第58話 甘えたい前夜に(1)
なにが正解なのかも分からないまま逡巡してろくに夜も寝られないまま、碧はうつらうつらと舟を漕ぎつ学校の授業をやり過ごしていた。
——今すぐ考えなくてもいいんじゃないか。まだ残り二年もあるのだから。
結果碧が考えだしたのは、そんなありふれた逃げ道だった。
何も今すぐに答えを出さなければならない訳でもない。
気怠い気持ちのまま迎えた昼休み。事は、碧がキャンパスの芝生に囲われたベンチでワイヤレスイヤホンを嵌めてテイラー・スウィフトの『Fifteen』を聴きながら、昼食をとっている時に起こった。
くるみの作り置きを詰め込んだ宝箱みたいな弁当に幸福な舌鼓を打っていると、
「……くん。碧くん」
「!」
初めは空耳かと思った。
だが振り向くと、ベンチの後ろから覗き込むように首を傾げる亜麻色の髪の可憐な少女——碧の逡巡の渦中にいる人がまぎれもなくそこにいた。
イヤホンを外して慌てて周囲を見渡すが、幸い人の気配はなくほっと胸を撫で下ろす。学園の外でだけ秘密の交友を持つ彼女とキャンパスでも……というのは、まるでバイト先に友人が来た時のように気恥ずかしい。
「くるみさん? 学校で話しかけてくるなんて珍しいね」
「偶然見かけたから。この辺人少ないし、別に本当の関係がばれる訳でもないし、少しくらい良いかなって。それにいくらなんでも放課後じゃないと話せないなんて不便よ」
「……そのために文明の利器があるのでは?」
碧がポケットから取り出したスマホをちらつかせると、くるみはむっと瞳を細める。
「碧くんのばか。学校で話しかけちゃ駄目って言いたいの?」
「別にそう言う訳じゃないけど。あ、ところで用事は?」
「ごまかされた気がするけど……まあいいわ、実は碧くんに折いってお願いがあるの」
「お願い事?」
甘え下手なくるみから頼まれ事なんてあまりに珍しい。というかほぼほぼ初めてじゃないだろうか。と、密かに嬉しくなりながら次の言葉を待っていたのだが。
「えっと実は……つばめちゃんからバレンタインだからお菓子づくりを教えてほしいって頼まれていて。うちは厳しいしつばめちゃんの家もお兄さんがいるみたいだから、もし出来ればでいいんだけれど碧くんの家のキッチンを使わせてほしいの」
「それ、くるみさんの頼み事ってよりつばめさんのわがままでは?」
失敗したと思ったのは、突っ込んだ途端くるみが申し訳なさそうに瞳を伏せたからだ。
「ごめんなさい、そうよね。家庭科室を借りれないか先生に相談してみるから——」
「待って、別に駄目とは言ってないから! くるみさん自身ももっと甘えてもいいのにって思っただけで」
「……甘え方なんて分からないし」
「普通にわがまま言うだけでいいのにな。兎に角いいですよキッチン。僕は湊斗の家にでも行ってますから、鍵は渡すので好きにしてください」
「そ……それはだめよ。前もだけれど、そんな気軽に人に鍵を渡して……いつか泥棒に入られちゃうわよ? そういうのを確か〈|Nachlässigkeit《不用心》〉って言うって知ってるんだから」
「信頼している人にしかこんなことはしません……って何でドイツ語分かるの?」
「あ。……えっと、冬休みの間にちょっとだけお勉強したのよ」
「ひとりで? すごいですね。ていうか僕に言ってくれれば教えるのに」
碧があれだけ苦労した外国語をさらっと覚えるあたりこの人って本当に何でも出来るんだなと思い知らされたが、くるみは全然誇らしげじゃなく、むしろ困ったように眉を下げている。
「……別にちょっと原書で読みたい小説があっただけだから。そういうんじゃないから」
「そういうのって?」
「……なんでもない」
まるでうっかり秘密を喋ってしまった人のように、くるみは横髪を指先で弄びながら何故かちょっぴり居心地悪そう。とにかく、と珍しくやや強い口調で話を戻してから、
「試作品のお菓子、二人だけじゃ食べ切れないから碧くんにもいてもらいます」
彼女の言葉が意味する味見係という響きに、一瞬で考えを改める碧。つばめは兎も角として、くるみはきっとお菓子も上手だろうから味見できるなら役得だろう。そんな僅かな打算もあり碧が強かに頷くと、くるみも安堵したように小さく笑みを浮かべた。
