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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
32/270

第32話 兎さんとアイスクリーム(2)

 くるみはコーヒーよりココア、紅茶よりミルクティーが好きだ。


 家では銘柄にこだわっているらしいが、碧が出したものは大抵文句を言わずに優雅にいただく。なので最近は碧も、くるみをちょっとでも労わるために、いい茶葉をちょっとずつ集めるようになってきていた。


「さて、アイスはっと」


 ポットに湯を注いでから、バニラアイスを取り出す。チョコや抹茶のストックもあるが、くるみはほろ苦いものよりまろやかでミルキーな風味のものがお好みらしい。


 淹れた紅茶に温めたミルクを注いでリビングに持っていくと、くるみはテーブルに数学の参考書を広げていた。後ろから覗いてみると、そこには碧の全く知らない単元名が記されていて思わず、うわっと声を上げた。


「三角関数の導関数……? ちょっと待ってください。そんなの学校で習った記憶が一切ないんだけど」


「そうね、習ってるはずないわ。これ数学Ⅲだし」


「数……Ⅲ……? 僕たち今習ってるの数学Ⅱですよね?」


「私は昔から先取りをしっかりしておく派だから。予習さえしておけば、後は授業を一回聞くだけで試験は九十点以上は確実に取れるし。家でもちゃんと授業の復習はしているけどね」


 さらっと恐ろしいことを言って、整った文字で難解な計算式をさらさらと記述していくくるみ。これが彼女の成績優秀の秘訣らしい。といっても、真似する気には絶対になれないけれど。


 思えば彼女はうちに来るようになってから、隙間時間によく勉強をしている。碧を少し待つ間にもポケットサイズの参考書を読んだり、暗記カードを取り出したり。


 学校ではそういう姿を一切見せないらしいし、本屋で偶然出会ったときも己の努力を見せることを厭っていたが、碧の前ではあまり隠さなくなってきたあたり、最近は少しずつ心を許してもらえてきたのかもしれない。


「ちょっと休憩にしませんか。ほら、お望みどおりバニラアイス持ってきたから」


 ミルクティーのカップと一緒にスプーンとアイスを置くと、くるみの表情が花咲くように一瞬ぱぁっと明るくなった。


 が、すぐにそれは雲隠れし、眉を下げて様子をうかがうようにこちらを見上げるので、そのころころする表情の移ろいが碧はなんだか面白くて、思わず吹き出してしまった。


「ふふ……そもそもバニラがいいって自分で言ったんじゃないですか。そんなおねだりする子猫みたいな目で見なくてもあげますって。男子の一言金鉄の如し、ですから」


「べ、別に私そんな目で見てないのに」


「本当にもらっていいの? っては思ってましたよね?」


「それは……」


 くるみは、他人には優しく尽くしてくるのに、自身は甘えるということを知らない。


 多分さっきのも、遁走の口実に利用しただけなのだろう。


 控えめで慎ましやかは日本人の美徳らしいが、もっと自分を頼ってほしいし、これくらいの些細な優しさくらい受け取ってくれた方が碧は嬉しいのだが。


 くるみは尚も妙ちきりんに、渡されるがままのスプーンを手に困った様子。

 このままじゃアイスが解けてしまう。


「自分をちょっと甘やかすくらい偶にはいいじゃないですか。いっつも厳しくしすぎるのも考えものだし。なんなら僕が食べさせてあげましょうか?」


 こういう時くらい息抜きしてほしくて、いつものちょっとした冗談のつもりで言ったのだが。


 くるみは神妙な面持ちでおとがいにか細い指をあてて何かを思案し、


「そ……そこまで言うなら、じゃあ碧くんが食べさせて」


 返ってきたのは、衝撃の返答だった。


「え? でも——」


「碧くんが言ったことなのよ。男子の一言金鉄の如し、なのでしょう?」


 このお嬢さんは本気で言っているのだろうか。


「そこまで言われたらじゃあするけど……恥ずかしくないの?」


「碧くんにされて恥ずかしくないかどうか確かめるためにしてもらうの」


「……なんで?」


「な、何でもなんですっ」


 ぴしゃりと怒られる。


 意図は教えてくれないようだが、くるみも全くもって涼しげで動じていないというわけではなく、多少の狼狽がうかがえた。声が揺らぎ、耳もほんのり赤いからだ。


 じゃあ僕のばかな提案なんかに乗らなきゃいいのに、と言いたかったが自分発祥の成り行きに抗うことはできず、ええいままよの勢いで、頬を引きつらせながらもアイスが解けてしまう前にスプーンでひとくちすくい上げて差し出す。


