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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
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第30話 オレンジの憧憬(3)

「ちょ、ちょっと休憩……! 休戦協定結びませんかくるみさん……」


 碧が情けない泣き言を吐いたのは、勝負が始まっておよそ十分後のことだった。


 日向は踏めないという縛りを課していることもあり遅々とした歩みだったのだが、文武両道のくるみは持ち前の運動能力を活かしてどんどん影を跳び移っては先に進んでしまい、置いていかれるわけにはいかない碧も彼女の真似をして押し通した結果、こうして見事に体力すっからかんになったというわけだ。


「いいけど、もう疲れたの?」


「疲れたからちょっとそこの公園寄らせてください……」


 木や柵の影を踏みながらなんとかベンチに辿りつく。息を整えてから、すぐ横の自販機で温かいココア缶を二つ買い、片方をくるみにあげた。


 ゆるりとした風がカカオの甘い香りを立ち昇らせる。疲れた体に、たっぷりのお砂糖が染み渡っていくようだった。


 遠くからけらけらと愉快な笑い声が聞こえてきたので目を向ければ、金網の向こうのグラウンドでは小学生たちがサッカーの練習をしている。


 楽しそうな子供達を見ていると、遠い昔を思い出す。そういえば外国語を覚えるきっかけになったのも、たとえば一緒に遊ぼうなんてこちらから勇気を出して、ボールを差し出しながら声をかけたところからだったっけ。


 昔はただの帰り道でも、すごく楽しかったのを覚えている。


 こうして影だけ踏んだり、落ちてる木の枝を振り回したり、寄り道した公園で鬼ごっこしたり。あの頃は誰だって宝の地図を持っていたように、一つの街の小さな一角ですら、幼い頃の自分たちには世界そのもののように思えた。


 感傷に耽っているとその時、ベンチに座った碧の足下にころころとサッカーボールが転がってきて、スニーカーのつま先にこつんと当たって、止まった。光と影の境界線で真っ二つにわれたサッカーボールが、夕焼けに寂しげに佇んでいる。


「すみませーん! ボール投げてくださーい!」


 グラウンドを見ると、小学生の子供達がこっちに手を振っているのが見えた。


「あら、あのフェンスを越えるなんてずいぶんと腕白なボールですこと」


「まったく最近の子供は、風の子元気の子ですねっと」


 碧はそれを拾い上げると、助走をつけて思い切りぶん投げた。


 風にあおられ、しかしなんとか子供達のもとへ舞い戻って行ったボールを見送ると「ありがとうございます!」と元気のいいお礼が響いてくる。


 満足げに振り向くと、くるみの視線が碧の足下に注がれていた。


「何、どうしたの」


「碧くん、見て?」


 可笑しそうに笑みを浮かべて碧の靴のあたりを指差すくるみの言うとおりにすると、


「…………あれ?」


 気づけば、碧の足下にあった影はすっかりいなくなっていた。

 というよりはおそらくボールを投げた時、いきおい余って碧から勝手に出て行った。

 正真正銘、夕陽に染まった砂利のど真ん中に突っ立っている。


「あの、優しさゆえの結果で誠に残念なことだけれど……碧くんの負けみたい」


「え? これで負け?」


「だって日向踏んじゃってるじゃない」


 理不尽なゲームオーバーに唖然とする碧。


 しかし何度見ても、自分はなんの影も踏んでいない。諦めきれず、何かの間違いであわよくば引き分けになってないかとくるみの足もとを盗み見るも、その焦茶のローファーはしっかりと不動の木々の影をとらえている。


「いやいやまさか初めての人に負けるなんて。不覚だ……」


 大きく嘆きつつも、負けをきちんと受け入れたところで、今の所をどういう立ち回りをすれば生存できていたかを必死に振り返る。影のなかからなんとかしてボールを投げ返すか、あるいは恥を忍んで、小学生たちが見ているなかで影だけ踏んでグラウンドに渡しに行くか——


「ふふっ」


 そんな碧の逡巡は、夕風に乗って届いた穏やかな笑い声に打ち消された。


 見ると口許(くちもと)に手を当て、くるみが亜麻色の髪を揺らしながらくすくすと笑っていた。


 自嘲の笑みでもなく、愁いを帯びた儚げな笑みでもない。なんというか、もっと無垢で年相応であどけなさすら覚えさせる、柔らかな綻び。


 それは恐らく碧が初めて見る、彼女の心の底からの笑み。


 時を奪われるとは、まさに今のような時に使う言葉だと思った。


 ——可愛いな……。


 気持ちがざわつく。同時に愛おしいと思った。

 この笑みを守りたいな、と思った。


 それは何故?


