第67話 ホワイトデー(3)
「……僕からももう一つ。ほら、前に言ってたおまけ」
おかげで何の締まりも捻りもなくただ残りの紙袋を渡す羽目になったのだが、くるみは気づいた様子もなく受け取り、幻視の花をぽわぽわ飛ばした。
「わぁ、インスタントカメラ。なんだかレトロで可愛い」
「年末の片づけで発掘した。これで写真撮ればデータじゃなくて形に残るし、スマホより味がありそうだし。思い出たくさん残すといいよ」
「私の気にしてたこと、覚えてくれてたんだ」
「くるみさんには、今じゃない時間を憂いて目の前の幸せを見逃すようなことはしてほしくないからさ。存分に有効活用してください。僕も家族とはなかなか会えないし、この一年あんまり写真撮ることなかったから、たまには一緒に写してもらえたら嬉しいな」
「家族……」
鈴のような声で小さく呟いてから、ヘーゼルの瞳にカメラを物珍しそうに映す様をみて、ようやくいつもの調子を取り戻した碧は小さく笑った。
勉強会の時に四人でふんわり計画をしていた海へのお出かけが、春休みに入ってすぐに予定されている。早速カメラを活躍させる場としては打ってつけだろう。
「そのカメラを持って、毎月の終わりとかにでも現像しに行くといいよ」
「……うん。ね、これどうやって使うんだろう? ここがシャッターかな……あ」
「!」
ぱちり、と視界に奔る閃光。思わず瞑った目蓋をそろそろと持ち上げると、くるみがあせあせと慌てていた。
眺め回しているうちに間違って押してしまったみたいで、碧に向かってフラッシュが焚かれたらしい。さすがに今のは抗議をしたいところだ。
「ねえ待って! 今僕、ぜったい間抜けな顔してた。恥ずかしいし消しといてください」
「う、うん。どうやって消せばいいの?」
数秒の沈黙。
自分がそれこそ相当間抜けなことを言ったことに気づき、穴に入りたくなった。
「そうか。一回撮ったら消せないのか。……贈っといてなんだけど不便だな」
「いいじゃない、写真残っても。碧くんはわりと……格好いいんだから」
おもむろに伸びた白魚の手が碧の前髪を優しくかき上げる。くるみはこちらの隠し立てのない面差しを観察したいらしい。
「別にそんなことないと思うけど。告白の一度もされたことないし」
「海外は格好いいの基準が違うからじゃないかしら? だってこんなに……」
くるみの透き通ったヘーゼルの瞳には、所在ない表情の自分が映っている。美少女にじーっと見詰められるのは何とも言えぬ居心地の悪さがあったので、ごまかすためにこちらも彼女の頬にかかる横髪を小指で払い、頬を掌で包む。
「言われ慣れてるだろうけど、くるみさんの方こそすごく可愛いじゃないですか」
真っ白な輪郭があらわになるのを見て改めて気づいたのは、くるみは可憐と上品と清楚の概念をそのまま具現化させたような稀代の美少女だということ。
雪の結晶で出来ていると表現してもいいほど儚げで端正な面差しは、何時間だって眺めてられそうだ。
しかし見詰め合うこと数秒。くるみが己の大胆さに気づき、ばっと離れた。
「で……でもっそういう不便でアナログなところが素敵だと私は思うな。記念の一枚目、現像するのが楽しみ。早く月末にならないかな」
「そこはかとなく喜んでません? 僕は気が重いけど」
「今日を記念に残す、大切な一枚ですもの」
「こんな何気ない一日も大切って言える、くるみさんが素敵なんだよ」
調子を取り戻したらしいくるみは不思議そうにこてんと首を倒す。
「そうかしら? 前からカメラロールには碧くんから届いた写真は全部フォルダに保存しているし、別にいまさら……あ」
「写真を保存?」
調子、取り戻せていなかったらしい。
「待って今の、聞かなかったことにして!」
信じ難いことを言われ、耳に入った衝撃の情報を捌ききれずに固まっていると、己の失言に気づき一瞬で一斤染を立ち昇らせたくるみが、涙目になりながら乞うように見上げてくる。
「…………ごめん。もう聞いちゃった」
「わ、忘れてよ! 今すぐ!」
必死に訴えかけながら拳でぽこぽこ叩いてくる。普段は本当に高校生かと思うほど大人びているくせに、不意を突かれたりうっかり失言をした時のくるみは驚くほど子供っぽく、可愛らしい。その宝物庫の迷宮のような謎めいた矛盾が、碧の心を時にざわつかせる。
