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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
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第29話 オレンジの憧憬(2)


 図書室を出たあと、時間ちょうどに待ち合わせの公園に行くと、くるみは木陰の下のベンチで参考書を開いていた。巻きつけたチェックのマフラーに可憐な面差しを埋めた様相はまるでシマエナガみたいだ。


 ひんやりした桃のシャーベットの上に、ちぎり蜜柑みたいな柔らかい三日月を浮かべた空が美しい。その夕焼けの下で、どこからか迷い込んできた雪の妖精さながらの綺麗な姿が、淡く輝く。まるで水彩絵の具で描かれた絵本の一ページのようで、つい目を奪われてしまう。


 くるみはこちらに気づくと、涼やかな中に金平糖をころころ転がすような甘さをほんのりと見せながら、目尻を下げた。それはきっと、遠くから見れば分からないような小さな表情の移ろい。先ほどつばめが余計なことを言ったのを思い出して、危うく意識してしまいそうになる。


「お待たせしました」


「うん、待たされました。十分前行動が常識なのに、まさかちょうどに来るなんて」


 ぱたんと参考書を閉じて、京都人の弟子の弟子みたいな嫌味を返すので、碧は思わず苦笑してしまった。


「そこは今来たところって言うところじゃないんですか?」


「あなた相手に気遣いの言葉を言ってもしょうがないでしょう」


「日本語が下手くそだからって僕のこと、親しき中にも礼儀ありって諺すら知らないと思ってません?」


「その様子だと礼勝てば則ち離るという言葉は知らないみたいね。親しい間でも行きすぎた礼儀はかえって無礼になるものなのよ」


「くるみさんは僕との仲を親しいと思ってくれていたんだ?」


 碧が言うと、くるみの白い頬がさっと紅潮した。


「別に、誰もあなたのこととは言ってない」


「返し方にいつもの切れ味がないですよ」


「あ……碧くんだっていつも……そのえっと」


「わかった、わかった。思いつかないのに無理して悪口探さなくてもいいですからね」


 穏やかに返すと、くるみは拗ねたようにそっぽを向いた。

 それを碧は回り込んで覗き込もうとする。気づいたくるみが、またそっぽをむく。

 またちらっと覗き込む。またぷいっと明後日を向かれる。


 そんな追いかけっこを何度か繰り返したところで、


「もうっ! 遊ばないの!」


 ぺちっと肩を引っ叩かれて終了した。


「なんだか一歩高いところから大人の余裕を見せつけられているみたいというか、掌で転がされているかんじがするというか……釈然としない。やっぱり海外で暮らすと、少しのことだと動じなくなるの?」


「僕はただ普通にお喋り楽しんでるだけなんだけどな。くるみさんの方こそやたらと僕のことお子様扱いしてきますよね」


「あなたはきっと十六、私も十六。けれど同い年の男の人よりも女の人の方が三歳ほど大人びているものよ。だからお子様扱いして然るべきです」


「またすごい理論持ち出してきたな……」


「じゃああなたは誕生日いつ?」


「十一月七日。覚え方はいいなです」


「私は九月十四日。ほら、やっぱり私の方がお姉さんだわ」


「二ヶ月だけじゃないですか」


 くるみが先に歩き出すので、碧もその後を追う。


 スーパーに着いてからは、ふたりでひとつのカートを押しながら買い出しを行った。


 会計は任せた方が都合がいいだろうと碧が財布を渡すと、くるみは目を丸くし、(うやうや)しくぎこちなく受け取る。


 買い物中に思ったことなのだが、やはりくるみは合理主義というか、きちんと値段をチェックした上で先ほどの買い物メモをあつらっていたようである。お嬢様だからてっきり成城石井でしか買い物したことないと思ってました、と言ったら呆れた視線を向けられた。


 その上彼女は、碧の家の醤油がなくなりかけていたことにも気づき、料理向けの大きなボトルのものを商品棚から手に取っていた。主婦力高いな、と敬服しつつも、碧は将来の本物の一人暮らしを見据えてその手腕をしっかりと観察する。