「……ほら」


 投げやり気味に近づけると、くるみもくるみで自分から承諾したくせに、さらに耳まで朱に染めてじりじりと仰け反った。解けかけのアイスを睨みながらおそるおそる近づき——最後にはとうとう意を決したようにスプーンをぱくっと口に含んだ。


 まるで子猫におやつをやってるみたいだったが、とはいえ相手は極上の美少女だ。女の子にあーんをしたという事実からか、ひんやりとしたアイスが一瞬でとろけてしまうくらいに頬が熱くなっている。


 最初は何でもない振りしてた彼女も、じっと見つめていると段々ぼろが出てきた。

 黙ってうつむき、居た堪れなさそうに床に視線を落としている。


「……で、恥ずかしい?」 


 彼女がぷるぷる震えているのを分かりつつ尋ねると、くるみはぎゅっと目を瞑って、やけになったようにこくこくと頷く。


 スプーンを渡しつつ眼差しでもう一度なぜこんなことをと問いかけると、くるみは初めは口を閉ざしていたもののとうとう根負けしたらしく、目を逸らして呻きながら辿々しく言い訳を始める。


「……私自身が碧くんのことをどういう目で見ているか、はっきりさせたくて」


「ふうん?」


「今まで学校の男子に可愛いなんて言われても心に響かなかったのに、碧くんは私によく思われたいって打算なんかなくて、本当に思ったことをただそのまま言ってるんだなってのが……分かるから、他の人みたいに受けながすのが上手く……出来なくて」


「そ、そっか?」


「だからもしかしたら、私が碧くんを……その、きちんと男の人として見てるのかなって思って、本当にそうなのかどうか確かめなきゃいけないって……思って。もしこれで恥ずかしくならなかったら、大丈夫いつもの私だって、持ち直せると思った、のに」


「……」


「…………」


 くるみの語りが途切れ、碧もまた何か言うことをできず静寂が支配する。

 初めは到底理解が及ばないような言及が続いていたが、彼女の言いたいことがすとんと落ちてくるにつれ、碧も己の脈がどんどん早鐘のように加速するのが分かった。


 つまり今の発言は、くるみは碧を他の生徒とは違ってきちんと男の人として見ている、という告白だったのだ。

 碧が打算なしに彼女を褒めていたのは事実だが、まさか自分の何気ない一言にそこまで心を乱して狼狽えたりしていたなんて思いもよらないことだった。何か言わないと、と言葉を探しているとくるみがはっと我に返り、それから榛色の瞳に涙を孕ませて弁解する。


「あ……別にそういう意味ではなくてっあなたとどうこうなろうだなんて思っていないから! ……ただ高いところに手が届いたり私を受け止めたりしてるのを踏まえると、男の子なんだなって……」


「いやそれは分かってるけど……」


「だってだって、嫌でも意識させられるでしょう。私は一人でもいいって言ったのに聞かないで、いつも物語の騎士様みたいにすぐ助けに来て……」


 くるみはほんのり怒ったような口調で、潤んだ瞳で何かを訴えるようにこちらを見上げてきた。その反面紡がれたのはとんでもない誉め殺し文句なのだが。


 だが僕は騎士なんて柄じゃないと卑下しようにも、照れつつまっすぐこちらを見つめるくるみの真摯な瞳が、それを許さない。そのまま、見つめ合いが数秒。やがて堪えきれなくなったのか、くるみが淡く染めた頬をうつむかせながら羞恥に震え出すので、碧も生まれたてのもどかしさや照れくささをどうするべきか分からず、その場に立ち尽くす。


 そんなに恥ずかしいならあーんなんてやらなきゃよかったのに、なんて今さら言っても遅いことくらい分かっている。


 碧の様子を見て余計に照れてしまったのか、くるみはウサギのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめ、照れを隠すように顔を(うず)めていた。


 そのちょっとした仕草すら今の碧には、冗談にならないくらい心を揺さぶってくる。


「……僕、向こうで片付けの続きしてくるから」


「う、うん」


 できることはただ、この場を離れることのみだった。


 冷たいアイスですら奪えない頬の熱を持て余し、底冷えした真冬の廊下に身をすべり込ませる。壁に体を預けてしばらく深呼吸をしていると、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。


 今さらだけれど、この距離には、関係にはどういう名前がつくのだろう。


 契約相手であり同じ学校の生徒であり、同い年の知り合いでもあるふたり。


 今までも確かにくるみのことを可愛い人だと思っていたし、最近は愛おしいなとも思うが、かといってあくまで同級生として認識していたので、色恋に苛まれるようなことはなかった。ちょっと危ない瞬間はいくつかあったが。