「そんな難題やめてくださいって」
「だってだって、送られた写真を保存するって、まるでいつもその人のこと思い出したいからみたいじゃない!」
「悪いけどそれ語るに落ちてない?」
余計なことを言ったなと思ったのは、くるみの紅潮がより鮮やかになったからだ。
「ち……違います! ばか」
照れ隠しに八つ当たり気味に猛攻してくること自体も、可愛らしい罵倒の言葉さえも、今の碧にはくすぐったすぎて。
ゆるく握った拳をぽすぽすと打ち込んでくる悪戯者の両手首を掴んで止めると、くるみは「はぅっ」と息を洩らして固まり、逃げ場のない状況で猛烈な熱を頬に溜めながら無言でうつむいてしまった。
「……」
自分から仕掛けておいてなんだが、掌に伝わる彼女の体温すら気持ちを揺り動かしざわめかせてくる。このままでいると互いに意識しあって居た堪れない空気になるのが目に見えたのでそっと放してやった。
さっきからどうも空気が甘ったるくて、困る。
解放された途端くるみはそそくさと離れ、腕にふわりと巻きつけていたショールを引き上げ、恥ずかしさに堪えるようにぷるぷる震えながら口許を隠している。
それだけならまだよかったのだが——失敗だったのは、それをじっと眺めてしまったことだろう。そして見つめられていることに気づいたくるみの恥じらい具合が頂点に達したのは、言うまでもなかった。
「——私帰ります」
急に立ち上がるや否や、堪えかねたように脱兎の如く逃走し、リビングを出て行こうとする。
「え!? ちょっと待——」
丁度一ヶ月前にも似たようなことあったな、と思い出しつつ慌てて立ち上がるが、結論から言うとくるみを追いかける必要はなかった。
前回と違うのは、本気で振り切ろうとした訳じゃなく言い残したいことがあるようで、リビングと廊下をつなぐ扉の隙間からまるで下手な隠れんぼをしている子供のように可憐な相貌をちょこんと覗かせているところだろうか。
「ねえ、碧くん」
「ん?」
「……私はあなたのこと、家族のように大切に思っているから」
恥じらい一杯に眉をへにゃりと下げ、白い頬を淡く紅潮させたくるみは上目遣いでそれだけ言うと、ドアはぱたむと閉じられ、ぽすぽすという足音だけが遠ざかっていった。
家族となかなか会えない、という身の上を気遣われていたのだというのはすぐに分かった。だが、それにしても今の発言は——
「……そういうの反則だと思う」
彼女の意図を教えてくれと言わんばかりに、箱からスマホケースを手に取る。
すると指先にかさりと紙らしきものがふれた。何かと思えば、下に隠れるように入っていたのは花柄に彩られた一枚の小さなメッセージカード。
〈これからも碧くんがありたい自分でいられるように、願いを込めて〉
女の子らしく几帳面な文字で綴られたのは、そんな短い一文。だがそれだけでも、丁寧な筆跡に込められた気遣いや真心みたいなのは存分に伝わった。
——本当、この子は。
今さらなことだが、碧は言うまでもなくこの少女が好きだ。
〈愛おしい〉という感情が、一番初めに芽生え、それは抑え切れないくらいに大きくなっていった。それだけじゃない。可愛いと思うし綺麗だと思うし、大切に守ってやりたいとも思う。この気持ちは、多分辞書を引けば五秒足らずで正体が分かるんだと思う。
けれど、まだこの感情に名前を与えてはいない。
互いの今の立場と、いつか道を違えると言う事実が、それを許さなかった。
少なくとも同級生以上と呼べる確実な好意と愛情はあるが、大好きだと脇目も振らず叫べるような慕情があるかも分からない。彼女の隣に立つ覚悟はないが、独り占めしたい気持ちはあるのに。
いつか、分かる日が来るのだろうか。
何かを確かめるように窓の外を覗くと、先日降った、おそらく今年最後であろう名残の雪が路傍に積もり、麗らかな日差しの下でただ解けゆく時だけを待っている。
並木の白木蓮は蕾を並べ、近くで蝶々がひらりと舞った。
今年の春は妖精姫が連れてきたのかもな、と柄にもなく思った。
ご覧いただきありがとうございます!
ずっと温め続けたネタ(カメラのお話)がやっと出せました。