 自分がこんな感情を持つなんて、想像すらしなかったのに。


 頬が先ほどからじんわりと火傷しそうなほどに熱くて、照れていることは鏡を見なくたって分かる。


 立ち惚けていると、鈴の音のような笑い声を零す合間に、くるみが言った。


「ふふ……こんなに楽しいの、何年振りだろう」


 碧はそれをぼんやり見つめることしかできない。


「私、知らなかった。昔できなかったことは、大きくなってからでも取り戻せるのね」


 思わずはっとした。それは奇しくも、碧が初めてくるみに手料理を振る舞ってもらった時に思い浮かべたのと同じ言葉だった。


「十六歳になっちゃって、もうこういうのは二度とできないと思ってた。時間が降り積もっていくほど、小さい頃の小さな夢はどんどん見えなくなってしまって。……けどできた。思っていたよりもずっと呆気なくて、突然に。多分それは、あなたのおかげで」


 さっきの笑みと同様、彼女にしては珍しく棘のない——あるいはおそらく本来の彼女のものであろう丁寧な言葉に、しかし碧は首を振る。


「僕のおかげなんかじゃない。だって僕に最初にそのことを教えてくれたのは、他でもないくるみさんだから」


「私が?」


「うん。してくれたんだよ。覚えてないかもしれないけれど」


「……へんなひと。私は何もしていないのに」


 くるみはまたくすりと笑ってから、どこまでも優しい眼差しを夕陽よりも遠くへ向けた。空気に溶け合う柑子色(こうじいろ)と黄金の光が交ざり、くるみの髪を風とともに柔らかく(くしけず)る。


「私、こんなに楽しくて、いいのかな」


 風前の灯のように儚げに。ぽつりと、夕暮れの行き止まりのように呟かれた言葉が、どこかの小学校から聞こえる下校のチャイムと一緒に届く。

 碧はベンチに体を預けながらココアをくぴりと傾けて言った。


「なんで卑下するのか知らないけど、誰にも文句を言われる筋合いないと思いますよ。くるみさんの人生はくるみさんのものなんだから」


「……そう、なのかな。私のものでも、いいのかな」


「逆にくるみさんのものじゃなかったら誰のものになるんですか? そんなおかしな心配してないで、いつもみたいに穏当で正当で正々堂々とした自信もってればいいんですよ」


 返事は返ってこなかった。


 碧は空き缶をごみ箱に放り投げてから、その沈黙の時間を埋めるように、そっと語り始める。


「僕は子供の頃、空き瓶を集めるのが好きだったんですよ」


 唐突な切り出しに、くるみが不思議そうな眼差しを向ける。


「そのなかに綺麗なビー玉とか、日本から届いた手紙の切手とか、旅先の海辺で拾った貝殻とかを集めて詰め込むのが好きだった」


 嫌なことがあっても、自分の宝物を詰め込んだそれを寝る前に眺めれば、不思議と穏やかにいい夢を見れたのを覚えている。


「人って、硝子(ガラス)でできた空っぽの瓶みたいなものだと思ってるんです」


 陽が沈み始めるぼんやりした空の下で、しかしどこまでもはっきりと碧は言った。


「自分の世界は、自分の好きなものを探して、空き瓶に詰め込んで創っていく。その瓶に何を詰め込むのかはその人の自由。硝子を曇らせるのも、拭い上げるのもその人次第。どうなりたいかなんて、他の誰でもなく、自分で決めるべきことだ」


 物語に栞を挟むように、話し終える。

 ここまで静かに聞いていたくるみが、ようやく口を開く。


「碧くんの空き瓶には、何が入っているの?」


「友達、読書、誰かと話すこと、昔は同級生と遊ぶサッカー、今は一人で聴く音楽。飛行機とか電車とか……まだ見たことないものを探しに行くだとか、そういうの」


「それが碧くんの世界、か」


「くるみさんのお料理も仲間入りさせたいと思ってる」


「それはとても光栄ね」


 不意に、再びの静寂が訪れる。その空白を埋めるように、今度はくるみが夕焼け色の風にそっと声を乗せた。


「私も見つけたいな。瓶にずっととっておきたいって思えるような宝物」


「春に公園でお弁当たべたりでも、夏に海辺を散歩したりでも、秋に金木犀を探したりでも。その時にまだ関わりがあれば、僕はなんでもつきあいますよ。……もし旅行するとして、行き先がドイツなら僕も自信持って案内できるし」


「……じゃあ今度また、碧くんにドイツ語教えてもらおうかしら」


「次は買い物するときの日常会話からですね」


 たとえば十年後、あるいは二十年後。

 夕陽に照らし出された自分の影法師を見たとき、きっと今日のことを思い出すのだろうなと、碧はなぜだかそう強く予感した。


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