第70話 Fluffy girl's night(3)
ひとりぼっちで過ごす夜は久しぶりだった。
くるみは今日予定があるためうちには来ない。最近の放課後は毎日のように訪問して料理したり一緒の時間を過ごしていたから、がらんとしたリビングにいるといつもよりずっと広く感じる。
日本に来てまだ間もない、一年前の春を思い出した。
幼い頃は四人で暮らしたこの家に独りきり。あまり人肌を求めないというか、独りでも全くもって平気な方だが、ふいに寂しさを覚えることはある。普段なら「自分も生きてるんだな」と地味に嬉しかったりするが、あの頃は寂しさより虚しさが強くて、気持ちの埋め合わせをするように美術室に残ったり湊斗の店に足繁く通ったりしていたっけ。
なんて感傷に浸りながらくるみの作り置きである大根のそぼろ煮と、じゃがいもの粒マスタードサラダに舌鼓を打って夜の公園を当て所なく散歩し、帰ってシャワーを浴びベッドに横になった。
天気を確認すると、明日の鎌倉は晴天。すっかり暖かくなって春日和だな、なんてやがて訪れる楽しい一日を思い描きながらスマホの目覚ましを設定し、サイドランプに腕を伸ばす。
——とその時、ぶるぶるとスマホが震えた。
湊斗が明日の集合時間ど忘れしたのかな、と思いながら画面を見ると、
「……なんでビデオ通話?」
そこにあったのはつばめの名前だった。
しかも画面にはカメラのマーク。
正直寝る前だったのになとうんざりしたところはあるが着信音がうるさいので、この間勉強会でどんな会話が行われたっけだとか、今つばめがどこにいるだとか、そんなことは一切何も考えずに渋々通話の応答ボタンを押した。
『やっほー碧』
映し出されたのはにこにこと笑うつばめのアップの姿。本人には申し訳ないのだが、なんていうか絵面がうるさい。
「こんな時間に何ですか?」
『ふっふっふ。何だと思う?』
「それ面倒なやつ。切っていい?」
通話終了ボタンに指を伸ばしかけたところで、またもやつばめの含み笑い。
『そんなこと言っていいのかな? ここに碧が喜ぶものがあるんだけどなあ』
「何ですかそれ。十年パスポート?」
『碧って本当に華の男子高校生なの?』
海外旅行の必需品かつ碧の歳では手に入らない故に喉から手が出るほど欲しいものなのだが、伝わらなかったらしい。
つばめは若干呆れたようにそう返してから、一体何を映すつもりなのか腕を伸ばしてスマホのカメラを遠ざける。うんざりしつつ、何気なく画面を見た碧だったのだが。
「……え」
手にした小さなスマホの画面にあまりにも可憐な姿が映っていたので、まるで花に吸い寄せられる蜜蜂のように思わず目を奪われてしまった。
「かっわ……」
咄嗟に洩れ出た声を堪える。
つばめの隣にいたのは、二匹のウサギさんだった。
否、どこか恥じらいある表情をした夜着姿のくるみだった。
湯上がりだからか癖がつかないようシルクのシュシュで、髪を耳の横で緩く二つに結んでいる。以前あげた垂れ耳ウサギのぬいぐるみを膝の上に抱きしめている様はまるで垂れ耳ロップイヤーの親子のようで、あまりの可愛さに呻き声を上げそうだった。
ふたりして仲良く白いシーツの上に並んで座っているのを視認してようやく「ああそういえば今日二人でお泊まり会するって言ってたっけ」と理解が追いつく。
柔らかなベッドの上に沈み込みつつぺたんと女の子座りしているくるみの夜着は、銀糸で縫われた眩い純白のワンピース。いわゆるお嬢様めいたネグリジェだ。
袖や丈は長く、裾の豊かなフリルやあしらわれたレースが人形のように細いくるみの足首をふありと覆い隠しており、彼女の儚げな印象にこれ以上なく似合っていた。絹や紗を思わせる布はかろやかだが、肌が透けるようなことはなく、むしろ気品や清楚さを引き立てている。
ネグリジェという格好は正直今まで見たことがないのだが、本物の西洋人形のようで、妖精姫のあだ名に恥じず驚くほどに可愛らしかった。何を着せても一級の可憐さになるのだから美少女というものは恐ろしい。
『こんばんは、碧くん。……碧くん?』
やや眠たいのか、普段よりおっとりしたくるみがどこか恥じらった様子で小さく手を振る一方、碧は惚けたあまり黙り込んでいると、つばめが画面の中で首を傾げた。
『あれ、ちゃんと見えてる? なんか画面固まってない? 通信制限?』
「……あ、ごめん。なんかちょっと電波悪かったみたい。けどうん、見える」
ようやくはっとして再起動に成功。何とかごまかしを織り交ぜつつ返すと、つばめがてへっと舌を出して言った。
『あ、よかった。てっきりくるみんにすっかり見惚れてたんじゃないかなって思ってた』
図星だったものだから思わずぐうと呻いてしまったが、ビデオ通話なので余計な音声を拾わないのが僥倖だった。つばめが妙なところで鋭いのは、幼なじみである湊斗とよく似ていて厄介だ。
ちなみにつばめはジェラートピケのもこもことした空色のパジャマを着ており、こっちもこっちでかなり似合っている。定番ではありつつも女子高生のお泊まり会というシチュエーションにはこれ以上なく正解に思える格好だ。
僕じゃなくて湊斗に見せればいいのに、と思ったが。
「ところで何でビデオ通話なの?」
『紆余曲折あったみたいな』
「??」
『私がせっかくのお泊まり会だし誰かにビデオ通話かけて実況しようよって言ったら、くるみんが〈するなら碧くん以外は嫌〉っていうから』
「え……」
『つばめちゃん?!』
