじみ組に追いつくと、碧たちを迎えたのは、動転したつばめによる鋭い糺問だった。秘密を知る彼らには、もう隠すことはしない。
「ほら、人混みすごかったから」
「あーそうね! そゆこと! ……てっきり一歩進んだのかと」
「何か言った?」
「ううん何でも!」
小町通りを進み、四人はたっぷりと買い物を楽しんだ。
というよりは女子二人組が楽しげにショッピングをするのを男二人がぼーっと見守ることが多かったのだが、湊斗の前でも徐々に隠しきれなくなってきたくるみのるんるんと楽しそうな様子を思うと、何時間でもつき合える気持ちだった。
今までは自分だけが独り占め出来ていたので、ちょっぴり面白くない気持ちもあったけれど。
買い物するすがら碧がいつもくるみを送る時にしているようにさりげなくショップバッグや荷物を奪うと、つばめにおぉと瞠目し唸られたので、そっちも湊斗に持ってもらえばと冷やかしの言葉をかけておいた。つばめは思いの外に初々しいはにかみを見せていたので、おそらく仕返しの言葉としては十分だっただろう。
そうして午後のおやつの時間も近づいてきた頃。
「そろそろ歩き疲れてきたし、なんか冷たいものでも食べない?」
つばめの発案に、碧とくるみも頷いた。
「賛成」
「まだ春なのにやたら暑かったものね、今日」
「うんうん。天気予報見てちゃんと涼しい格好してきてよかったって思う」
「ちょっと前はコートが手放せなかったのに、天気は気まぐれだよな」
「ほんとねー。誰かさんの淹れるコーヒーの味みたい」
「おいこら誰のコーヒーが毎日味ぶれぶれってか」
掌の上で硝子玉を転がすようにころころと笑ってから、つばめの瞳が街角のジェラテリアを捉えた。
「あそことかどう? 確か雑誌にも載ってる人気店だよー」
近寄ってメニューの立て看板を見下ろすと、なかなかどうして珍しいフレーバーが揃っていた。カップ一つで二種類のジェラートを選んで組み合わせるらしい。
「なんかお洒落だな。ていうかアイスと何が違うんだ?」
「……さぁ? まあ美味しければいいんじゃない?」
二人の掛け合いを聞きながら、前に『ローマの休日』を観た時のことを思い出す。スペイン広場でジェラートを食べるシーンだ。白黒なのになぜかすごく喉が鳴った記憶がある。
「くるみさんは何にする?」
「私は木苺のブランマンジェ&オレンジバニラマスカルポーネにしようかな」
体に染みついたレディファーストの要領で先に選ばせると、くるみからは如何にも彼女が好きそうな優しい甘さのセレクトが返ってきた。
「くるみさん甘いの好きだよね。僕はミルクバニラ&ヘーゼルナッツティラミス。……あの、よければだけど」
「味見ほしいんでしょ? じゃあスプーン二つ貰いましょうね」
先読みしたくるみに頭が上がらずにいると、つばめが「へッ」みたいなかんじでほくそ笑んだ。それがなんだかむかついたのでべちっとつばめの肩を小突いていると、湊斗もメニューを決めたようだ。
「俺は黒蜜きなこ&紅芋ミルフィーユ」
「和だねえ。うーん、私はココナッツパイン&みかんヨーグルトかな。……こうして注文すると分かるけれど、うちら本当好みわかりやすいっていうか綺麗に別れるよねー」
「誰かと好きな相手かぶったことが分かる修学旅行の夜とか地獄だもんな」
「つばめさん、ここに一人アイス届いてもないのにもう寒そうな顔してるやついるけど」
「ん? 湊斗のジェラートも私が代わりに食べといてあげようか?」
「どうせなら羊羹味とかのり塩味とかやばそうなの選んどけばよかった」
「そんな味はこのお店にありません」
注文と会計を済ませて待っている間、つばめがくるみの手の中のフィルムカメラを見て訊いてきた。
「わーインスタントカメラ? いいね! スマホのより撮れ味がレトロで可愛いんだよね。今日のために買ってきたの?」
くるみは大切そうにカメラを持ち上げる。
「このカメラは碧くんからお返しで頂いたものなの。ついこの間にね」
その言い方だとホワイトデーの返礼なのは邪推できてしまうが、つばめはそこは拾わずに他のところに興味津々だ。
「なになに? どうしてカメラなの?」
「えっと、実は……」