 ツンツンするくせに直後にしょんぼり後悔してるのも可愛いし、せっせと健気に世話を焼いてくるのもずっと眺めていたくなる良さがあるし、最近は表情がくるくるかわってつい目を奪われてしまう。


 純情すぎるところとか、不意を突かれて狼狽えるようなところもあるけれど、そこも含めてくるみはくるみなのだ。


 とその時、リビングの扉が開き、眉を下げた彼女がためらいがちに姿を覗かせた。

 彼女もまた、なんとかアイスをいただいて頬の熱を冷ますことができたらしい。


「……碧くん」


「アイス美味しかった?」


「うん……ありがたくいただきました。……ひとつ、聞きたいのだけれど」


 お礼を言ったくるみは、すっとこちらを見上げて、口を開いた。


「碧くんは私のことよく優しくしてくれるし、頼っていいって言ってもくれるけれど、それは私だけなの? ……他の人にも優しいの?」


 おそらく、さっき碧をどう思っているか確かめた時の延長線上にある問いだ。


 これの返答でこれからの関係がどう転んでいくかは碧にも予想がつかないが、今はただ正直に答えることが一番の誠実だろう。


「優しくは他の友達にもするよ。……けど優しくしてあげたいって思ったのはくるみさんだけですよ。なんか放っておけないというか。余計なお世話でしょうけど」


「余計なんかじゃ……ない」


 思わずはっとする。くるみはへにゃと眉尻を下げ、それから風前の灯のように小さな声で言った。


「本当はね、嬉しかったの。助けてもらえて。歩道橋の時も、届かない本棚の時も、木から降りる時も」


 それはあまりに意外な言葉だった。

 てっきり、彼女は……望んでいないと思っていたから。


 完璧という理想を求め続けるくるみの(たま)の止まり木に、少しはなれたということだろうか。


 と同時に、その言葉は今この瞬間にしか聞けない儚いもののように思えて、碧は息を殺して彼女に体を向ける。


 リビングから洩れた灯りで生まれた影の中で、くるみはヘーゼルの瞳をどこか嬉しそうに細め、まるで沫雪(あわゆき)みたいに美しく儚げに口許を綻ばせ、


「ありがとう。……私に糸を垂らしてくれて、ありがとう」


 それだけ言い残してリビングに引っ込んでいった。


 手を差し伸べたい。そんな碧の言葉は、気持ちは、彼女に届いていた。

 押し付けがましいのは自覚していたし、別に何か報われることを期待した働きをしたつもりなんかはなかったが——それでも伝わっていたと言う一点で、心が湯たんぽのようにじんわりと温かくなる心地がした。


「ああ……よかった。諦めないでいて」


 くるみには届かぬよう、蝶の羽ばたきくらい小さく呟く。


 今まで人と話すのが好きでいろんな言語を覚えてきて、いろんな国の人と話せるようになって、けれど唯一彼女にだけは届かなかった言葉を——受け取ってもらえた。


 伝わらないもどかしさも、突っぱねる意地も乗り越えて。


 けど、それでもまだ、決して自分から助けてとは言わない。この間の木登り同様、ここから先は彼女の意志次第だ。碧がどうこうできる領域ではない。


 瞳を閉じれば、碧の静かな黒の視界に焼きついているのは、くるみの純真で柔らかな表情の綻び。


 初めて鯛焼きを食べた時の透明な笑み。

 外国のコインをあげた時の花咲くような笑み。

 影踏み勝負で見せた、年相応の少女としての可憐な笑み。


 さっき碧が自分の気持ちを伝えた時の、雪解けのような美しい表情。



 ——ずっと、そんな笑顔でいればいいのに。



 彼女を縛る全てのしがらみが、真夏の陽射しに照らされたアイスクリームみたいにとけて消えてしまえばいいのに、と。


 したためた宛名のない手紙を瓶に詰めて海に流すように、伝えられない思いを校舎の三階から紙ひこうきにして飛ばすように。


 まだ少し先のサンタクロースに、そっと祈りを送った。


ずっと憧れだった週間ランキングに箱スノが掲載されていました。

読んでくださるみなさまのおかげです!ありがとうございます☺️


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【ちょっとしたエピソード】

アイスネタが第31話と偶然被ったので某BRでふたりがアイス選ぶとしたら何になるか考えました。

結果、くるみさんはコットンキャンディパステルとさくら、碧くんはナッツトゥユーとバニラでした。


2023.07.27追記:前の方の文字数多いエピソード後出しで分割してたらナンバリングがずれてしまいました!!!

32話になってしまった!!!! けどせっかくなので残しておいてます!!!


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