碧が驚き呆けると同時にくるみも慌てた声をあげて、これ以上喋らすまいとつばめの肩を必死にウサギでぽすぽす叩く。が、つばめには一切効いていないようで、むしろくすぐったそうに身を捩っては、ころころと楽しそうに笑っている。
『ごめんごめん、冗談。ほんとはね、私が碧にかけようって言い出したの』
「……それなら湊斗にしておけばいいのでは?」
『湊斗はさー。なんていうか……恥ずかしいじゃん?』
「僕にもその恥じらい持っててくれませんか?」
碧がずばっと切り込むと、つばめは苦々しげに笑った。好きな相手にはなかなかぐいぐいいけないあたり、なんだかんだ彼女も乙女らしい。
「……くるみさんも、嫌なら無理してつきあわなくていいんですからね?」
『やだなー。くるみんは優しいから私の提案に乗ってくれるんだよ。ねーくるみん?』
『うぅん……えっと……』
つばめがわざとらしく片目を瞑ると、その隣で、くるみは何か言いたげにしながら伏目になった。睫毛の長さが強調され、お風呂上がりで火照ったと思しき肌の血色も相まって、清楚なのに恐ろしいほど色香がある。
いつもより何故だかしおらしい様子に碧も己の頬に熱がこもるのが分かったが、つばめに無理につきあわされてるとなったらさすがに放ってはおけない。
「つばめさん、くるみさんのこといじめて脅したりなんかしてないでしょうね?」
『何それひどか! いい子ちゃんな私がそんなことするはずないじゃん』
「本当のいい子は自分で言うものじゃないと思うんだけど。くるみさんも照れ……ごほん、調子悪そうだし、ビデオ通話じゃなくて普通にグループトークでもいいんじゃないかな。ていうか僕にそういう姿見せるのも嫌でしょ」
くるみはいいところのお嬢様であり、人前に晒さぬべき姿はとことん見せようとしない。だから、そんな彼女のネグリジェ姿を碧が——言うまいが幸運にも——見れたのは間違いなくつばめのおかげだ。
けれど嫌々つきあわされているのだとしたら、それは本来碧が見てはいけない姿のはずなのだ。くるみの可憐な寝巻き姿が見れなくなるのはちょっと惜しいが、彼女だって、恋仲でもない男に無防備な姿を見せたくはないだろう、と思っての発言だったのだが。
『あのっ碧くん、そういうんじゃないの。本当は……』
慌てて口を挟んだくるみが、何かを言いかけて言葉をつかえさせる。何を言うべきか迷っているようで、次の言葉を探すそのすがら、蕾が花咲くようにゆっくりゆっくりと紅潮していくのを碧はただ見守ることしかできない。
しかしもう堪えきれないといったところで、ぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめ、花のかんばせを隠してしまう。それをつばめがよしよしと宥めてから、レンズ越しに胡乱げな視線を送ってきた。
『……碧って本当に男子高生?』
「なんで貶されたの僕」
はぁと大きなため息を吐いた。
「いやもう、言いたいこと何となく分かったから言うけど……僕たちそういうんじゃないから。くるみさんが嫌がる」
『ほら出た! ほんとそういうとこー! 罰として碧の恋話聞かせてよ!』
「通話切ろうかな」
『待って待って切らないで!?』
意中の人とは言い切れなくとも確実に好意を寄せている女の子の前で好みの話をするなど荷が重い。が、ここで逃げてくるみに情けないと思われたくもないし、何より今逃げる事自体がある意味、好きを暗示した決定的な回答のようなものである。
が、ここで碧にとっての僥倖。
ふと件の少女を見た時、くるみが振り子のようにふらふらと上体を揺らしていたのだ。
『くるみん?』
「あー。もう眠いんじゃないですか」
ちらっと時計を見るともう十一時半。真夜中と言っても差し支えない頃合いだ。規則正しい早寝の習慣がついているくるみは普段であればすでに寝ている時間なのだろう。
碧とつばめ二人して優しく見守っていると、うとうとから現に天秤を持ち直したらしいくるみが視線に気づいたらしく、夢見るような光を湛えたヘーゼルの瞳をゆっくり持ち上げる。
『…………あ、ごめんなさい。ちょっと眠気が……』
内心で助かったとくるみに感謝したのはここだけの話だ。
「明日も朝早いんだし今日はもうお開きにしませんか?」
『そうだね。くるみんごめんね遅くまで付き合わせちゃって』
『うん……分かった。おやすみなさい、碧くん』
『碧おやすみ! 明日遅刻しないでねー』
「しないよ。また明日」
そう締めくくり名残惜しくも通話終了ボタンに指を伸ばしかけたところで、画面の向こうで夢見心地に微睡むまま、ふわりと淡く笑みを浮かべたくるみが小さく手を振り——。
〈今度はふたりでしようね〉
声は届かなかったものの、くるみの口の動きが確かにそんないじらしい言葉を碧に伝えてきた気がした。そのまま通話は途絶え、暗転したスマホ画面には間抜けに驚く自分の顔が映る。
「……なんだ今の」
力が抜けたせいでスマホはするりと掌を抜け出し、ベッドの上で一度跳ねてから静止する。一気にどくどくと高鳴り始める鼓動がうるさくてすぐに寝つける気がしない。
「……いつも何であんなに僕のこと、どきっとさせてくるんだろうな」
確かくるみはドイツ語に興味あったっけ、と思い出す。
ベッドを離れると机から新品のキャンパスノートを取り出して封を切り、ペンを片手にドイツ語学習ノートを書いてみることにした。
眠れる夜が見つかるまでは、まだ少し時間がかかりそうだったから。