*
「おじゃましまーす!」
果たして日曜日、本当につばめがやってきた。
くるみは来客に出す茶を用意しているようで、勝手知ったるキッチンでカップを並べて湯を沸かしている。本来であれば碧がやるべき仕事なのだが、つばめを呼んだのは自分だからとくるみの申し出により今日は任せているし、彼女が淹れる紅茶は一級品なので来客の時は託すに越したことはない。
「なんていうかすっかり溜まり場になってきてるなぁ」
「学校から近くて一人暮らしなら必ずそうなる運命だから諦めるべきだよ」
「暴論だ……。それよかつばめさん、どうして僕じゃなくてくるみさんに連絡したんですか? 家主は僕なんですけど」
「訪問する了承を得るなら妻の方じゃん?」
紅茶のポットに放り込む茶葉を量っているはずのくるみから、かしゃんと音が聞こえた。見ると何やら計量スプーンをテーブルに落としてしまったようだ。つばめがおかしなことを言うものだから動揺してしまったらしい。
恥じらいで瞳を伏せている様はまさしく清楚でいじらしい美少女だが、自分もからかいの対象なのでのんびり可愛い姿を眺めている余裕などない。
抗議をするも虚しく、つばめはまるきり聞こえていないように台所の設備を見渡す。
「改めて見るとキッチンすごく広いねえ」
「もともとは四人で住んでいた家ですから。で、今日は何をつくるの?」
「えっとね、私の希望はココアのスモアクッキーかな。だって本当のチョコだとなんだか本気みたいだし……」
急にもごもごまごつくつばめに、気を取り戻したらしいくるみが、淹れたての紅茶を運んできつつ補足する。
「ボンボンショコラとかプラリネはすぐ出来ちゃうから、せっかくキッチンに立つならクッキーくらいが丁度いいの。お菓子づくりが初めての人でも挑戦できる難易度だし」
「そっかー。僕はココアとかクッキーよりもチョコとかケーキが好きだからそっちの方が味見役としては嬉しかったけど」
「碧のためにつくるんじゃないんだからね。そいえば、くるみんは誰かにあげないの?」
「予定はないわ。だってバレンタイン司祭と現代日本は縁もゆかりもないし」
つばめが話題を振るが、つーんと澄ましたくるみはその手の話に興味はないようで淡々と返しながら材料を並べたり準備を進めている。
「そんなこと言ったらサンドイッチ伯爵もカーディガン伯爵も関係ないと思うけどなぁ」
「くるみんってそういうところ意外と現実主義者だよね。ほら、碧はさっさとリビングで待つ! こっちは天下のパティシエがいるんだし」
「分かったから。くるみさん、退屈だから見ててもいいですか?」
「いいけど、オーブンを使うから近寄りすぎて火傷しないように気をつけてね。うろちょろされたら危ないからここが境界線ね」
そういってキッチンカウンターの堺をぴっと指差した。
辛辣かつだいぶ子供扱いされている気がするが、とにかく我が家の勝手知ったる調理場の主たるくるみの許可を得たので、早速エプロンを結んでキッチンに立つ二人を眺める。
美しい少女たちは、並んで立つとまるで麗しい二輪の花のようだ。
もとよりくるみは清楚可憐な学校一の正統派美少女として名高いが、つばめもちんまいながらモデルをやっているだけあって、すらっと引き締まった体躯だし、目鼻立ちも相当整っている。くるみを清純な白百合にたとえるとしたら、つばめは夏に堂々と咲き誇る向日葵、ただし撮影の仕事中はシックで大人っぽいミニクイーンオブナイト、といったところだろうか。
性格は全然違う二人だが、公私でギャップがあるのは大きな共通点だ。
ふたりは楽しそうにお喋りしながら、どんどん準備を進めている。
天板やボウルなどの道具を取り出して説明をするくるみと、ペンを手に一生懸命メモを取るつばめ。この様子だと大丈夫そうだな、と判断し、本格的にクッキーづくりに入ろうというところで碧はソファに戻ったのだが——
「ちょっと待って、つばめちゃんそのお砂糖ちゃんと秤で量った?」
「ううん量ってない! 目分量じゃ駄目なの?」