 プリンをこっそりかごに入れようとして「めっ」なんて叱られたりしたものの、なんとか買い出しを終えた碧は、ノート類のほかに食材の詰まったリュックを背負い上げた。


 くるみは自分も半分持つと聞かなかったが、重いものを持つのは碧が譲れない数少ない役目だ。


 どころか、碧は彼女にいろんなことを教えるという約束を果たさなければならない。


「くるみさんって何かしたいことあります? それでなくても見たいもの、会いたい人、聞きたいこと。約束だし僕ができる限りでなんとかしますけど」


「したいこと……」


「南極にペンギン見に行きたいとかなら、早めに相談してくれないとさすがの僕も厳しいかもしれません。一人おおよそ百万だから毎日バイトしても何年かかるか……」


「別にそんな難しくて厄介なことお願いしませんっ」


「じゃあくるみさんをキャリーケースに詰め込んでドイツに連れて帰る」


「それはそれでお荷物みたいでいやよ」


「くるみさんはじゃあ他にどんなことがしたいんですか?」


 問いかけると拗ねた榛色の瞳をどことなくしょんぼりさせて、まるでスノードロップの可憐な花のように、くるみはうつむいた。


「よく分からないわ。自分がどうしたいのかなんてあまり考えたことなかったから」


 碧はうーんと唸って丸っこい三日月を仰ぐ。


「じゃあ一緒に探して見つけていくしかないか」


「……ごめんなさい」


「いや謝ることないでしょうよ。これも、契約相手たる僕の務めですから」


 ぼやきが空に吸い込まれたその時、きゃっきゃと遊ぶ声が聞こえた。茜さす夕暮れ、店の前の駐輪場ではランドセルを背負った子供たちが、長く伸びた影だけを踏みながら帰路についていた。


 懐かしいな、子供の頃は白線だけ踏んで帰るとかもやったな、と眺めているとふと隣の少女が気になった。


 くるみはなにか遠いものを見るような眼差しで、子供たちの方を見つめている。


 多くはそれを郷愁や望郷の念、かつての少女時代の記憶を辿り懐かしむようなものと思うだろう。


 けれどそうじゃないことを、碧は知っていた。なぜならこの瞳は碧の水彩画を見た時と同じ、自分では決して手の届かない羨望と憧憬、それらを綯い交ぜにした色を隠していたのだから。


「……もしかしてくるみさん、あの影だけ踏んで帰るやつやりたい?」


「えっ! ど、どうして?」


「ほっぺたに書いてあったから。鏡見ます?」


 焦った様子で本当に鞄から手鏡を取り出すので、思わずふふっ吹き出してしまった。はっとしたくるみから、恨みのこもった瞳を向けられてしまう。


「い、いつもならこんなしょうがない嘘に引っかからないもの」


「くるみさんって可愛いですよね」


「その可愛いは、間違いなく人を小馬鹿にする時の可愛いだわ」


「冗談を真に受けちゃって純情で可愛いな、の可愛いですよ。今時珍しいくらいに」


「やっぱり小馬鹿にしてる。碧くんは二ヶ月年下のくせに小生意気です」


 いつもの凛とした眼差しはどこへやら。普段より若干幼い声色のくるみは眉を下げて、恨みがましげに視線を地面に落とした。


 そんな様子がなんだか微笑ましくて、もどかしくて。碧はからかうのをやめて、すぐ近くの駐輪場に止まるスクーターの影にさっと入った。


「三秒以内に影に入らないとくるみさんの負けでーす! はいさーんにーいーち——」


「えっ……何。始まってるの?」


 慌てて、すぐそばの木陰に入り込むくるみ。だが木の周りには跳び移れそうな影はない。一番近いのでも碧のいる駐輪場の影なのだが、そこまでの距離ですら電車の座席四つぶんはある。言わば陸の孤島だ。


 木陰でオコジョのようにぽつんと立ち尽くす姿に、碧は思わず吹き出した。


「……くるみさん、下手。もっとちゃんと周り見ないとすぐ詰みますよ?」


「し、しょうがないじゃない。あなたが急かすんだし、その、こういう幼い遊びには縁がなかったから」


 誰もが一度は子供だったはずなんだけどな、と碧は笑みとともに息を洩らした。


 くるみは控えめにきょろきょろ困った様子。こういう遊びをやりたい気持ちはあるものの、やはりまだ吹っ切れていないというか、高校生にもなってという常識に囚われてしまっているらしい。