彼女が経緯をかいつまんで述べると、つばめは俄然乙女っぽい反応を見せた。
「え、それでこのフィルムカメラってこと!? エピソード可愛すぎるでしょ〜〜♡」
それからくるりと碧の方を振り向いて、
「愛って感じ……♡」
「照れるからやめて」
「ねぇ、そう言いつつ真顔じゃん!!」
一人で散々盛り上がった末に、心底羨むような眼差しをくるみに向けた。
「そっかぁ、くるみん大切にされてるんだねえ……」
大切にされている……そんな言葉を否定することなく、くるみはあどけなさを見せながら「うん」と淡く笑って頷き、碧はどきりとしてしまう。
——僕は、この笑みを守れたんだろうか。
番号を呼ばれたので、注文したジェラートを受け取る。入れ違いでつばめと湊斗が受け取りに行った。陽だまりのようにぽかぽか温まる心のまま、木のスプーンでアイスをすくって早速くるみの方に差し出す。
「ほら、ひとくちどーぞ」
「わぁ……ありがとう。……うん、冷たくて美味しい」
さすが有名店なだけあり舌の出来が繊細なくるみでも満足できるお味だったのか、ふにゃっと甘やかに頬を綻ばせてくるのがこの上なく可愛らしい。
ただ、一つ問題があるとすれば——差し出したスプーンをそのまま、ぱくりと小鳥のひなのように口に含んでいること、だろうか。
というか、かなり大問題。動転で危うくスプーンを落とすところだった。
幸せそうに甘味を堪能しているところに水を差すのは申し訳なかったが、さすがにきちんと物申しておかねばならない。
「くるみさん」
「?」
「僕あーんしたんじゃなくてスプーン渡しただけなんだけど」
平淡を心掛けた口調で言うとくるみは一瞬何がと言いたげに目を丸くしてから、すぐに碧の言葉を呑み込んだらしく、見る見るうちに一斤染の嵩を耳のあたりまで昇らせた。
おろおろとスカートの裾をきゅっと掴み、潤んだ瞳を石畳へと落とす。
「……その、ごめんなさい」
「いや……僕もごめん。もうちょっと気をつけてればよかった」
恥じらいからヘーゼルの瞳を涙で彩り、頬を染めつつも自らの失敗にしゅんと落ち込んだようにうつむいてしまうので、碧も強くは言えず追及を止めてしまう。
第一、くるみだけが悪いとも一概に言い切れなかった。前に成り行きで一度あーんしてしまったことがあるし。
「最近のくるみさんって緩いよね。前はあんなに警戒……ってか、隙がなかったのに」
「う……」
「この調子じゃいつか悪い人に絡まれちゃいますからね。僕がなんとか出来るっていっても限界はあるんだからさ」
するとそれには異議を唱えたいらしく、くるみは恥じらいの色を未だ頬に残しながらも、おずおずと碧を見上げて言った。
「そ、それは大丈夫」
「どうして?」
よほど言いづらいのか、両手で口許を隠しぷるぷる震えながらも、視線は合わせずに逸らしている。小動物のような仕草が微笑ましくて、つい撫でたくなっていると、返事が来た。
「だって……私が隙を見せてるのは、あなただけだから」
彼女の言葉が自分に向けられたものだと、理解をするのに数秒かかった。
そして碧が虚を衝かれている間にパステルミントのカーディガンは逃げるようにひらりと離れ、裾を蝶々の羽のようにひらめかせてからジェラートを受け取りに行ってしまう。
「……どういう意味なんだ今の」
自分の頬にも生まれた熱を冷まそうとティラミス味を木のスプーンですくって舌に乗せると、想像していたよりもずっとずっと甘く、それでもほんのちょっとのほろ苦さを後に残しながら、染み入っていく。
くるみの言葉が焼きついた故の甘ったるさにぼーっとしていると、戻ってきた湊斗とつばめに訝しげな視線を向けられた。
海の近くの街でわいわいと四人で過ごす三月終わりの午後は、どこまでも賑やかに、ゆっくりと過ぎていく。
全員のカップが空になった後、インスタントカメラでみんなの写真を撮った。
ぱちり、とシャッターが切られる音が閃き。
一度しかない高校生一年の終わりの春が、色褪せないように切り取られていく。
かけがえのない今を、いつまでもカラフルなままで残しておくように。
ふと、思った。
お菓子の缶に眠った、その懐かしい写真を見つけた時。
——十年後の自分たちは、一体どんなことを思うだろうか。