「駄目よ、お菓子づくりはちゃんと量らなきゃ——」
「ひゃあッ!?」
「きゃ……つばめちゃん、小麦粉はそっと出さないと……」
「——さっき大丈夫って言ったの誰でしたっけね」
思わずキッチンに舞い戻りつつ犯人に目を向けると、もあもあと白い粉まみれになりながらつばめが咳き込んでいた。なのになぜかめげた様子はなく、ごしごしと目許を袖で拭ってにんまりと笑う。
「ううん、大丈夫! 絶対に美味しいクッキー焼くんだから」
「気合いだけは一丁前なのになあ」
「大丈夫だいじょうぶ。教えた手順どおりにやれば、ちゃんと美味しく焼けるから」
「うん!」
秤にバターを乗せて、小麦粉をふるって、お砂糖を加えて——。
いつになく慎重で真剣な手捌きを見ていると、かつて湊斗に見せてもらったモデルの時のつばめの写真を思い出した。
あの時も今と同じくらい、何かに本気なかんじがしたからだ。
「そういえばずっと気になってたことがあるんですけど」
ふたりが手を止めてこちらを見た。
「つばめさんってどうしてモデルやってるんですか?」
「えー碧、急にどうしたの? つばめちゃんのこと気になっちゃった?」
「いやちんまいのに……ってうわ、パーカーの紐引っぱんないで!」
にこにこしたままなのが余計に怖い。嫌味や意地悪を言うつもりじゃなくて単に気になったから尋ねただけなのだが、本人は小さいことを気にしているらしい。悪いことをしてしまったと思う。
「いやだって、身長が足りなかったらそもそもモデルになろうって思わないじゃないですか。……ってごめん、この言い方でもやっぱりなんか嫌なかんじしちゃうな」
「ううん、言いたいことはよく分かるよ。私もまさか撮影のお仕事してるなんて何年か前は思わなかったもん」
それはそれで今の発言は聞き捨てならないけどね! とつばめは笑顔で紐を引っぱる。
「つばめちゃん、許してあげて。あとで碧くんには私からたっぷり叱っておくから」
「くるみんが言うならしょうがないなあ」
ようやく紐をぱっと離し、碧は解放される。いつからくるみはつばめ公認の僕のお母さんになったんだろう、と思ったが助かったのは事実だ。
「何かに、打ち込みたかったの」
らしくない様子でつばめが呟く。先程の回答だと、数秒遅れて気づいた。
「湊斗って普段やる気ないように見えてやる時はしっかり格好よく決める人なんだよ。そんな湊斗の隣にこの先いられるように、自分を信じたいから……自信が欲しかったの」
「だからモデルやってるって訳ですか」
「まあ……そんなとこかな?」
オーブンの予熱設定をしながら、話を聞いていたくるみが穏やかに言う。
「私はつばめちゃんのそういう勇敢で格好いいところ、すごく好きだな」
「くるみん……」
「今だって苦手でもお菓子づくりに挑戦してるでしょう? やってみたいなって思ったのを行動に移せる人ってすごく少数だから、私はそういうところ尊敬してるわ」
ダイニングに肘をつきながら、碧もゆるりと笑った。
「チョコなんかに頼らなくても僕が場所を譲らなくても、つばめさんは湊斗の隣に立てますよ。きっと明日にでもね」
「……なんだか嬉しいな。上手にクッキー焼けるようになったら、碧とくるみんにも差し入れするね」
つばめのはにかんだような笑みは、何故だかすごく眩しかった。
それからも紆余曲折あり、リビングが焼けた小麦とバターの香ばしい匂いで満ちた頃。
「お待たせ。綺麗に焼けたわよ。冷めてから召し上がれ」
両手にミトンを嵌めたくるみが熱々の天板をワークトップに乗せると、隣でメモをまとめていたつばめが瞳を輝かせた。
粗熱を取ってから皿にあけられたスモアクッキーは焼けたマシュマロがみょーんと伸びて楽しい上に、ココア風味で甘さとほろ苦さがいい調和を果たしており、味見なのも忘れて次から次へ口へ運んでしまった。
そうしておやつタイムと洒落込んだ後、ミルクティーを啜りながら満足そうにソファに背を預けた。
「ごちそうさま。すごい美味しかった」
「美味しいならよかった。つばめちゃんはメモ取ってたけど次は一人で出来そう?」