 自分で言い出したのに、と思わなくもなかったが、くるみがしたいことに全力で乗っかるのが碧の契約相手(パートナー)としての役目である。


 そこで碧は、ひとついいことを思いつく。


「そうだ。僕が負けたら、デザートにアイス奢ってあげます」


「? 影踏みってそういうルールなの?」


 どうやら碧の思いつきを万国共通のものと勘違いしているらしいくるみが神妙な面持ちで世間知らずさを発揮しているが、面白いのでそのままにする。


「ほらほら、オコジョにそっくりのくるみさん。いつまでそこにいるんですか。早くしないと置いてっちゃいますよ」


「オコジョって、北国に住むあの白くて可愛いの……」


「いや、諦めてスマホで画像検索してないで早くこっちきてくださいよ」


「だ、だって。ここから動けないんですもの」


 むっとしながらも、何かを考え込むように口許(くちもと)に手を当てるくるみ。


 さすがに意地悪がすぎるとせっかくの影踏みを嫌いになってしまうかもしれないので、救済策を用意する。


「じゃあ一人二回まで、三秒間ひなたを踏んでもいいことにしませんか?」


 提案という名の温情に「んうー」とか「でもでも」とか可愛らしい声で逡巡した挙句、


「……やっぱり、自分で何とかする! 私ならぜったい、大丈夫」


 自分を奮い立たせるような意気込みに呆気なく突っぱねられた。どうやら、何か策を思いついたらしい。


 じりじりと退くくるみに、碧は瞠目した。


「そこから跳ぶの? けっこう遠いし、今は制服だし革靴(ローファー)だし、スクールバッグだって馬鹿にできない重さじゃあ——」


「大丈夫だいじょうぶ。出来ないことがないのが、私なのだから」


 碧の心配をよそに、くるみは木陰のぎりぎりまで退くと、助走のため駆け出した。


「えいっ」


 日向と影のコントラストが織りなす線を踏みながら、掛け声と共に、自転車の影へと跳び移る。制服のスカートがふわりと舞い、逆光に浮かび上がる姿に思わず見惚れてしまった。


 その華奢な体の後ろに天使の翼を幻視するほど美しく舞い、すたっと降り立ったくるみ。栗毛の絹束を揺らしながらすくっと起き上がり、その華麗な体捌きとは裏腹になぜだか困った様子でおずおずと申し出た。


「碧くん。靴の半分がひなたを踏んじゃった。……これはセーフ?」


 我に返った碧が手でOKを作ると、くるみはふわっと表情を明るくさせた。と思いきや、そのまま影の上をてくてく歩き出し、再びウサギみたいに影から影へぴょこんと跳ねた。とったん、と小気味いいローファーの音が碧の耳朶をくすぐる。


「なんだか……思ってたより楽しいかも」


 振り返ったくるみの小さな笑みは、つばめのそれのように分かりやすいものではなく、ほんのり淡いはにかみに満たされたささやかなもの。


 けれど今までに一度も見せたことのない、いつもの彼女からは考えられないほどに甘く解けた表情。



 それを見て、そして唐突に理解する。


 ——ああ。

 この等身大な笑みが、この人の本当の姿なんだろうな、と。


 学校で凛と咲き誇る高嶺の花としての、儚げで楚々とした妖精姫の姿も。


 碧にだけみせる、つんと澄ましてはけんもほろろな刺々しさも。


 どちらも、彼女をかたちづくる一面ではありつつも、本質ではない。


 彼女のことを知った風な口聞けるような立場でもないが、前者は世渡りを上手く行うため、言うなれば心の繊細なところを守るための鎧の姿だというのは分かっている。であればさしずめ後者は、普段無理して取り繕っている反動が出てしまっている……というところか。


 なぜかひどく寂しい気持ちになって思わずじっと見つめてしまっていると、くるみはさっきまでの淡いはにかみをすっと引っ込めた。いつもの僅かな刺々しさと困惑を等分させたような眼差しで、こちらを見上げる。


「どうしたの? そんなにじろじろ見て」


「いや。今のすごくいい笑顔だったなって思って」


「……私、笑ってなんかいないもの」


 ほら、また。


 これだから、楪くるみという少女はどうしようもなく危うく見えてしまうのだ。

 しかし本人は碧がそんなこと思っているなんて気づいていないようで、怪訝そうに小首を傾げてから、碧を置いて先に行こうとする。


「あ、ずるい! ちょっと待ってよ」


「ふたりとも一歩も影から出なかったら、先に家についたほうが勝ちになるでしょ?」


「それはそうだけど!」


 くるみは再び影から影へと華麗に飛び移る。


 なんだか、分が悪い勝負を申し込んでしまった気がする。この遊びって、こんな運動能力でものを言わせるものだっただろうか。


 けれどこんな帰り道は、記憶の引き出しの一番底に眠っているくらい大昔の、友人と家路についた時以来で。


 物心つく前に暮らしていたこの日本の街には、もう帰ってくることはないと思っていたのに、今ここにいる。色褪せていたはずの案内標識も目印にしていた曲がり角の民家も時の移ろいと共にかわってしまったけれど、確かにここは昔過ごしたあの街だ。


 十年越しの影のなかにあの日々のことを思い出して、あの頃からずいぶんと高くなった視点で、夕焼けに染まるコンクリートに伸びたふたりぶんの影法師を揺らしながら、童心に帰るこんな時間もきっと悪くないと思う。


 なんだかどうしようもなく楽しくなってきて、碧は鞄を背負った小さな後ろ姿を、弾んだ足取りで追いかけた。


面白かったらブクマと評価いただけると嬉しいです。

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