「何とかね! 取り敢えずマシュマロを事前に凍らせるのと小麦粉入れてからは混ぜすぎなければ良いんだよね?」
「ちゃんと大丈夫そうね。当日分からないことあったら連絡くれたら返事するから」
キッチンから声をかけるくるみに、メモ帳を開いて復習するつばめ。味云々以前に小麦粉まみれになるレベルなのに本当に大丈夫だろうか。
「けどくるみさん料理だけじゃなくてお菓子までお手のものなんてすごいなぁ」
「本当さすがだよねー……って私も調理に参加したんだけど!?」
「計量の後は結局見てただけじゃないですか。僕焦げ味クッキーは勘弁ですよ」
「碧しゃあしか! 湊斗は黙って食べてくれるもん」
「しゃ……なんて?」
「ほらほら、あまりつばめちゃんをからかうものじゃありません」
主につばめが散らかしたキッチンの現状復帰、もとい掃除片付けを終えたくるみが戻ってきて床に座ろうとするので、碧がもたれていたソファを空けてくるみをそこに座らせる。ついでに彼女がいたく気に入っているハスキーも渡すと、くるみは申し訳なさそうにしつつも淡くはにかんだ。
先代のウサギは実家で大切に可愛がっているらしく、今ではハスキーがこの家の担当を務めている。くるみがこれを愛おしそうに抱きしめている可愛らしい姿をよく見かける。
本人にはさすがに言わないが、可愛い女の子が自分の贈ったプレゼントと並んでいる姿というのは、実に男心をくすぐるものだ。
「くるみん何それ、狼のぬいぐるみ?」
「狼じゃなくてシベリアンハスキーな」
「ふうん、珍しいね」
つばめが興味ありげな視線を向けると、くるみは宝物を慈しむような視線をぬいぐるみに落とす。不覚にもどきりとしてしまった碧は直視できずに目を逸らした。
「……うん、そうなの。可愛いでしょ」
「可愛いけど……それって碧の私物?」
「に、見えますか?」
「なわけないか。四人家族って言ってたし、実は妹のとか? っていうか聞いていいか分からなかったけど、家族はどこに住んでるの?」
何となく答えづらいだろうと気遣ってくれたのか、くるみが代わりにぬいぐるみに関するところだけを拾って返してくれた。
「妹さんのじゃないよ。私が碧くんから買って貰ったの」
「なるほどー。碧って案外優しいところあるんだね?」
「優しいところしかないけど、今まで僕の何を見てたんですか。節穴ですか?」
「主にそういうところをだよ?」
笑って突っ込んだつばめがもう一度ぬいぐるみを見詰めて、小首を傾げる。
「にしてもどっかで見覚えあるなと思ったらそのハスキー、何だか碧にそっくりだね」
「えーそう? 全然似てないでしょ」
「絶対似てると思うけどなあ。白黒っぽい色の取り合わせとか、目の辺りとか似てると思うけど。くるみんもそう思——」
「ううん、似てないわ。全然似てない」
あのくるみが話をさえぎってまで強く否定した。ぎょっとして覗き込むと、なぜか頬を染め上げて曰く言い難い表情でヘーゼルの瞳を細めている。
なぜか絶妙に震え悶えるくるみをつばめは不可解そうに見ていたが、やがてぴーんと来たかんじで人差し指を立てた。
「……あ、もしかして」
つばめはくるみの居た堪れなさそうな表情と膝にちょこんと乗ったハスキーを交互に見比べてから、にやりとほくそ笑む。
「そっかそっか。そういうことね? だからそんなに大事にしてるんだー」
「あっあの、つばめちゃんこれはそういうんじゃ……」
「否定しなくてもいいのに。今度さ、二人の時にゆっくり話さない?♡」
「お二方、さっきから会話が見えないんだけどどういう——」
「あ……碧くんは黙ってて!」
らしくない口調で余裕なさげにぴしゃりと返され、碧は女子二人組の隠された会話の意図が読み解けないまま、きょとんとするしかなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回あたりから、糖度高めのお話(当社比)が続きます。
この作品全編通して言えることですがお供にコーヒーのご用意をお勧めします。
なお、まだお砂糖さんの余力はたっぷりです。
あと五段階ほど糖度の余地を残していること、ご承知おきください。




